Ледяные Охотники -氷の猟人

一 «Один»

 “二月十四日 曇天、零下三十八度、リオート海、セーヴィルスクの北の沖三五〇キロメートル付近にて。巨大なカイギュウ類と見られる海獣の群を発見。一頭の体長は平均して約七メートルほど、推定体重は十トン、主食は生息域周辺に繁茂する昆布などの藻類だと見られる。これらの調査結果が、ワグナー博士のそれと一致する事から、我々はこの巨大な海獣をワグナーカイギュウだと判断した。” ――海洋学者アンドレイ=ミハイロヴィチ・ベルスキーの日記より


 凩の吹き荒ぶ晩秋のセーヴィルスク。

 暦上では未だ冬にも入らぬのに、灰色の空に純白の粉雪がちらちらと舞う様な、クラースヌィ連邦最北のこの都市に、二人の華国人が降り立った。二人とも揃って、麻袋に入った二、三メートルほどの銛を引っ提げ、灰色のウシャンカ帽を被り、空色のマフラーを金縁が施された黒ウールのコートの胸元で膨らましている。首都ドミークから特急汽車で半日、赤煉瓦造りの駅舎から一歩踏み出すと、極東の地から遥々やって来た異邦人の彼らを、北国の酷寒が襲う。

「着いたぞ」

 シュー・ヤン(徐陽)は東北訛りの華語でそう呟くと、曇天の空を見上げた。隣のルオ・ユエ(羅月)は、大きなコートを着た小柄な身体を縮こませて身震いしている。

「然し風が強いな。寒くって如何しようも無い」

 二人の黒い髪の毛に付いた細かな雪の結晶が、雲越しに届く太陽の光を受けて白く瞬いていた。

 シュー・ヤンは擦り切れた麻の鞄から、一枚の紙切れを取り出した。それはドミークの役所で十五万セレブローと引き換えに貰った猟人認定証だが、それは二人にとってまさに約束された夢の世界への切符のようなものであった。

「これを、港で見せればいいんだろう」

 にまにまと笑うルオ・ユエに、シュー・ヤンは唾を呑むと黙って頷いた。背伸びして革手袋の手を振ると、石畳の道に一台のタクシーが止まった。

「アヴローラ港まで」

「五セレブローだよ」

 此処の運転手には、片言のクラースヌィ語でも通じたようだった。鞄の中から財布を探り出して、彼に真鍮のコインを渡すと、目深に帽子を被ったその中年の男は、エンジンを蒸かして粉雪の舞う錫色の中に消えていった。

 アヴローラ港は大陸最北端の港ながら、なかなか活気のある場所であった。リオート海の冷たい水がザパザパと岸に打ち寄せていたが、人々は毛皮のコートを丸々と着込み、その辺で売られている唐辛子漬けのウォッカを飲むので全く平気なようであった。ルオ・ユエが華国の家から持ってきて、行きの寝台列車で飲んでいた瓶入りの紹興酒は、馬車で風に曝されているうちにキンキンに冷え切ってしまっていた。

 二人は広い港をキョロキョロと見渡した。とは言っても異国のキリル文字ばかりで良くわからなかったが、第五波止場の看板に、«Катер для охоты на морских коров»と書いてあるのを発見した。シュー・ヤンが鞄を探り辞書を取り出して一単語ずつ調べようとしていた所に、後ろから陽気な声が飛んできたのであった。

「おおい!」

 二人が顔を上げて振り返ると、まさに自分たちと同じ格好をした、黒コートにウシャンカ帽に、水色マフラーの男が駆け寄ってきた。彼は痩せた長身で、緑色の瞳をもち、栗色の髪に無精髭を生やしていて、見たところ西洋人のようである。

「ニーハオ?アンニンョンハセヨ?」

 男はウキウキした様子で言ってきた。二人を華国人か、あるいは明遜人だろうと見当をつけたようである。シュー・ヤンは突然のことに苦笑いして答えた。

「ああ、你好」

「そうかそうか!華国から来たんだな。君たちもその格好をしてるって事はオレのお仲間だ。仲良くしようじゃない、あれだろう?『海牛狩猟船』」

 興奮気味の彼が早口に話したのはベルガラム語だった。こちらの方がクラースヌィ語よりは幾分か達者であったので、二人は大きな味方を得たような気がした。

「そうだ言い忘れてた、オレはサミュエル・カーター。ベルガラムで毛皮を売ってる潰れかけの商人さ。君たちは?」

 男は訊いてもいないのに名を名乗ってきた。シュー・ヤンはそんなサミュエルの調子に若干気圧されながらも答えた。

「シュー・ヤン。農民の生まれだ」

「俺はルオ・ユエ。俺らは今の生活から抜け出したくて、まあつまり、勝てば一攫千金の大博打に出たということだよ」

 サミュエルはそれを聞いて、そうかよろしくなと笑うと、二人の肩を軽く叩いて、第五波止場を指差し意気揚々と走り出した。

「船はあっちだ。二人とも早く行こうぜ、凍えちまうよ」

 シュー・ヤンとルオ・ユエも、先を行くサミュエルの後を追いかけ凍てつく地面を駆けて行った。


  第五波止場には、既にシュー・ヤン達と同じ格好をしたウシャンカ帽に黒コートの集団が集まっていた。異邦人たちは、様々に訛ったクラースヌィ語で、皆口々に出航はまだなのかやら、寒いから早く船内に入りたいやら雑談に花を咲かせている。

