第2話 部長とお誘い
敷地内に入る。
そのまま直進すれば、普段授業を受けていたB棟に突き当たる。
しかし青年は、はるか手前で右へと折れた。
薄汚れ、黄ばんだ建物。
(ここは……サークル棟か)
自分にはほとんど縁もゆかりもない、元は白かっただろう壁を、ぽけっと眺める。
入口を何食わぬ顔で通過した、その瞬間。
やべえ、と唐突な叫び声が聞こえ、眉をしかめる。
「あいつじゃん!」
視線と、破裂するような笑い声が背中に刺さってくる感じがして、身体が萎縮する。
目を伏せ足早になると、手を引いていた青年が、くるりと振り返った。
「おや。乗り気になったみたいだね」
うれしそうに、頬をゆるませる。
「さっきまで、目的地に着きたくないのかってくらい、のろのろしてたのに」
「あなたの歩くスピードが、異常なだけだと思います」
イラ立ちを露わにした直後、即座に、口を縫い合わせたくなる。
「すみません。失礼なことを」
「いいのいいの」
にこにことして、付け加える。
「彼らのことはね、気にしちゃあダメだよ?」
「え」
「さすがに今のは、冗談さ。キミの行動原理くらい、僕にだって分かるもの」
同族だし。
なにげなく口にした、言葉。
「それって――」
「僕も、言っちゃ悪いけれど、キミと同じってコト」
小学生のときから、ひどい人見知りでね。
けれどその背中は、しゃんと伸びている。
「人間が嫌いだった。でも逆に、怪異とか幽霊とかそういうものには、不思議と惹かれたんだ」
柔らかなふふ、という笑いが、冷たい風に乗って流れてくる。
軽やかだけれど、どこか、湿度を感じる声色だった。
心臓がひとつ、どきりと跳ねる。
汗ばんだ手を、外れないようにと、慎重に握り直した。
「暑い? けっこう歩いたからね」
歩調をゆるめ、隣に並ぶ。
さらさらした黒髪からは、ほのかにサボンのいい香りがした。
たまに、色を抜いたようにしろい筋が数本、そのなかに見え隠れする。
こんなにまじまじと他人を観察したのは、いつぶりだろう、と思った。
「キミ」
ふいに、呼ばれる。
「……はい」
「名前、なんていうの?」
って、僕も名乗ってなかったね。
自分の頭を、軽く叩く。
ズレた銀縁眼鏡を手早く直し、僕から先に名乗らせてもらおう、と朗らかに。
「僕は、
「おお、イメージしやすい。字面がすぐ、浮かんできた」
口に出た率直な感想に、でしょ、と、親指を突き出される。
「我ながら、ベリーグッド。秀逸、秀逸」
耳で聞いただけでもぱっとわかりやすい名乗りを、最近、ずっと考えてた甲斐があったや。
ね、キミも教えて、とはにかむ。
「え、っと。
「志に、澄みわたるのスミ、だよね」
得意満面で、そう先回りされた。
「いや、いい名前だよねえ。珍しいから、一意性もあるし――」
「え?」
「あっ」
口を押さえる。
両手をぴったりとふさぐようにあてがったまま、上目遣いでこちらをうかがう。
「おれの名前、知って、るんですか……?」
でも、訊いてきたのは向こうだし。
あれ?
混乱してわたわたしていた手を、もう一度、掴む。
最初より、幾分弱々しかった。
「……怒らない?」
おそるおそる、といったていで、問いかけてくる。
「はい。別に怒ったりは、しませんけど」
理由も、特に見つからないし。
そう言うと、彼はぱちぱちと、目をまたたいた。
「へぇ、興味深いね。だいたいのひとは、自分の名前が勝手に知られてたら、気味悪がるものだと思ってたんだけど」
「まあ、確かにそうですね」
うなずくと、しぼんだ風船のようにうなだれるので、あわててフォローする。
「だ、大丈夫ですよ、しょげなくて。おばあちゃんから、ささいなことに目くじらを立てるなって、昔しつけられてましたから」
「本当? ゆるしてくれる?」
眼鏡の奥でわずかに、黒い大きな目がうるんでいる。
こころなし乾燥した唇を、結び、 力強く首肯する。
「はい」
頼もしい表情に見えるように、と、意識的に。
「そっか。よかったぁ」
さっきまでの無邪気さが、戻ったようだと確認し、ひとつ息をつく。
動悸はまだ、わずかに早く刻まれていた。
(……泣いちゃうのかと思った)
そんな考えが頭に浮かんで、目を閉じる。
大学生にもなって、そんなわけがないだろう。
いつもなら、そう、笑い飛ばせていたはずだった。
けれど。
よくよく思い出せば、おれも今朝、泣きそうになっていたのだった。
「いいおばあさまだ。感謝しよう」
彼の元気な声で、我に返る。
「でしょう」
おれの、大好きな人ですから。
傍目から見たらきっと、こっぱずかしいようなことを、ぬけぬけと口にしてしまったことに、遅ればせながら気づく。
気にする様子は、それほどなかったことにほっとする。
「おばあちゃんっ子だったんだねえ。さらに深く知れて、うれしいよ」
ぜひいつか、会いに行きたいな。
にこりと笑い、照れくさそうに補足する。
「もっとも、家に訪ねていけるほど親しくなれるかは、まだわからないけれどね」
いや、もう亡くなってます――。
言いかけて、口をつぐむ。
