幸せの再演
三上芳紀(みかみよしき)
青空
篠本賢吾は、病院で診察を受けると、電車に乗って家の近くの駅に降りた。十月中旬のことだった。秋の風を頬に受けながら帰り道を一人歩いていた。近道をするため、川沿いの道を歩いていた。川には、ほとんど水は流れていなかった。川底がむき出しになっているところもあった。昔は、きれいな水が豊富に流れていたのに、と篠本は思った。
ひと月前に彼は仕事を辞めて故郷に帰って来た。彼はある会社で営業職に就いていた。業種は製造業だった。大きく事業を展開していたから、彼は常に日本中を飛び回っていた。海外に出張することも度々あった。三十半ばの彼は営業部の中心戦力だった。経験もある上に、まだ若い。仕事が集中した。
八月のひどく暑い日だった。篠本は出張先から会社に帰るために電車に乗った。ホームで電車を待っている時、額から油汗が流れ、気分が悪くなってきた。暑さにやられたのだと思った。その時、電車がついたので、すぐに乗った。車内は空いていて、席につくことができた。クーラーが効きすぎていたが、今の自分にはちょうどいいと彼は思った。
『これで暑さにやられた体をクールダウンできる』
しかし、しばらくすると、今度は悪寒に襲われた。彼は気づいた。気分の悪さは、暑さによるものではないことに。すると、胸が締めつけられるように痛くなった。彼は右手でシャツの上から心臓をつかむようにした。彼は叫ぼうとした。「誰か助けてくれ!」。だが、叫び声は上げられなかった。そして、右手で左胸をつかんだまま、彼は前方に倒れた。額を床にぶつけた。ゴツンという鈍い音が車内に響いた。目の前に座っていた乗客が立ち上がり篠本に駆け寄ってきた。他の乗客が車掌を呼びにいった。そこで篠本の記憶は消えた。気がついたら、病院の集中治療室のベッドに寝ていた。
狭心症という診断が下り、その後、一般病棟に移り、すぐに退院できた。働き過ぎと過度な飲酒が主な原因だと医師から言われた。篠本は、その頃、ストレスのため毎晩かなりの量の酒を飲んでいた。そして、毎朝起きて仕事に向かう電車の中で、息苦しさを感じていた。仕事に行くのが嫌なのが、そういう形で現れていたのだと思っていた。しかし、実際には、発作の前兆が現れていたのだった。
入院中に医師と話をしていて、そのことが分かった時、篠本は仕事を辞めることにした。決断した理由は、命をかけてまで働く仕事などない。健康が大事だ。という真っ当な理由と、自分はこの仕事に命をかけてもいいほどのやりがいを感じていたつもりだった。しかし、実は、そうでもなかったんだと気づいたことだった。狭心症で入院して彼は気づいた。好きなふりをして働いていただけで、本当は別に好きな仕事でもなかったのだ、と。
それと、もう一つあった。
「篠本さんは、まだ若いです。だから、内服薬を継続して処方すると、かなりの年月服用しなければならないので、まずは様子見とします。但し、この薬だけは出しておきます」
そう言って医師が処方した薬が、ニトログリセリンだった。
篠本は、自分は、心臓の病気なのだとその薬によって、はっきりと認識させられたからだった。
退院してから、電話で両親に今回のことを説明した。二人は驚いて早く家に帰って来いと言った。篠本の過剰な仕事量について、父と母は知っていた。頻繁に海外出張をしていることから、そのことを把握していた。そして、九月に入ってすぐ篠本は会社を辞めて故郷に帰って来た。
駅から近道を歩いて、家に帰って来ると居間で母が待っていた。
「診察はどうだった?」
「特に異常はなかったよ。今度から、近くのクリニックに通院することになった」
篠本は、出張先で緊急入院した病院から実家の近くの病院に転医した。これは故郷に帰って来たためだが、そこから、更に、近所の内科クリニックへの転医となった。このことは、彼の経過が良好なことを示していた。
母に診察の結果を伝えると、篠本は階段を上がって二階の自分の部屋に入った。彼は窓際に立った。青空が広がっていた。
『あの時、父の言う通りに地元の教育大に進んでいれば、心臓の病気になることはなかったのかもしれない』
篠本は、大学受験の時のことを思い出していた。遠い昔のことだった。彼は父の言うことには従わず、都会にある私立大学に進学した。その大学に進学した理由は家を離れたいということだけだった。教育大に進まなかった根本的な理由は単純なものだった。教師になりたいとは思わなかったからだった。それ以前に何故、父が篠本に教育大に進むように言ったかだが、それは彼の父が教師だからだった。そして、根本的な理由以外の部分が、彼をより教育大に進ませなかったのかもしれない。
彼の父は則行といい私立高校の数学の教師だった。いつも苦虫を潰したような顔をしていて、性格は暗い。そして、厳しい。高校では、生活指導主任を任されていた。父はどの生徒に対しても等しく厳しかった。不祥事を起こした生徒が優等生だからといって処分に手心を加えることはなかった。生活指導主任として公平であることは生徒に一定の信頼感を与えた。しかし、同時に、公平性を維持することは、情に流されるようなことがないということであった。そして、それを遂行し続ける則行に対して、皆、その強固な意思を恐れた。
篠本は、父のいる私立高校には進まず、別の高校に入った。校則が緩やかな高校だった。篠本は、その高校で、伸びやかな学生生活を送ることができた。だからこそ、父の峻厳さに疑問を感じた。何故、父はそれほど厳しくなれるのかということだった。
だが、父への疑問だけで、篠本は教育大へ進むことを拒絶したのではなかった。それは、父への疑問の答えにもなることであり、父に流れた血であり、具体的には、父則行の母の存在だった。篠本にとっては祖母であり、この祖母の存在が、篠本を都会に行かせた大きな要因だった。つまり、教育大云々よりも、家から離れたいと彼に思わせた要因だった。
