第5話 弱点と交渉

「うん」

 ずずい、と顔を寄せられ、一歩、後ろに退がる。

「読ませてよ!」

「……駄目だ」

「えっ?」

 首をかしげる。

「なんで」

 木島さんはしばらく、答えを練っていた。

 無言で、おれを指差す。

「さっき、四ツ角君に乱暴をしていたね。そんな扱いをする者に、僕の蔵書を貸すわけにはいかない」

 本棚を、見つめる。

「僕にとって、たとえ、さっき会ったばっかりでも、彼は、今までここに集めてきた蔵書と同じくらい、いや、――それ以上に大事にしたい、存在なんだ」

 自分の大事なものを、目の前ではずかしめられて、このうえさらに、別の大事なものをおめおめと差し出すわけがないだろう?

 まっすぐに、烙理を見つめる。

「ふうん」

 赤い髪を、ばりばりと掻く。

「理屈は分かったよ」

 ぶすっとした表情で、訊き返す。

「で? 本を読ませてくれる条件は何?」

「……意外だね。無理やりにでも強奪するのかと思った」

 抑えた声で、足に力を込める。

「そうしたいのは山々なんだけどさあ」

 銀縁眼鏡の奥の目が、かすかにこわばる。

「ばっちゃに知られたら、怒られそうだなって思って」

「……え?」

 目をしばたたく。

 思いのほか、弱気な感じのする理由だった。

 木島さんも同じことを思っているらしく、怪訝な顔をしている。

 烙理がしょぼくれた顔で、続ける。

「元はと言えば、ここに来たのも、ばっちゃから言われたからだし。お友達を作って来なさい、って」

「影響力すごいな」

 洩れた感想に、まあねえ、と、肩を落とす。

「育ての親だからね。逆らえないんだよ」

 何かを思い出すように上を向き、ぶるり、と、身体を震わせた。

「なんかやらかすと、折檻せっかんされるしさ」

「折檻……」

 どんな?

 緊張した面持ちで、木島さんが尋ねる。

「というか、そちら側の世界にもそんな概念、あるんだね」

「うん」

 背を丸め、悄然と頭を垂れる。

「ひどいんだよ。一週間くらい、口をきいてくれなくなるの」

「え」

 すん、と鼻を鳴らす。

「ボク、おばあちゃんしか、話せるひといないのに。おばあちゃんがいなくなったら、ボク、どうしていいか分かんない」

「……」

 木島さんが、何か思いついたように、彼に声をかけた。

「ねえ」

「何さ」

 濡れた目で、見下ろす。

「そのおばあさまは、ひとを傷つける奴、嫌いかな?」

 彼はしばらく黙っていた。

「たぶん、嫌い」

 そっぽを向く。

 仏頂面。

 その瞳が、どこか不安そうに揺れている。

「そうか」

 銀縁眼鏡を、ゆっくりと押し上げる。

 慎重に、なおも、言葉を投げかける。

「怒るんじゃない? 今回、四ツ角君にしたことを、知ったら」

「きっと、怒る」

 子どものような口調だった。

 さっきまでの威圧感は、影も形もなく、どこかへ消え去ってしまっている。

「でも」

 気丈に口角を吊り上げる。

「知らせる方法が、ないじゃん。ボクが自分から、言わないと、伝わりっこないもん」

「……そうだね」

 木島さんが、ふむ、と、あごに手を当てる。

「抑止力としては、いささか弱いと言わざるを得ないね」

「そうだよ!」

 両手を広げる。

「そッ、そんなことで、ビビらないもん。ボク、強いんだから。あんたらなんかのハッタリに、びくびくしてられるもんか」

 突き出した人さし指が、見て分かるくらいに上下している。

「……?」

 その時。

 なにか、音が聞こえた。

 少し奇妙な音律の、機械的なノイズの入ったメロディ。

 烙理の表情が、一瞬のうちに凍り付いた。

 その視線は、彼のズボンのポケットに向けられている。

「おッ、……おばあちゃん」

 スマートフォンに似た、けれどどこか趣の違う機械を取り出す。

 その画面を見て口元を引きつれさせ、怯えたように目を、ぎゅうっ、と瞑る。

 着信音は固まった彼を急かすように、気のせいか徐々に音量を増している。

「出ないのか?」

 指差して尋ねると、肩をおおげさなくらいに跳ねさせた。

「うッ、うっるさいな! 出るに決まってるでしょっ! 全然、怖くなんてないんだから! ボクがちょっと本気出したら、おばあちゃんも、ちょっとの乱暴なんて、許してくれるに決まってるもんッ!」