「二人とも、昼飯は食ったか?」

 サミュエルにそう聞かれて初めて、電車やタクシーの乗り継ぎで疲弊していた二人は、朝から何も食べてないのを思い出した。

「まだだ。早朝、寝台特急のキオスクで、ピロシキを買って以来さ」

 シューヤンが腹を摩り摩り言うと、サミュエルもそれに何度も頷いた。どうやら、彼も同じ様子である。

「俺もだよ。船にいる間はどうせ、ニシンの缶詰なんかしか出ないだろうからさ。一寸後悔してんだ」

「でも猟が始まれば、分厚くて美味いステーキが腹一杯食えるんだろう?」

「そうとも!よく肥えた子牛の味がするって噂だ」

 ルオ・ユエとシュー・ヤンは目を輝かせた。とはいえ、彼らはよく肥えた子牛の様なご馳走を口にした事すらなかった為に、その獲物の味が如何なる物であるかなど、皆目検討も付かなかった。それを見ていたサミュエルもまた鼻歌混じりに付け加える。

「革は上質、骨は美しく、脂は万能、その上肉まで美味いなんて、よくそんな人間に都合の良い生き物がいると思わないかい?」

 乗組員が概ね集まったと見るや、彼らの前に据えてある小さな木製の台の上に、身長が百九十糎余もある、金髪蒼眼の屈強な男が登った。その男は紺の制服の上に灰色の着古したコートを身に纏い、無骨なオールバックに金刺繍のウシャンカ帽を目深に被った様な、まさしく北海の船乗り然とした出で立ちであった。彼はその容姿に似合った太く良く通る声で、波止場に集まった大勢に語りかける。

「おうい、皆聞け!もうじきこの船は港を出る。俺は船長のドミトリー・ニコラエフだ、宜しく。この時期、暦の上ではまだ秋とはいえ、リオート海の寒さは皆の想像以上に過酷なものだと断言できる。防寒具は正しく装備し、くれぐれも凍傷には気を付けろ。何か不明な点があったら、すぐに俺か、次に話すメチェレフ管轄委員に聞く様に。以上」

 ニコラエフ船長の簡単な挨拶に続いて、今度はその隣の太った若い男が、台の上に立った。彼は他のクラースヌィ人よりも彫りの浅い顔立ちだったが、少し長めのうねった黒髪に、くすんだ灰色の目を持っていた。彼は猟人達とは違い、質素なカーキ色のコートに軍帽風のキャスケットを被っていた。顔は不健康な青白さで、鋭い狐目の下には暗い隈があり、その事が男のこれまでの苦労をよく表現している。

「親愛なる同志諸君«Дорогие товарищи»!私はセーヴィルスク市海猟管轄委員のアナトリー・メチェレフ。猟人諸君の合法かつ安全、また公正な狩猟の為の監視・指導のため、この船に同乗する事となった」

 メチェレフという男はニコリとも笑わず、狩猟に関する色々を説明したが、そのぶっきらぼうで高圧的な口調が気に食わないシュー・ヤンは、なんだか歴史上の宦官の様な印象を受けた。

「典型的な共産党員(コミュニスト)だな」

 サミュエルも同様に感じていたようで、そう小さく呟くと不愉快そうに鼻を鳴らした。

 いよいよ船出が近づき、乗組員達は点呼を済ませて船へと乗り込んで行った。港の職員は彼らの持つ猟人認定証に、切符を切るように次々と«использовал»のスタンプを押す。シューヤンら二人も続いて船に乗り込もうとしたその時、後ろから甲高い声が飛んだ。

「同志«Товарищ»!待ちたまえ」

 二人が振り向くと、その声の主はメチェレフだった。彼はコートで着膨れした体を揺らしながらパタパタと走って寄ってきて、二人に訊ねた。

「二人は、どこから来たんだね?」

 シュー・ヤンは、自分たちは二人とも東華民国人だと伝えた。それを聞いた彼は一寸驚いた様な顔をして、血色の悪い頬を興奮で僅かに赤らめながら、早口でなにやら言った。

「ああ、華国!もしかして、北の方かい?ほら、于州とか、趙州とか……」

 次いでルオ・ユエが、二人とも于州だと答えた。メチェレフはパッと笑顔になって、そうか、そうかと言いながら、片言で知っている華国語の言葉を幾つか話した。――例えば你好、朋友、同志、華国と言った様な。ルオ・ユエは不思議がって、なぜ知っているのかと聞くと、彼は微笑んだまま遠くを見て言った。

「失敬。何せ君たちの顔立ちが、僕の母に似ていたからつい」

 確かに、彼のあっさりした顔立ちにはオリエンタルの気風があった。シュー・ヤンは、さっきの横柄な口ぶりもあってこの男へ良い印象を持っていなかったが、彼の持つルーツと無邪気な片言の華国語を聴いて、こいつは別に悪い人間ではないのかもしれない、と思い始めていた。

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人とは斯く在りき «Человек -Это Таков» 酩亭海松 @Meitei_Miru

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