階下にいる母千江子は、今、毎日を健康に過ごしている。しかし、篠本が子どもの頃から、ある時期まで、母は原因のよく分からない病のため、寝たり起きたりの生活を余儀なくされていた。呼吸器系の病気だとは分かっていた。喘息の発作も起きた。しかし、それ以上のことは分からなかった。否、肺に原因があるということは分かっていたが、治療法が見つからなかった。そのため、床に伏せっている母の代わりに、祖母の菊枝が家事を行うため頻繁に家に来た。祖母は近くに住んでいた。祖父は既に亡くなっていた。
菊枝も苦虫を潰したような顔をして家に来た。実際、祖母には、病弱な母が不快だった。篠本の両親は恋愛結婚だったが、どうして息子は、こんな病弱な女を嫁にしたのかという気持ちが顔に表れていた。そういうことを、母にも、父にも、直接言うことがあった。篠本は祖母を心ない人だと思った。同時に、強い人なのだと思った。頭の良い人だった。体も丈夫で病気とは無縁だった。祖母には、「できない」ということが理解できなかった。「病気で家事ができない」母を見ても、病気と無縁な祖母には、母のことが理解できなかった。
「病気ぐらい気持ちで乗り越えられるだろうに」
祖母はよくそう呟いていた。
父は祖母の言うことに対して何も言わなかった。
ただ黙っていた。そんな時、篠本は、父が難しい立場にあることに気づいた。妻と母のどちらの肩を持つこともできないのだ。だから、黙るしかないのだ、と。
だが、父は母に関することに苦悩を見せるだけで、その他のことは、祖母と全く一緒だった。いつも不機嫌な顔をしているのは、祖母も父も、周りの人間が馬鹿に見えて仕方がないからだった。『何故、こんな簡単なことが出来ないんだ?』。祖母と父の心に底流する思いは、不出来な人間への苛立ちだった。
篠本は、祖母からは孫、父からは息子という例外規定によって、「不出来な人間」からは除外されていた。しかし、彼は祖母からも、父からも褒められたことが無かった。そこに二人の自分への本当の評価があることが分かった。
高校二年の夏の夜のことだった。
母は、喘息の発作が出て苦しんでいた。
父は仕事からまだ帰って来ていなかった。
祖母が夕食の準備をしていた。
母は、喘息の発作が出た時に、すぐに対応できるよう居間に寝ていた。居間と台所は近かった。
「うるさい! 咳を止めなさい。千江子さん。あんたは、甘ったれているんだ」
祖母の怒鳴り声は母の背中をさすっていた篠本に決断をさせた。
彼は、母の看病ができるように家から通える地元の大学に進学しようと考えていた。だが、この時、それはできないと悟った。彼は限界まで我慢していたが、この時、もう無理だと気づいた。彼は遠くに行こうと決めた。そして、都会の大学に進んだ。
大学二年の時だった。
諦めていた母に変化があった。大学病院で、母の病気に対し、新しい薬の治療を試みたところ、劇的な効果が認められた。母は健康を取り戻した。そして、その直後、祖母が急死した。脳出血だった。
「吉報が一つ。訃報が一つ。いや、吉報が二つだろうか……?」
篠本は、その時、小さく呟いた。
そして、彼は迷わず、広い世界で活躍したいと、大手の製造会社に入社したのだった。それが、まさかこの若さで心臓に疾患を抱えて故郷に帰って来ることになるとは……。篠本は、人生が如何に一筋縄ではいかないものかを思い知らされていた。
一階から、母の声がした。昼食の準備ができたから降りて来るようにとのことだった。母の明るい声を聞いて、篠本は気を取り戻した。以前は、祖母の暗い声が階下から聞こえてきた。
「今、行くよ」
篠本はそう言うと、一階に降りようとした。その時、窓から家の門を開けて中に入って来る父の姿が見えた。父は地味な背広を着た背の高い男だった。昔より随分白髪が増えた。
仕事中だが、学校を抜け出して来たのだろうかと篠本は思った。
一階に降りて、玄関で父を迎えると父は篠本に尋ねた。
「賢吾。病院の診察はどうだった?」
「経過が良いから、クリニックに転医できるよ」
篠本の答えを聞くと、「そうか。それは良かった」と父は言った。
父はそのことを聞くために、昼休みに学校を抜け出して家に帰って来たのだった。玄関に立つ父を見ながら、歳を重ねて、父は丸くなったのか、それとも、祖母の死が父を、ある種の呪縛から解放したのか、いずれにせよ、この時、初めて篠本は父に人間味を感じた。
母が玄関に現れた。
その時、父はもう学校に戻るため、門を開けて出て行くところだった。母は何も言わずに父の後ろ姿を見ていた。
篠本は考えた。
祖母の死から歳月を経るごとに、家族により安らぎが生じているのだとしたら、祖母の存在が、家族に大きな負の影響を与えていただけになってしまう。彼は祖母のことを憐れに感じた。しかし、篠本は、まだ、この時、思い出していなかった。祖母菊枝の存在が、彼の人生にある影響を与えていたことを。それは進む大学を決めたこととは別のことだった。彼の初めての恋に関わることだった。そして、彼はそのことを忘れているのではなかった。それは今も彼の心の奥底に静かに眠っているのだった。
つづく
あけましておめでとうございます。
新年になり作品の公開を再開します。
本年もどうぞよろしくお願いします。
本日は、諸事情により(ちゃんと)、公開日が一日早くなりました。
次回公開予定日は、従来通り1月18日土曜日です。
何卒ご了承ください。
2015年1月10日
三上芳紀
幸せの再演 三上芳紀(みかみよしき) @packman12
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