第6話 許容と掃除
「許すよ」
軽く、うなずく。
「というか、それが妥当なのかは分からないけれど」
四ツ角君が本来、決めるべきだろうからね。
こちらを、銀縁眼鏡のフレームを押し上げ、じっと見る。
「大丈夫かい?」
おれはゆっくりと、うなずいた。
「はい。もともと、出血には比較的、慣れているほうなので。もう、体調は大丈夫です」
「いや、そうじゃなくてね」
うーん。
腕組み。
でも、そうか、と、微かに笑う。
「なら、よかったよ」
「はい。この子――烙理のことも、ふつうに、許そうと思ってます」
謝ってくれてるし。
目の前でおばあちゃんから追い出されてたので、なんか、ちょっと、不憫っていうか。
「……志澄」
何か言いかけて、黙る。
首の包帯を、そっと撫でる。
しばらく、顔を微妙に伏せたまま、じっとしていた。
「ありがとね」
やがて顔を上げ、こちらを見据えて口にした言葉には、少々、バツが悪そうな感じが宿っていた。
「ああ。もう、勝手に吸わないでくれな」
首筋へそっと、意識を向ける。
まだわずかに、甘い脈動の余韻が残っている気がした。
「さて」
木島さんが、んっ、と伸びをする。
「こうして、無事、友達が召喚できたわけだ。途中いろいろ――本当に、いろいろ――あったけれど、まあ、結果オーライとしようか。四ツ角君」
軽く表情をゆるめ、けれどね、と、真剣な、いや、……非常に深刻な目で、次の言葉を口に出す。
「ひとつ、現実的な問題が、僕たちの前には立ちはだかっているんだよ。お気付きかな」
「な、……何?」
その声の、あまりの重々しさに、自然、こちらの尋ねる声も低くなってしまう。
烙理も、幾分緊張している様子で、おれのあとについて問いかけた。
「なんなのさ? もったいぶってないで、早く教えてよ!」
「まあ、そう急かさないで。単純明快なコトさ。見たらすぐに、分かる」
今気づいたけれど、その喋り方がちょっぴり、楽しそうに見えた。
(一段落したから、気が抜けたのかな)
さっきまで、おれの上にいた烙理を蹴りのけたり、彼の謝罪を突っぱねたりと、なかなか剣呑な雰囲気だったのに。
そういえば、こんな、少し芝居がかったというか、けっこうひょうきんな話し方をするひとだったよな、と今さら、再確認する。
すごく、感情を剥きだしていたというか。
(おれのことなんかで、そんなに怒らなくてもいいのに)
また、ネガティブな気持ちの中に、沈みそうになる。
それをぐっと引き戻すように、烙理が、おれの肩に手を置いた。
「志澄! ぼーっとしてないで、コミチに訊いてよ! ボク、ぜんぜんわかんない!」
後ろに、体重がかかって、足がずるりと滑る。
まるで、ワックスをかけた商業施設の床みたいな摩擦係数だった。
不意をつかれたような形になり、バランスを崩す。
「あっ」
「やば」
しめった音が、背中からした。
側頭部に、柔らかい感触。
「むぎゅぅ……」
烙理のおなかが、おれの頭部の下敷きになっていた。
「くるしい」
「わっ!? ごめん、すぐどくから!」
あわてて、身を起こす。
背中全体に、じっとりと貼りつく重み。
「……ん?」
木島さんが、あぁ、と嘆息し、頭を抱える。
「ごめんね。いま、言おうとしてたんだけど」
下のほうを、静かに指差す。
「部室の床がね。この儀式を行ったことによって、いま、もんのすごく、マズいことになってるんだよ」
自分の着ている服を、まじまじと見る。
後ろ側の布地を正面に引っ張ってきて、確認する。
「うわっ」
烙理もおなじような仕草をし、うわぁ、と、感動なのか驚嘆なのか、よくわからない声を洩らした。
「血まみれだねえ」
「そう」
着ていた服は、無残にも真っ赤になっていた。
今まで気づかなかったけれど、うつぶせになっていたからか、胸や腹のあたりも同じような状態だった。
外を歩いていたら、確実に職質どころか、署に連行までされるレベルだ。
「当然だけど、こんな格好じゃ外に出られないよね。まさかここまで、用意した諸々が、あたりに飛び散るものだと思ってなかった」
想定外だらけだよ、なさけない。
肩を落とし、意気消沈したように、深々と溜息をつく。
「どうします……?」
うーん、とうなる。
「とりあえず、部屋を掃除しますか。本とかが血なまぐさくなっちゃいますし」
提案すると、うなだれたまま、そうだね、と、力ない声で賛成する。
「換気したほうがいいかな? でも、窓が全部死んでるものね」
床じゃないところに寝ていたので、唯一、服の汚れがそこまで酷くない木島さんが、壁際に近づく。
それでも、外に出るのは憚られるくらいに、血がそこそこ付着している。
彼が換気扇のスイッチをつけようとするのを、待って、と止める。
「臭気が漏れてたら、事件性を疑われるんじゃないですか?」
「確かにそうだけれどね。心配ないよ? ここ、血の匂いとか日常茶飯事だから」
「え……」
絶句する。
「知らないのかい? この大学のサークル棟、けっこうな無法地帯なんだけど」
いくつかの、サークルの名前を挙げる。
どれも、学内では大規模に知られているものだった。