心底楽しみそうな顔の彼に事実を告げるのを、一瞬、ためらってしまった。
「いま、何歳なんだい? おばあさま。元気にしているかな」
興味津々な表情。
「……部室って、どこにあるんですか? もうさっきから、かなり歩いてますよね」
本来タブーの質問返しに、その目が大きく見開かれる。
「あ、ごめん。もうすぐ着く」
膝痛いでしょう、と、気遣いの言葉。
「いいえ、大丈夫です」
「デリケートな話だからねぇ。家族とか」
空いた手で、頬を掻く。
「これだから、距離感おばけってよく言われたのかな、僕。あはは」
「距離感おばけ……」
確かに。
妙に、腑に落ちるあだ名だった。
「おれみたいな奴に、話しかけるくらいですしね」
ぼそりと言う。
「迷惑だったかな。ごめんね」
声が、ちょっぴりまた、沈む。
眉を下げ、こちらを見る。
「いえ。全然、迷惑なんかじゃないです」
むしろ、と続けそうになったのをそっと、胸にとじこめる。
かわりに、ぎこちなく微笑むと、返ってくる同じ表情。
「ありがとう」
どうやら、伝わっているようだった。
◇
「……ここですか?」
「そうだよ」
サークル棟の最上階。
何のプレートもかかっておらず、気のせいか他の部屋よりも老朽化しているドアの前で、木島さんがこくりとうなずいた。
「以前お世話になってた部室を、そのまま丸々譲り受けたんだ。あ、あとね」
にこにこしながら、指を立てて自分に向ける。
「僕ここで、ちょっとした有名人なんだよね」
「え」
何でですか?
うーんとね、と苦笑いする。
「今言った、お世話になってたひと達が、俗にいう問題児だったから」
ドアを開ける。
「まあ、外は寒いしさ。入ってから、話そうか」
「……はい」
失礼します、と頭を下げる。
埃っぽい空気。
「うわ」
思わず、素の引いた声が出てしまう。
暗い、窓のない部屋だった。
よく見ると窓がないわけではなさそうだった。
元々のものが全て、天井へと一直線にそびえ立つ本棚で隠されているのだ。
上段には文庫本や、少し昔の年代のコミックスが、まばらに並んでいる。
そして、手に取りやすそうな下の方には、――おどろおどろしい紫や黒の背表紙がぎっちりと。
おそらく、オカルト系の書籍と思われた。
「あはは。びっくりしてるねえ」
からからと、声を立てる。
「僕の、趣味の本だよ。部室を受け継いでから、時間をかけて集めたんだ」
「すごいですね……」
感嘆のため息が、思わず口から洩れた。
特化した品ぞろえだからか、地元にあった図書館より、ラインナップとしては充実している。
「ひとまず、座っていいかな。疲れちゃった」
部屋の奥に歩いていき、二人掛けのソファの左側に、ゆったりと腰かける。
「ごめん。他に、柔らかい椅子が無いんだ」
軽く詫び、遠慮がちに、隣へと手をおく。
気まずくはあったが、それに従うことにする。
黒いつやつやとした生地の座面に、ぎくしゃくとして尻を落ち着ける。
間を空けて座ろうとするには多少、狭い。
「……距離感」
「反省が全然、できてなかったね」
「気にしないでください」
ポケットから、しらっと絆創膏を取り出す。
「あれ。持ってたんですか?」
「ん、今気づいた。消毒液とか一式、部室に忘れてきてたから」
立ち上がって、本棚の陰へと消える。
ごそごそと、袋の擦れる音。
「あ、あった、脱脂綿」
両手に応急処置の用具を携え、戻ってくる。
足元へひざまずく。
「ズボン、まくって。手当する」
「あ、はい」
擦りむけた傷に、染みる痛み。
大きめの、若干ぺとついた絆創膏。
丁寧に処置を終えた彼に、礼を言う。
「いえいえ。これで、ゆっくり話ができるね」
実は、ここに連れてきたのには、もうひとつ目的があって――。
そろえた指を、本棚へと。
「ある儀式を、キミとやってみたかったからなんだ」
「……え?」
手を伸ばし、そばにあった一冊の本を示す。
『友達を作る儀式』
でかでかと太いゴチック体が躍る、表紙。
「本気ですか?」
「うん。本気」
平坦な声で、さっくりとした返し。
「この儀式の、ここまでやってみたんだけどさ」
ぱらぱらとページを途中までめくり、目の前に差し出してくる。
「けっこう、本格的ですね」
「うん」
塩に精油、曇りのない鏡、精製水、エトセトラエトセトラ。
工程も多く、とても、生半可な思いでできる代物ではない。
「でね。これに、長い髪の毛が必要なの」
「なるほど」
だから、呼ばれたというわけか、と首肯する。
首肯する。
「あと難関なのは、新鮮な血だけど、まだこっちは考え中」
というわけで。
前置き、こちらを見る。
「お願いします。儀式に、協力してください!」
つむじが見えるくらいのおじぎに、戸惑う。
「え。……ええ?」
けれど半分、建前だった。
(友達ができる?)
出てくるのは十中八九、怪異とかそういう類だろう。
(でもそれで、――このひとが、喜ぶのなら)
不安そうな目が、こちらを見ている。
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