第9話 電話と対話
「
覚えはあるか、と再度、繰り返して問われる。
「はい」
のろい動きではあれど、彼の目に映るよう、確かに首肯する。
「おれの、小学校時代の、……友達です」
親友、とは、言うことができなかった。
未だ。
『話しかけてくんな』
過去の会話が鼓膜の内側に蘇ってき、目を伏せる。
ひとの言葉に、おれはまだ、釘を打ち込まれたように動けないままだった。
「そうか」
会ってやっちゃくれねえかな。
色が抜けて、白に近くなった金髪が、ぱらりと耳のあたりで揺れる。
「……何のためにですか」
「お?」
先輩が、そりゃあ、弟のためにだよ、と、何の疑いもなさそうに言う。
「そうじゃなくて」
背の高い彼を、見上げる。
かすかに、目が痛かった。
泣きそうになっている自分自身を、知覚する。
ああ。
こんなところで、みっともない姿を晒すわけにはいかないのに。
気を抜くとしゃくりあげそうになる喉を、ぐッ、と、空気を呑んで押さえつける。
なんとか、己の生体反応の、手綱を握ろうとする。
「えっと――」
続けようとしたところで、視界が赤くなる。
ふわふわとした髪が、おれの鼻先をくすぐった。
烙理の頭が、おれと先輩のあいだに割り込む。
いつの間にか、近くに移動してきていたのだ。
光の無い目には、如何とも形容しがたい、不思議な色が浮かんでいる。
黙ったまま、両方を交互に、じろじろと眺めまわす。
おれのほうに、最終的に視線を留める。
何か言ってくるのかと身構えたけれど、特に何も発することなく、ふい、と自分の持ち場に戻っていった。
「……?」
どうしたんだい、と、木島さんが、烙理の後ろ姿に話しかける。
彼からしても、いまの彼の行動は、それなりに気になるものであったらしかった。
「べつに」
そっけなく、応える。
それでも視線は、こちらにずっと据えられている。
「……ま、いいけどよ」
先輩が手を、ひらひらと振る。
「で、何だ? 志澄」
「あ、はい」
気を取り直して、横道にそれかけた話題の、襟首をつかむ。
さっきまでに比べて、苦しかった呼吸が、いくらか楽になっている気がした。
烙理のほうを、ちらりと見る。
特に反応を示すでもなく、見つめ返してくる瞳。
真っ黒な。
その闇がほんの少し、あたたかく見えた。
「ありがとう、烙理」
笑いかけると、ぷん、とそっぽを向く。
「素直じゃねえな」
先輩が苦笑し、おれに促す。
「何のために、ってのは、どういうことだ? 違う意味なんだろう、言い方からして」
「はい。分かりにくくて、すみません」
会釈をしてから、本筋に入る。
「弟さん――ヒョウはどうして、おれに、会いたがっているんでしょうか?」
今さら。
ぽろりと後からこぼれたその四文字が、思いのほか冷たい響きだったことに、我ながら驚く。
踏みとどまる。
「その目的を知りたいです。そうしないと、とてもじゃないですが、穏やかな気持ちにはなれません」
自分の表情筋が、なおも、こわばっている。
「そうか」
先輩が、バリバリと頭を掻く。
「といっても、俺にも分かんねえんだよな」
さて、どうしたもんかね。
ふーん、と、鼻から盛大に息を吹き出す。
「電話してみればいいんじゃない?」
烙理がひょっこりと、横から口を挟んだ。
「履歴、残ってるでしょう。それで、かけたら?」
「……あのなあ」
彼を見ずに、呆れたような声を返す。
「俺はいちおう、絶縁されてんだ。勝手に電話なんて、かけていいわけねえだろうが」
「思い込みじゃないの」
すっぱりと、両断する。
先輩のほうをうかがう。
言い返すかと思っていたのに反して、意外なことに、ひどく弱気な目をしていた。
「……なんだって、がきんちょ?」
「思い込みじゃん、って言ってんの」
とっても、――勝手なね。
ひらり、と身を軽やかにひるがえし、こちらに歩み寄ってくる。
先輩の顔を、挑発するように見上げる。
「向こうは、志澄の情報が得られるってだけで、儲けもんなんでしょう。そこで、電話かけてきたのに対して怒る余力なんて、あると思う?」
「だが――」
まだ渋っている先輩に、つべこべ言わないでさ、と、手を伸ばす。
「あ、おい!」
ズボンの尻ポケットへ、無造作に頭から突っ込まれていたスマートフォンを、勝手に掴み出す。
「こら、返せ!」
捕まえようとする腕をひらりとかわし、部室の隅に逃げる。
追いかけて足を踏み出した先輩が、血で滑って転倒しかけ、あわてて体勢を整える。
「ちぇっ。転べばよかったのに」
舌打ちをし、これだね、などと独り言をいいながら、スマートフォンを操作し、耳に当てる。
トゥルルル、トゥルルル、とわずかに、呼び出し音が聞こえてくる。
「この……!」
「シーッ」
にかッ、と、意地悪に微笑む。
「弟さんに聞かれたら、また
にやにやと面白そうにゆがんだ口元から、しろい牙が顔を出している。
「……」
聞こえないくらいの声で、吐き捨てる。
クソガキが。
困ったように、唇をへの字に曲げ、じっと、通話口の機械音に耳を傾ける。
「あ。つながった」
「スピーカーモードにしろ」
先輩が、抑えた声で言った。
「うん」
