第2話 策謀の胎動

 永禄十二年十月十五日。甲斐の国、躑躅ヶ崎館に轟いた鬨の声は、武田信玄が推し進める上洛作戦の開始を告げていた。


 東海道を進む一万五千の兵を率いるのは、武田四天王の一人、剛勇の士・馬場信春。副将には、卓越した機動力と戦術眼を持つ山県昌景が控える。信玄から陽動部隊としての任務を言い渡された彼らは、織田・徳川連合軍の注意を引きつけ、北陸道を進む本隊の進路を確保するという重責を担っていた。


 甲府を出陣した東海道軍は、韮崎、小淵沢を経て諏訪へと進軍。各地で兵を収容し、陣容を整えながら南信濃へと駒を進めた。飯田、駒ヶ根を過ぎ、松本へと辿り着いた頃には、その大軍勢は威容を誇っていた。松本城は、彼らの進軍の足跡を示すように、武田家の旗印で埋め尽くされていた。


 しかし、その威容とは裏腹に、大将・馬場信春の心中は穏やかではなかった。松本城天守閣の一室。夕餉の膳を前に、馬場は副将・山県昌景と向かい合っていた。豪華な料理が並べられているにもかかわらず、二人の表情は険しく、箸を持つ手も重い。


「…昌景、この陽動作戦…あまりにも危険ではないか」


 馬場は低い声で切り出した。長年の戦で刻まれた深い皺が顔を覆い、髭に覆われた口元は固く引き締められている。


「敵に背を向け、退却を繰り返すなど…武士の誉れに悖るばかりか、全軍の危機を招きかねん」


 山県もまた、深刻な表情で頷いた。


「仰せの通りです。敵は我らの動きを容易に見抜くでしょう。陽動と見破られれば、挟撃されるのは必定。最悪の場合、この松本城で孤立無援となるやもしれませぬ」


 重苦しい沈黙が二人を包んだ。蝋燭の灯りが揺れ、壁に映る影が不気味に蠢いている。


「…ならば…」


 馬場は意を決したように口を開いた。


「…我らは、この松本城から一歩も動かぬ。動かざること山の如し…敵を牽制し続けるのだ」


 山県は驚きを隠せない表情で馬場を見つめた。


「…それでは…おやかた様の作戦は…」


「…おやかた様の作戦など、最早どうでも良い」


 馬場の言葉は冷酷だった。


「北陸道を進む本隊は、いずれ織田の軍勢に捕捉されるであろう。そうでなくとも、険しい山道を進むうちに疲弊し、力を失うのは目に見えている。その時こそ…我らの出番だ」


 馬場の瞳に、野心の色が宿った。


「おやかた様が討たれたという知らせを受ければ…我らは一万五千の兵を率いて甲府へ引き返す。そして…武田家を…この我らの手で掌握するのだ」


 山県は暫く沈黙した後、ゆっくりと口を開いた。


「…私も…同じことを考えておりました」


 二人の間に、暗い笑みが広がった。それは、主君への裏切りを企てる者たちの、危険な共犯関係を確認する笑みだった。


 その夜更け、松本城下には不穏な空気が漂っていた。兵士たちは、上官たちの異様な雰囲気を察し、不安げに囁き合っていた。月明かりの下、城の周囲を巡回する足音だけが、静寂を破っていた。

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