「あんなことやこんなこと、裏で頻繁に行われてるって噂だよ。っていうか、実際に見たし。先輩たちと一緒に」
「ひえぇ」
知らなかった。
むやみに近づかない方が良いな、と、心の中でひっそりと決意を固める。
「というわけで、換気扇をつけさせてもらうよ。僕からしたら、本の優先順位がより上だからね」
ぱちッ、と音がして、静かに、どこかでファンの回る音が聞こえてきた。
充満していた臭気が、少しずつ薄くなっていく。
「うん。これで、一安心だね」
あとは、身の回りをどうするかだけど……うむむ。
腕を組み、考え込む。
「厄介なのは、四ツ角君だと思うんだよねえ」
「そうだよね。志澄、髪もべっちょりだし」
烙理がおれの髪を手に取って、すんすん、と匂いを嗅ぐ。
びくり、と、思わず背中がふるえる。
「頭洗ったほうが、いいと思う。ボクにとってはいい匂いだから、ちょっと惜しいけれど」
「そっか。お前、怪異だもんな。吸おうとするくらいだし、好きなのか」
「うん」
うなずき、けれど流石に、落ちてるのを舐めるわけにはいかないや、と、眉をしかめた。
「そうだね。ばっちいからね、やめとこうか」
「子供に言うみたいな言い方やめてくれる?」
嫌そうに、木島さんへ苦言を呈したあと、床を見渡した。
「床掃除するの? めんどくさそう」
「そうだね。残念だけど、手伝ってもらうことになるかな」
目を細め、歩き回り始める。
隅々まで、うろうろと首を巡らせ、ふう、と残念そうに息を吐いた。
「うん。やっぱり」
ここ、掃除用具がない。
「え?」
尋ねる。
「ないんですか?」
「うん。ひとつもない」
二個上に、掃除好きの先輩がいてね。
ここにかつてあった掃除用具は、すべて、その先輩の持ち込んだ私物だったんだよ。
卒業するときに、回収してったみたいだ。
やれやれ、と天を仰ぐ。
「そんなことあるんですか……?」
「わりと、まかり通ってたね。少々、常識はずれなことくらいなら」
適当な感じに相槌を打ち、ポケットからスマートフォンを取り出す。
どこかに電話をかけ始めた。
通話口から、怒鳴り声のようなものが聞こえてきて、思わず肩がちぢこまる。
視線を感じて振り返ると、烙理が、じっとおれを見つめていた。
「寒いの?」
「い、――いや。ちょっと」
「ふうん」
電話に向かって、ぺこぺこと頭を下げている木島さんに、ちら、と視線をくれ、すぐにこちらに目を戻す。
「声に敏感なんだね」
「……分かってたのか」
「わかるよ」
だって。
ボクは、きみを――
何か言いかけたのを遮るように、木島さんがこちらを向いた。
「いやあ、ごめんごめん」
おれの肩を、ぽん、と叩く。
「待たせたね」
烙理が、じとっとした目で彼をにらむ。
「……今、大事な話しようとしてたのに」
「後で聞こう」
あっさりと言い放った彼に、剣呑な視線を刺す。
それをまあまあ、と、手で払いのけ、木島さんが言った。
「この状況だけど、解決できそうだよ」
「本当か?」
「うん」
得意げに、うなずく。
「先輩が、来てくれることになった」
「え」
先輩って、掃除好きの先輩?
問うと、ふたたび、うん、と返ってくる。
「
やさしそうな名前ですね、と言うと、いやいや、と首を振る。
「けっこう粗暴というか、なんというか……。クレイジーなひとだよ、かなりね」
箒で殴り掛かられたのも、一度や二度じゃないし。
物騒なことを口にしている割には、その頬はたのしそうに緩んでいる。
「でも、いいひとだよ。やらかした後輩の、後始末に駆けつけてくれるくらいには」
「……どのくらいで着くの?」
烙理が、そろりと質問を投げた。
「ボク、隠れてたほうがいいんじゃない? いちお、人間じゃないし」
「そこに気づくとは」
驚いたように目を見張る。
「自覚はあるんだね。特異な存在だってことの」
「まあね」
声が沈んでいる。
「流石に、わかってるよ。おばあちゃんからは、日ごろから、目立たないようにしなさいって言われてたし」
ボク、ちょっと、ヘンなコみたいなの。
向こうで、さえも。
ぽつりと、こぼす。
木島さんが、まあそうだね、とうなずいた。
「隠れる必要はないよ」
「え?」
どうして、と、彼を見上げる目が、不安そうにきょどきょどしている。
「僕を受け容れてくれた、先輩だからね。ちょっとヘンだったり、怪異だったりするくらいで、そんなにひどく拒絶するようなひととは思えない」
けど、ひとつ約束してほしい。
人差し指を、すっ、と立てる。
「彼の掃除の、邪魔をしないこと」
「……?」
危害を加えない、とかじゃなくて?
横からおれが確認すると、まあ、それもちょっとはあるけれどね、と頬を掻く。
「大体の場合、怒った彼の暴れようの方がまずいから。あと、この子はたぶんだけど、先輩に危害を加えることが、できない」
「ふうん」
それほどきっぱりと、言い切れるものなのか?
口に出しかけた疑問を、瞬時に飲み込む。
部室のドアが、ばぁんッ、と勢いよく、――開いた。
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