収監

間灯 海渡

収監


 ーー気がついた時には、俺は牢獄にいた。牢獄の中の冷たい空気に、俺の意識は徐々に鮮明になっていく。自身の姿が目に入る。何も身につけていない身体は貧相で痩せこけて座り込んでいる……それを見ると、思わず膝を抱え込みたくなってしまう。

 

 牢獄の四方は分厚い灰色のコンクリートに囲まれている。壁も、床も、天井も、一面が灰色の世界だ。

 天井に近い方はカラカラに乾いているが、俺が今胡座をかいている床に近い方は、水に湿っていた。

 手のひらで床を叩けば、チャプ……チャプ…と微かな音がする。床の窪みに合わせて、水が薄い小さな水溜りを作っているのだ。

 床の真ん中には鉄の排水溝がある。そこへ向けて床の水溜りは、ミミズのように細く這っていき、長い時間をかけてあの薄汚れた排水溝に吸い寄せられるのだ。赤錆に塗れ、荊のように古ぼけた排水溝に。

 壁には、囚人を縛り付けるための鎖がいくつかぶら下がっている。そのどれもが黒々としていて重々しい。毒をたっぷり溜め込んだ蛇のようにも見える。だが、俺は鎖に繋がれていない。手足を自由に動かせる。

 所々ひび割れた天井には何もない。照明もない。ただ……天井にほど近いところの壁、牢獄の上端の方に追いやられたところに、鉄格子を嵌めた窓がある。そこから見える景色は決して綺麗なものではない。外の景色は重い曇天で、牢獄のコンクリートの方がはるかに色鮮やかに見えた。

 

 俺のいる、今背を預けている壁と反対の方向に、大きな鉄扉がある。鉄扉には頑丈な錠前がいくつも、縦横無尽にかけられていて、扉の前は有刺鉄線で覆われている。……何をどうあがいてもここから出られる事はないだろうな。俺は大きく息をつき、素っ裸の背中を壁のコンクリに押し付ける。

 壁は冷たく、どこまでも深かった。まるで、終わりが無いかのようだ。それが今よりかかる俺の、熱を吸い取り奪い去っていく。蕩けるように……絡みつくように……俺の背は壁と一体する。

 力を抜いて裸の身体をグテッとさせると、背だけでなく、床に胡座をついた脹脛や足首、尻や腿や、縮んだ陰部までも、壁の中に飲み込まれそうになっていく。

 壁はどこまでも冷たく、気持ちがいい。これほどまでに親和してくれるものはどこにもないのだと、俺に語りかける。


 ーーオレハソレデイイノダ……お前はそれでいいのだ…………。


 不意に胸騒ぎがした。俺のこわばった身体が、しらぼけた肢体が、血の滞った肉体が、警鐘を鳴らす。目の前のドアが見える。それは急に大きくなって、その錠前を俺の喉元に突きつけ、有刺鉄線で引き裂いて、鉄塊を俺に覆い被せてくる気がした。ああしかし……しかしそれは確かに外界に繋がる扉なのだ!


「おぅい…………ぉおーい!!」


 灰色の世界を揺らそうとした。しかし、この牢獄は何処までも冷たく、閉じている。俺の声も、肉体の震えも、血も、全てを吸い取っていく。


「おぉーーい!! おぉーーい!!」


 すると、急に地響きがなった。牢獄の壁や、天井や床が揺れた。床の水溜りはパシャパシャとはしゃぎだし、壁から吊り下がった鎖どもは揺れてぶつかり合いながら雄叫びを上げた。鉄扉の枠組みが大きく軋む音がした……けたたましく牢獄の全体が鳴った。 

 俺は震え始めた牢獄の上でバランスを取れず、よろけて膝をついた。すると、鉄格子を嵌めた窓の方から、何か大きな影が迫ってきたのに気がついた。

 ーーそれは大きな、とてつもなく大きな人差し指で、その指一本で俺の身体一つはありそうだった。

 その指先が、窓に嵌め込んだ鉄の柵をツンツンと突っついている。その度に牢獄は揺れ、おぼつかない灰色の箱の中俺は転げ回った。


 指先が何度か牢獄を突くと、大きな指は引っ込み、今度は何やらギラギラした光の宝石を詰め合わせたような丸い大きなものが窓の前に現れた。


(ーーあれは眼だ)