烙理が、画面をタップする。
相手の、怪訝そうな問いかけが、にわかにはっきりと響き渡った。
「もしもし? 兄貴なのか? 誰だ?」
「! ……飆」
兄の反応を無視し、烙理が、電話口に向かって勝手にしゃべり始める。
「あ、もしもしヒョウさん? ボク、おにーさんの知り合い。といっても、さっきなったばっかりだけれどね」
「誰だ、あんた」
再度、不審げに繰り返す。
「ボク、烙理。徒狩烙理」
「名前なんてどうでもいい」
吐き捨てる。
音声が、吐き出される息に少しひび割れる。
「おれが気になってんのは、どうして兄貴の携帯で、知らん奴が意気揚々とくっちゃべってるのかってことだけだ」
「わお」
なかなか強いね、弟さん、と、肩をすくめる。
「兄貴に、何かしたのか? そこにいるのか? どうして兄貴本人が話さないんだ」
「どうでもいいじゃん、そんなこと」
鼻を鳴らし、赤い横髪をいじくる。
「兄貴は物騒な奴だからな。ヘンなトコに捕まってて、あんたが脅迫の電話ァかけてきたとか、十分有り得る」
「知らないよ、んなこと。おにーさんが電話かけたがんないから、勝手にやってるだけだし」
小馬鹿にしたように笑う。
「あのね。おにーさん、あんたに絶縁されてんの、思ったより気にしてるんだよ。それで、かけたら怒られるんじゃないかって、ぐじぐじ言ってたの」
「……」
黙り込む。
「あんた、何だ、兄貴の」
烙理が、えっとね、と渋い顔をする。
「おもちゃ」
「は?」
「まあいいや。えっとね」
さっさと、本題を切り出す。
「あんたが、長髪の男を探してるって聞いたんだけど。四ツ角志澄のことでしょ?」
ひゅッ、と息をのむ音。
「なんで知ってんだ」
「おにーさんから聞いたに決まってんじゃん。馬鹿なの?」
煽る声にも、彼は言い返さなかった。
口調は強いけれども、なるほど確かに、兄よりも大人しいらしい。
そう、やや見当はずれだろう感想を抱く。
「で、どうなの? そうなんだよね?」
「……ああ。その通りだよ」
ふーっ、と、長い息をつく。
「あいつと、話がしたいんだ。久しぶりにな」
「どうして?」
問いかけに、ちいさく舌打ちをする。
「あんたに話す道理はねえよ」
「ふうん?」
こちらを、ちらりと見る。
「こっちに今、志澄がいるんだけれどね。理由が分かんないと、不安だから、会いたくないって言ってんの。ね、だから、先に教えてくれる?」
「……えっ?」
相手の声が、すこし裏返った。
「そこにいんのか」
「うん」
あっさりと、肯定する。
「代わる?」
しばし、沈黙。
ゆっくりとした呼吸音だけが、ただ、かすかに聞こえてくる。
「いや、いや、いい。直接話す」
この会話は、あいつには聞こえてないんだよな?
そう、確認を取る。
烙理が、ぺろりと舌を出した。
「うん。聞こえてないよお」
「そうか。……よかった」
ひと呼吸おき、続ける。
「後悔してることがあるんだ。ひとつ」
首をかしげる。
「何を?」
「言わねえよ。まだ、信用ができてねえからな」
「それはいいんだけどさ。理由が分かんないと、会わせられないんだけど」
話が堂々巡りになってるじゃん、ほんとにかったるいなあ。
唇をとんがらせる。
「用件を教えてって言ってるでしょ。それが分かんない限り、うちの志澄は向かわせられません」
相手の声に、混ざるイラ立ち。
「……お前、何様だよ。偉そうに。志澄の何なんだ、一体?」
「友達」
デジャヴュを感じる質問に、今度ははっきりと、短く答える。
真顔をふと崩し、こいつネチネチしててヤだね、と、片頬だけを上げて失笑する。
「おにーさんと代わる? ボク、もう疲れてきちゃった」
「……謝罪だ」
「え?」
繰り返す。
「あの日のことを、謝りたい。そう伝えてくれ」
「……うん」
目を丸くして、うなずく。
「わかった」
了承した瞬間、ぶちっ、と音を立てて、電話が切れる。
烙理が、あらら、キレちゃったかな、と、意味が若干違いそうなイントネーションで言った。
「ごめんね、祥。ちゃんと代わってあげようと思ってたんだけど、勝手に向こうが切っちゃったからさあ」
「いや、もういいよ……」
おでこに手を当て、先輩が電話を受け取る。
「今度はお前に取られるより先に、ちゃんと自分でかけるわ」
「うん、それがいいと思うよ。ボク、あのひととは合わないや」
話が通じないもん。
あっけらかんと言う烙理に、全員の視線が集まった。
「それ、キミのほうだと思うよ」
全員が思っていたであろうことを、木島さんが代弁した。
「そなの?」
「あーあー、言うな径。ぜってえ、言っても無駄だ。こいつには」
ひらひらと、祥先輩が手を振る。
「日時も言ってなかったよね。あのヒト」
「いいよ。俺が訊いとくから」
祥先輩が、とりあえず掃除だ掃除、と息をつき、床を拭き始める。
いつのまにか、大部分が元通り、綺麗になっていた。
「わ、いつのまに」
「お前らが手止めてる間にだよ」
ニヒルに笑い、よし、終わり、と伸びをする。
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