第8話 絶縁と再縁
「銭湯?」
「そ」
短く言い、でっかい湯船、浸かってみたいだろ、と、烙理に笑いかける。
「富士山とか、描かれてるんでしょ? ボク、知ってるよ」
ははッ、と、おかしそうに吹き出す。
「そんな大層なもんがあるかなあ。楽しみにしてな。立派だぜ」
「やったぁ!」
ガッツポーズをするのを、微笑ましげに目を細めて眺める。
「お前も、髪を洗いたいだろう」
おれのほうにも、話題を振ってくる。
「はい」
うなずく。
洗うの大変そうだよな、いつもどうしてんだ、と訊かれる。
「水道代がヤバそうだ」
「まあ、かなり、財政を圧迫してきてはいますね」
「だろうなぁ」
納得したような表情。
「それにしても。なんで、そんなに髪を伸ばしてんだ? 切ればよくないか?」
重たそうだし、邪魔にならねえの?
何とも言えず、ごまかすように、口角を持ち上げる。
「いろいろ、事情というか、……ありまして」
「ふうん。ま、人生いろいろだよなあ」
特に追及することもなく、立ち上がる。
三、四年前に流行ったJポップが、メロディーだけ、その口から洩れている。
確か、家族との別れを歌った曲だった、と思う。
「何の歌だったっけな、これ」
首をひねり、まあいいか、と鼻歌を再開しながら、掃除に取りかかる。
「しっかし、ひでぇ有様だな。腕が鳴るぜ」
水を汲んで来たいんだが、ここらへんに蛇口あったかね、と、木島さんに尋ねる。
「確か、サークル棟の入口のあたりにあったと思います」
記憶を掘り返しているように、上を向く。
白髪交じりの黒髪が、それに伴いさらり、と流れる。
「オーケー。ちょっと行ってくるわ」
バケツの中に入っていた、種々雑多な道具を、床に丁寧にならべる。
「あ。言っとくけど、掃除用具勝手に触るなよ。特にお前」
烙理に釘を刺し、空のバケツを携えて部屋を出て行った。
ドアが閉まった瞬間、ばっ、と身をひるがえす。
さっき受けたばかりの忠告を、意にも介していないようだった。
「何だろ、これ? いろいろあるねぇ!」
ぼろぼろになったスポンジや、洗剤類をあれこれ手に取って、顔を近づけたり、鼻を動かしたりしている。
「こら、烙理!」
木島さんが、近寄って止めに入る。
「もし祥先輩にバレたら、怒られるよ?」
「だって気になるんだもーん」
悪びれる様子の無かった顔が、がちゃっ、という音と同時に青ざめる。
「……おうコラ。許可なく何しとんだ、がきんちょ」
「あわわわ」
両手につかんだままだった洗剤を、目にも留まらぬ速度で奪い返す。
烙理の頭を、軽くこつんとやる。
「ったく、わんぱくなガキだ」
ちいさな声で、何かつぶやく。
正反対だな。
そう、聞き取れた。
しばし、烙理のほうに顔を向けて、先輩はじっとしていた。
後ろ頭しか、おれからは見えなかったけれど、どこか哀愁を感じる姿だった。
どっこいしょ、とかけ声とともに、大儀そうに立ち上がる。
バケツを持ち上げ、部屋の中央に移動させた。
その中では、なみなみと満たされた、澄み切った水が揺れている。
「隅っこに置いたら、倒しちまったときに、本にかかりかねねえからな」
本当はこのまま、ざぶぅんと床にあけたら早いんだが、水浸しになるし、下の階に漏る可能性が高い。
うー、と、不機嫌にうなる。
「気は進まねえけど、雑巾で地道に拭くしかねえな。オラ、手伝え、お前らも」
何枚か雑巾を取り出しかけて、いや、落ちるかな、と独りごちる。
「こんな大規模だって思ってなかったから、五枚しか持ってきてねえや。チッ」
わりかし何とかなるようなちっちぇえ染みだったら、こいつでやったほうが良いんだけどな。
ホームセンターやスーパーの日用品売り場でよく見る、汚れ落としに定評のあるスポンジを、苦い顔で見つめる。
「ま、いいや。そこのバケツにつけて、よく絞ってから拭いてくれ」
真新しい雑巾を、ぽん、と放り投げる。
烙理とおれが屈みこむのを見て、木島さんが尋ねた。
「あの、……僕は?」
「お前にやる雑巾はねえ」
「いや、僕もやるよ。元凶だし」
「どの口が言ってんだ」
帚木先輩が彼に近寄り、両手をとる。
刹那、銀縁眼鏡の奥の目が、ゆがむ。
どす黒い感情の
「やっぱりな」
呆れたように、鼻を鳴らす。
「手ェ、またぼろぼろじゃねえか。今度は何したんだ」
「……」
黙っている。
答える気はなさそうだった。
「卒業してもなお、この謎は解けないままか。ケッ」
舌打ちする。
「俺は先輩だぞ。そろそろ、打ち明ける気にはなんねえか? 径」
「……それ、パワハラですよ」
「ふん」
木島さんらしくない、敵意の
「まあいいさ。言いたくねえことを無理に吐かせるほど、俺も無神経じゃねえしな」
こちらに目を戻し、いっしょに拭くぞ、径は諸事情あって、雑巾は渡せねえから、と促す。
床に膝をつき、飛び散った血痕を落としていく。
烙理も、始めこそ不満げに、うつむく不参加者に向かって唇をとんがらせていたが、今は、黙々と手を動かしている。
