第16話

 藍たちはコントローラーを手にソファに座った。私はソファの後ろから二人の様子を見守る。見下ろした彼女たちの背はちょうど同じくらいだった。こうして並ぶとますます妹みたいに見えてくる。


「妹が二人になったみたいだね!」


 ニコニコ笑っていると「は?」とでも言いたげな顔で、わが妹が振り向いた。けれど真緒がいる手前、自重したのだろうか。鋭い視線を飛ばしてくるだけで無言のまま正面に向き直っていた。


 振り返ることもなく興味深そうに手元を見つめるのは真緒だ。家にゲーム機はなかったと思う。これまで勉強ばかりだったから、操作の仕方も分からないのではないだろうか。

 

 案の定、初めてスマホを手にしたおばあちゃんみたいに、おっかなびっくりでボタンを押している。


 そんな有様をみた藍は眉をひそめた。


「……真緒さんってゲームで遊んだことあるんですか?」

「ない」


 即答だ。その割には自信満々に胸を張っている。


「でもゲームセンターのゲームは得意だった」

「あー、昨日三人で遊びに行った時の……」


 確かに上手だった。でもあれはシューティングゲームだったりレースゲームだったりで、今から遊ぶのとは全くジャンルが違う。藍がやろうとしているのは格闘ゲーム。某有名ゲーム企業の場外に吹っ飛ばすあれだ。パーティーゲームとして調整されてはいる。けれど全くの初心者が遊ぶには情報量が多すぎるし、操作も難しい。


「真緒さん、とりあえず練習ってことで一戦やってみませんか」


 藍もすっかり優しい目になっている。まるでハイテクに不慣れなおばあちゃんと、優しい孫のようだった。


「……分かった」


 真緒は不承不承な声だが頷いた。分かっているのだろう。自信があっても過信は良くない。それは勉強にも言えることだ。分かった気になるのは、何も分からないと自覚している時よりも遥かに危険なのだ。


 藍はゲームを操作して、試合の準備画面を表示した。たくさんのキャラクターが並んでいる。


 その瞬間、真緒は心細そうな顔で振り向いた。


「聖。私は大丈夫。勝てると思う。たぶん……」


 思っていたゲームと違うことが分かって、不安になったのかもしれない。声が弱々しい。

 

「負けても大丈夫だよ。というか勝てないと思う。藍ってかなり強いし」


 お姉ちゃんよりも一か月も長くこのゲームを遊んでいる。私もまだまだ勝てない。


「……でも」

「いいんだよ。気持ちだけで十分。というか私はお姉ちゃんだから、妹の心を開くのは自分でありたい」


 笑って真緒をみつめた。


「やっぱり聖は世界で一番のシスコン」


 真緒も穏やかに笑う。果たして褒められているのか。疑問は残るけれど親友の顔からは緊張が消えていた。一方で藍はやれやれと肩をすくめている。


「いつものことだけど、そういう小恥ずかしいこと本人の前で言うってどうなの?」

「お姉ちゃんは藍のこと大好きだからね。恥ずかしくないんだよ」

「あんたじゃなくて、私が恥ずかしいんですけど」


 深くため息をつきながらも、藍は真緒に目を向ける。


「遊び方分かりますか?」

「家で遊ぶゲームはテレビのCMでしか知らない。分からないから教えてほしい」

「いいですよ」


 いつもの藍が見せないような、お母さんみたいに優しい微笑みが現れた。思わず目を奪われる。真緒に顔を近づけて、キャラクターの動かし方だとか、攻撃の仕方だとかを丁寧にレクチャーしている。


「藍もそういう顔するんだ。なんだかお姉ちゃんみたい」


 微笑むと、どういうわけか我が親友が不満げな目を向けてきた。


「聖はやっぱり私のこと妹みたいに思ってる?」


 図星を突かれて苦笑いする。


「ごめん、嫌だったかな」

「そんなことはない。でも対等に見てくれた方が嬉しい」


 対等どころか、ほとんど全てにおいて真緒の方が優れているとは思う。大学で「聖のことをお姉ちゃんみたいに思っていた」って言われたときは正直びっくりしたし。


「親友だもんね。ごめんね」


 苦笑いしていると、藍がじっとりとした目で見てきた。


「あんたって本当に鈍いよね」

「鈍い?」


 ため息をつく藍に、なぜか真緒が驚いたような顔をした。どういうわけか、それをみた藍はニヤニヤとした笑みを返しているのだ。お互いに妹だから、何か通じ合うものがあるのだろうか?