 その眼は、鉄格子の枠と同じくらいの大きさの瞳孔をスレスレまでに近づけて、牢獄の中をギョロギョロと見渡した。

 右へ……左へ……床の端から天井の隅へ……そうやって目はひとしきり牢獄の中を眺めると、ふと俺と目があった。


「アァ、イタ。イルゾ……タシカニイルゾ」


 それは、霧の中を彷徨う風のような……深い海の中で起こる反響のような……鈍く、しかし鮮明で、親密な声だった。

 その声は一音一音響く毎に、牢獄を微かに揺らし、聞き取る俺の身体の奥の方まで震えさせ、呼び覚まそうとする。


「……解放の時が近いのか? 俺の行き先がようやく見つかったのか?」


 俺は大きなそいつに問いかけた。


「ソウダ、ダカライソガネバ」


 奴は俺のいる牢獄を鞄の様にぶら下げながら、何処かへ向かって歩いていった。


 

 ーーどのくらい行ったのだろうか。  

 俺は揺れ動く牢獄に振り回されない様に、壁の鎖にしがみつきながら牢獄のいく末にしたがった。

 沈殿する様に……。痛みをなるべく和らげる為にしっかりと鎖を握った。


 すると突然、牢獄の地響きがぴたりと止んだ。微かな揺れさえも、沈黙した。

 暫くすると、牢獄が上へ、上へ……次第に持ち上がっていく気配がした。

 俺は何が起きているのか気になり、慎重に鎖から手を離し、窓の方を見た。


 ーー鉄格子の窓の向こう側に、何やら大きな人影があった。それは、牢獄を首の動きだけで眺めると、近づきもせず、こう言った。


「アァ、ソレガアナタノミセタイモノナノネ」


 先ほどの声より幾ばくか高い声だった。しかしやはり地鳴りの様に身体に響いてくるのには変わりない。後方から大きく緩慢な声が答えた。


「アァ、ソウダ。コノナカニ、スバラシイモノガハイッテイル。コレハ、キットオレノタカラダ」


 後方の声は自信を持って答える。俺はそれを聞いて、先ほどと同じ胸騒ぎが起こったのを感じた。牢獄の中を這う様な、鋭く、執拗な痛みだ。

 耐えかねて俺は声を上げた。が、その声は前方の高い大きな声に遮られた。


「ソレガタカラ? ……ソンナモノガアナタノダイジナモノナノ? オカシナヒト。ソンナモノ、ホカノヒトニトッテハ、ナイノモドウゼンダッテシラナイノ?」


 冷たい、声だった。間延びした大きさと釣り合わない、冷ややかさと厳しさを込めていた。


「オレニハコレシカナイノダ。コレダケハジシンヲモッテジマンデキルノダ」


 後方の声が弱々しくなりながら言う。それに前方の声が答える。


「ナラバ、ソノナカヲミセテミナサイ」


「モチロンダ。スコシマッテイロ」


 すると、牢獄の扉がガタガタと揺れた。それに合わせ、灰色の四方形が痛みの歓声を挙げる。

 ーーガタガタ、ガタガタ……という解放の痛みの歓声を。

 しかし扉は一向に開かない。


「ナゼダ!? ナゼヒラカナイ?」


「バカナヤツネ。ナゼカギヲツカワナイノ?」


「コレニハカギハナイノダ。カギハハルカムカシニウシナワレタ……ソレデモヒラクハズナノダ! イマナラバヒラクハズダ!」


 すると、前方の人影がいきなり


「ハハハハ! アハハハハハ!」


 と笑い出した。雷の様な非情さと冷酷さを持ってそれは辺りに反響し、鉄格子の外の黒い世界はそれと共に蠢いた。


「イヤイヤ、ソウジャナイワ。ワタシニハワカル。アナタニハ、ケッシテトビラヲヒラクコトハデキナイ……ロウゴクヲツクリダスコトシカ、アナタニハデキナイノヨ」


「チガウ! ナゼワカッテクレナインダ? オレハ、俺は解放をのゾンデイルノダ!」


 尚も扉を開こうと、懸命に牢獄は鼓動した。しかし響けど響けど、扉は決して開く事はなく……。

 俺は全てのことから目を離せなかった。金縛りにあった様に、窓の外を見つめていた。その黒い奔流の様な光景を。

 そして、扉が一向に開かないのをみて、前方の声が厳かに言った。


「デハ、ソノハイイロノロウゴクヲ、ブチコワシナサイ。

 ウチクズシ、ガレキニシテ、ナカヲサラケダシテミナサイ」


 その答えに、後方の声が悲痛な叫びを持って答えた。


「デキナイ! ソンナコトハデキナイ……オレノ、俺の宝をウシナッテシマウ!