「バナナ拭きになってんな。やっぱ、普通はそんなもんだよな」
先輩が苦笑する。
「バナナ?」
烙理が問い返す。
「拭き方の俗称だよ。こういうふうに四角くじゃなくて、……なんて言うかな」
目の前で、円弧を描くように、やや大げさに再現してみせる。
「この軌跡が、バナナみたいに曲がってるから、そう呼ぶんだと思うぜ。小学校とかで、言われた記憶ねえか?」
「わかんない」
「そうか。まあ、お前はそうだろうな。怪異だし」
さらりと流し、おれに目を向ける。
「うーん。あるような、ないような」
記憶の引き出しを、漁ってみる。
すぐに嫌なものを掘り当ててしまい、顔をしかめてしまう。
キャップを被った後ろ姿が、小さくなっていく。
彼の帽子の正面に描かれていた柄は、いったい何だっただろう。
もう、その残像が薄れかけていることに、今さらながら、気づく。
「……」
数秒、黙り込んでいた。
昔のことなので、覚えてないですね。
そう答える自分の声が、別のことを言っている気がして止まなかった。
「まあな。そんなどうでもいいこと覚えてるの、俺くらいだよな」
ははは、と、笑う。
空っ風の吹いているような音だった。
「俺はいつまでも、あんときのままだからな。メンタル的には」
弟がいたんだ。
ふいに、話題を変える。
過去形の、告白。
その横顔が、どこか哀しそうだった。
「絶縁状を叩きつけられた。ちょっとばかし、前に」
「ぜつえんじょう?」
少し離れた角っこで、赤い髪が揺れた。
「どうして?」
手を止め、先輩の方を注視している。
彼が反応した理由が、なんとなくではあるけれど分かる気がした。
「あいつは俺と違って、素行が良かった。優等生だった」
誰に語り掛けるでもなく、回想をそのまま暗誦しているように、語り続ける。
その目はただ、眼前でこすられ、落ちゆく染みに向けられている。
「俺みたいな兄貴がいるってことで、何回も、要らぬ喧嘩を吹っ掛けられていた。そのたびに、俺が出張っていって、相手を追い返したもんだが――それはむしろ、逆効果。火にガソリンを注ぐって奴だ」
木島さんが口を挟もうとして、唇を結ぶ。
今ここで、ことわざの
「ときには、俺を呼び出してみるために、面白半分で、タコ殴りにされてたこともあった。そんな日々に、うんざりしたんだとよ」
あいつは公言した。
もう、あれの弟じゃないと。
ちょうど、俺が、前の住処に引っ越したあたり――三年くらい、前のことだった。
「あいつは今、この大学にいる。通う学校と、俺の新居が近いってんで、詫びにでも行こうかと思ったが、できなかった。会う勇気が出なくて」
「別のところに、住んでたの?」
烙理が尋ねる。
「ああ。あいつのたっての願いで、ついこないだまで、離れたところに住んでた」
遠い目をする。
「けれどな」
少し、その口元が弧を描く。
ちょっとの変化なのに、とてもうれしそうに見えた。
「数日前、急に電話がかかってきたんだ。弟からだ。ずっと音信不通だった、奴から」
こんな内容だった。
ふと言葉を切り、おれのほうに首を巡らす。
「……?」
嫌な予感がした。
なぜかはわからない。
けれど、なぜかとても、――胸騒ぎがした。
「奇妙な会話だった、と思う。少なくとも、俺は」
こちらを見たままで、ぼつぼつと、そのときのことを語り始める。
「俺は謝ろうとした。かつての行いを。俺は悪くないような気もするが、まあ、そうしたほうが、なんとなく良いだろうと考えたんだ。報復にと勝手に突っ込んでいったのは、確かに俺だしな。ロードローラーのごとく」
ジョークを言って頬を引き上げ、真剣な表情に戻る。
「ごめん、と言った。続く俺の言葉を、シャッターを下ろすようにして、あいつは遮った。それより先に、話したいこと――いや、訊きたいことがある、と」
「……」
本の語りのような口調。
烙理も疑問そうな顔をしながらではあるが、読み聞かせにかぶりつきで聴き入っている子供のように、じっと黙って、先輩のほうを注視している。
いつの間にか、全員の拭き掃除の手が、無言のうちに止まっていた。
リーダーの祥先輩も、特に、それを咎める様子はない。
すう、と、一呼吸置く。
数秒の、間。
サングラスを、おれに焦点を合わせようとしているように、押し上げる。
「長い髪の男を、そのあたりで見かけないか、という質問を、まず初めに投げかけてきた。きっと今でも、髪を伸ばし続けているはずだ、と」
探しているんだそうだ。
理由は知らんが。
つと宙を見上げ、また、おれに目を戻す。
「なあ」
覗き込まれる。
派手なサングラスの奥は、こんなに近いのに、薄曇りのレンズのせいでよく見えなかった。
「
ごくり、と、喉をなんとか動かして、口内に残っていた唾を飲み込む。
ヒョウ柄のキャップの、ちいさな後ろ姿。
記憶のなかで、揺れる。
確かにそれは、彼の。
小学校時代の、親友の、名前だった。
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