 通話ボタンを、勢いよく、爪をぶつけながらタップする。

「もしもしおばあちゃん!? 今、人間と話してるの! おはなしなら、後でにしt」

「烙理?」

 静かな声が、通話口を抜けて部屋に染みた。

 じんわりと、空気が変質していく。

 妙齢の女性の声。

 やけにごろごろとして、聞き取りにくい音質ではあったが、確かに、発話の内容は耳に届いていた。

 おごそかな、声のトーン。

 寒気がするわけでもなく、金縛りのように、身体が動かなくなるわけでもない。

 けれど、――その声に、言葉に、染みわたった圧のようなものを、しっかりと感じるような、雰囲気だった。

「……はい」

 烙理の声が、すぐさま消沈する。

 こちらをちらりと見、気を取り直したのか、再度、胸を張る。

「だ、大丈夫だよ、心配しなくてもさ! 友達、ちゃんとできたよ! ゆーこー的に、これからの計画立ててたとこだから!」

「へえ?」

 機械の向こうの声が、こころなしか和らぐ。

「もう、仲良くしてくれるヒトを見つけたのかい。えらいねぇ」

「え、えへへ!」

 目を力いっぱいぎゅっと細めて、うれしそうに、空いている方の手を、ばたばたと振り動かす。

 とても、無邪気なしぐさだった。

「でしょ? ほめてよ、おばあちゃん」

「ああ」

 数秒の、間。

「お友達に、ちゃんと謝れたら、ほめてあげようね」

「……え?」

 烙理の頬を、つるう、と、大粒の冷や汗が流れていく。

「血を吸わせて、なんてね。初対面の人間にいうもんじゃないよ」

 ゆったりとした口調で、諭す。

「それはね。人間相手にやるのは、そのひとの命を握ることに等しいんだよ」

 烙理。

 おまえは、食いしん坊だからね。

 その欲望をまるまま受け止めさせたら、十中八九、その子は絶命する。

 淡々と、分かり切った事実を陳列するように、告げる。

「ましてや、食糧係、と、そう言い放ったそうだね。傲慢にも、これから懇意にしていかなきゃいけない、かけがえのない存在に向かって」

 声が、だんだん低くなっていく。

「烙理。おまえが何を考えているのか、さっぱり、ばあちゃんは分からないよ」

「……」

 烙理が、唇を丸めて黙り込む。

 うつむく。

 その歯が、わずかにかちかちと鳴っている。

「ねえ。どういう思考をして、その行動に至ったのか、おばあちゃんに、一から十まで教えてくれるかい?」

「おッ、おばあちゃん!」

 狼狽した様子で、声を張り上げる。

「じょッ、冗談だったんだよ! 気の良いジョークさ! お友達に、乱暴するなんて、ボクがそんなふうに見える? 見えないでしょッ!?」

 通話口の向こうには見えないはずなのに、自分のことを、立てた親指で指す。

 いや。

 さっきの口ぶりからして、もしかすると――。

「ほう」

 ふんふん、と、何かの匂いを嗅ぐような、鼻息に似た音が聞こえてくる。

「そんなふうには、見えないね。確かに」

 烙理の顔が、一気に、明るくなる。

「でしょ? ボク、そんな悪い子じゃないもん!」

「うん」

 断ち切るように、すっぱりと。

「今までは、そんな子だと思ってなかったよ。そう、今まではね」

「え……」

 ぴしっ。

 そう音が聞こえそうなくらいに、目に見えて、彼の表情が固まる。

「残念だよ。おばあちゃんは、今、とっても悲しい気持ちだ」

 感情の読み取れない、平板で冷酷な声。

「しばらく、おまえ、帰って来なさんな」

 告げる。

 かつーん、と、機械が床に落ちた。

 声の源は遠くなったはずなのに、不思議と彼女の言葉は耳へ、何ら障害などないようにはっきり、明朗に届く。

「その子たちのことを、ちゃんと胸を張って、大切なひとだと言えるようになるまで、帰宅を禁じます」

 他人行儀な語尾。

「人間界のお金は、なんとかして、工面してあげるからね。あとで、そうだね……詐欺だって立件されちゃわないよう、何らかの手段で送るから」

 それで、当分生活できるだろう。

 そちら――人間界でね。

 ふふ、と、くぐもった笑い。

「反省して、心を入れ替えなさい。一回り成長した姿を、楽しみにしているからねえ」

 烙理が、悲鳴をあげる。

「待って、おばあちゃん! ボク、そんな、おばあちゃんなしでなんて――」

「じゃあね。気張るんだよ」

 一方的な励ましに、烙理の顔が絶望の一色に染まる。

「おばあちゃ――」

 ぷつっ。

 弁明等は認めないとでも言わんばかりに、通話が切れる。

 おぼつかない指使いで、烙理がもう一度番号を打ち込み、通話ボタンを押す。

「おかけになった、番号は、繋がりません」

 ノイズに埋もれるようにして、そう、非情な録音メッセージ。

「……そんなあ」

 しゃくり上げる。

「帰れないだなんて。こんなこと、今まで、一度もなかったのにい」

 ぐすっ、ひっく、と、悲壮な嗚咽を洩らす。

 大きな目から、ぼろぼろと、玉になった涙の粒がこぼれおちている。

「大変なことになったな」

 半ば憐れみ交じりに声をかけると、こちらを向く。

「志澄……ごめんねえ……」

 乱暴にぐしぐしと涙をぬぐった袖が、濡れそぼってべしょべしょになっている。

「いまさら謝られても、信用できないね」

 木島さんがつめたく言い放つ。

「は?」

 とんがった視線をよこす。

「なんで?」

「おばあさまが弱みだってことは、十分すぎるほどに分かったけれど。やはり、四ツ角君にしようとしたことは、そう簡単には許せない」

 睨み合う。

「そこで逆切れしているのが、まさしく、お前の本質と言って差し支えないんじゃないのかい。徒狩、烙理」

 眼鏡のフレームを、ゆっくりと持ち上げる。

「見た目こそ人間をよそおって、頭の上がらない祖母に平謝りしていても、彼女が自らを戒めた理屈を、本当には理解できていないんだろう?」

「……わかってるよ。そのくらい」

 唇を噛む。

 強気な瞳。

「そこまで、馬鹿じゃないもん。勝手に血を吸っちゃったから、でもって、――これからお友達になるひとに、乱暴したから」

 でしょ?

 見つめ返す。

 もう、さっきまでのぎらついた敵意は、そこにはなかった。

「ごめんなさい。志澄、コミチ」

 たどたどしくもしっかりと、礼をする。

「うん」

 あっさりと、うなずく。

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