 ……アァソウダ……オマエノイウトオリダ……ウシナワナイタメニ、オレハコノロウゴクヲツクリダシタ」


 その言葉こそが、俺の胸騒ぎの正体だと分かった。あぁ、おそらく俺の痛み、肉体の、魂のそこにある痛みはこれのために来ているのだ。俺は牢獄と外界との狭間で、切り裂かれていたのだ。

 おそらくこの哀れな牢獄の持ち主の痛みも、同じところから来ている……。


「ヤハリダ」


 高い大きな声が、俺の胸に飛来した。


「アナタハ、オクビョウモノナダケダ。ダカラアナタハナニモエルコトガデキナインダ。

 チイサナロウゴクニトジコモルダケデマンゾクシテ、アナタハドコニモタドリツクコトガデキナイ!」


「アァ……ヤメテクレ、ソンナコトヲイワナイデクレ」


 俺は一緒に叫び出したかった。前方の声に、この奥からの声を届けたかった。

 あぁ、しかし……しかし俺の声のなんて小さなことか!! 本当に叫ぶべき俺の声はこの牢獄さえ1ミリも揺るがす事が出来ない!


「オマエハオロカモノダ。コドクヲオソレ……ソレデモロウゴクニトラワレルシカナイ、トンダマヌケダ」


 それを聞くと、俺の胸が裂けた。熱い、何が流れ出る様だった。同時に外から轟音が響いた。大河の流れる様な、薪が爆ぜて砕ける様な……轟音。

 それに合わせ、牢獄はぐらんぐらんと揺れ、俺は壁に叩きつけられた。

 ふと、窓の外を見た。流れる景色の向こう側に……大きな粒の、雨が降っている……。


 ひとしきり轟音と揺れが続くと、それは次第に緩まり、やがて失速して止まって行った。

 俺はなんとか立ち上がると、よろめきながら床に座り込んだ。

 窓の外は塗りつぶされた様に黒い。それはくぐもった底なし沼の様な暗さで、おそらく夜の澄んだ闇ではなく、曇天と湿った雨粒によってもたらされた暗澹たる漆黒だ。そして遥か彼方から、遠雷が鳴っている音が聞こえる気がした。


 窓を見つめ放心していると、そこに大きな宝石を散りばめた瞳が覗き込んで来た。何処までも無垢で、狡猾で、勇壮で、卑賤な眼差しだ。

 何処までも、何処までも親密な眼差し……それは雨の為先ほどよりも潤み、その為に瞳孔に瞬く星は生々しく光る。

 瞳は俺を見つめた後に、ふっと離れていき、それに合わせて牢獄はズシッと重い音を立てて、地につけられたように静止した。


 

 ーー暫くして、俺は座り込んでいた身を起こした。俺はヨタヨタと足をひきづりながら、躊躇いがちに辺りを見回した。

 鉄格子の外は暗澹たる闇に包まれて薄暗く沈み込んでいた。窓枠の影は、この世の果ての様に遠く見えた。

 振り返ると、鉄扉が見えた。その鉄扉の厳重な鍵の一つが、先ほどの騒動で外れていた。

 俺はおもむろに扉に近づいた。そして扉に手を掛ける、他のしっかりと鍵の掛かった場所へ。


 ……俺は、その時胸中にある胸の痛みを思い出していた。

 そうすると、あの哀れな収監者が思い浮かび、収監者が思い浮かぶと、それに引きづられる様に俺のこの貧相な姿が思い浮かんだ。

 

 ……俺は鍵に手を掛けた……ガチャッと、閉める。先ほどの騒動で外れた鍵を、しっかりと閉めた。ついでに他の鍵も、抜かりがない様に確かめていく。

 

(ーー二度と、この扉を開けようと思わない様にしよう)

 

 決意して、俺は反対側の壁に戻り、そこに背をつけて座り込んだ。初めて意識を取り戻した時と同じ様に、今度は同じ場所で沈み込む為に。


 

 灰色の牢獄は何処までも荒涼としていて、それでいて親密だった。

 多分、ここならば俺の恐れも、悲しみも全てを閉じ込めてくれるだろう。

 壁はざらつき、天井は無機質で、床は湿っている。排水溝は錆びていて、窓の格子はひしゃげ、鉄扉は重く閉ざされている。全て、全て俺に親しく微笑んでいる。

 

 俺は、背後の壁に深く沈み込んだ。深く…深く……体温と鼓動を全てその中に押し込める為に。

 ふと、俺は手元の壁にヒビが入っているのを見つけた。先ほどの嵐の時に崩れてしまったのかもしれない。それを、何処までも愛おしく撫でる。俺と収監者に入った、愚かで痛ましいヒビを。


(ーーあぁ、これならばさっきよりもよく眠れそうだ)


 俺はまどろみ、次第に灰色の世界に、ゆっくりと溶けていった。




                  〈了〉

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