「お姉ちゃんだけ置いてけぼりにしないでよ!」

「置いてけぼりにしたんじゃなくて、あんたが勝手に置いて行かれただけでしょ。普通なら分かるんだよ」

「えっ、分かるの?」


 真緒は顔を真っ赤にして藍に顔を寄せた。反応が面白いのか、わが妹はからかうみたいな笑みだ。


 お姉ちゃんは首をかしげる。藍と真緒は恥ずかしいことを共有してるってこと? それらしき言葉なんて交わしてないはずなのに、まさか仕草だけで通じ合ったというのだろうか。初対面なのに。


 お姉ちゃんの気付かないうちに、妹の神秘が繰り広げられていたようだ。


「……やっぱりお姉ちゃんには分からないよ」


 種明かしのない手品みたいにもやもやする。


「ねぇ真緒、教えてよ。どういうこと?」

「……聖のばか」

「ひどい!」


 真緒にすら馬鹿にされてしまった。不貞腐れたみたいに頬を膨らませているのだ。藍も呆れ顔だった。


「この鈍感姉は放っておいて二人で遊びましょうよ」

「うん。そうしよう。藍はとてもいい子。よしよし」


 お姉ちゃんが撫でたら即座に振り払うくせに、見せつけるみたいになでなでを受け入れている。気持ちよさそうに細められた目が、ばっちりとお姉ちゃんの方を向いているのだ。嫉妬の炎が強火で燃え上がる。


「ちょっと真緒。だめだよ! 藍の頭なでなでは私のものなんだから!」

「そんな法律はない。道徳的にも許されている。聖に反論する権利はない」


 思わぬ強硬姿勢にひるんでしまう。真緒がこんなにも不機嫌になるのは初めてかもしれない。


 そこまで悪いことをしてしまったのだろうか。いくら考えても、やっぱり分からなかった。


 何かしらの秘密を共有したこともあってか、二人は本物の姉妹みたいに楽しくゲームを遊んでいた。


 やがて日も傾きはじめたからと真緒が帰り支度をはじめれば、藍が「まだいてもいいのに」としきりに腕を引っ張っている。それでもだめそうだと理解したのなら、惜しみつつも玄関まで見送りに行った。


 普段の藍は何処へ消えたのやら。肩をすくめて苦笑いする。


「藍、一緒に遊んでくれてありがとう。また遊びに来てもいい?」

「いいですよ。大歓迎です!」


 別人みたいにニコニコする藍とは裏腹に、真緒は寂しそうに微笑んでいた。名残惜しいのだろう。静かな夕暮れを一人で帰るのは孤独を伴う。


 いつにも増して小さく見えて、庇護欲をくすぐられてしまう。妹扱いは嫌だって言われたけれど、やっぱり放っておけない。この子を一人にしたくない。


「送っていこうか?」


 真緒は迷うように黙り込んでから小さく頷いた。


「ありがとう。聖は優しい」


 嬉しそうな真緒とは正反対に、藍は「送って当然ですよ」と謎に胸を張って威張っている。相変わらずお姉ちゃんには反抗的な妹だけれど、今日は楽しんでくれたみたいでよかった。すっかり上機嫌なのだ。


 昔なら真緒を見た瞬間に、お姉ちゃんの後ろに隠れていたのだろう。小学生の頃は人見知りがひどかった。家族以外の全てに悪意を見出しているのではないか。そう不安になるくらいには、人間を怖がっていた。


 それが今やニコニコ笑って一緒に遊べるようになった。窓から差すオレンジ色の光に足元が照らされる。運動靴に履き替えながら、その隣にある何倍にも大きくなった藍の靴を見つめて思う。心も体も本当に成長した。


「それじゃ真緒、帰ろう」

「うん」


 真緒はごくごく自然に私の手を握ってきた。本当にこの子は甘えん坊だ。自然とかつての藍を思い出す。微笑みながら扉を開けば、まばらに雲の浮かぶ藍色の空に斜陽が沈みかけていた。夜の端には星も瞬いている。


「真緒さん、頑張ってくださいね!」


 振り向けば藍はニヤニヤしていた。一方真緒はどういうわけか、首をぶんぶん横に振っている。私がトイレに行っていた間に何かしらの会話があったのだろうか。それか実は妹はテレパシーで通じ合えるとか。


「伝えないとどうにもなりませんよ」

「……分かってる」


 手を握る力が強くなる。横顔もひどく強張っていて、とても心配だ。


「やっぱり相談に乗ろうか?」

「……相変わらず聖はひどい人」


 不貞腐れたみたいな半目で見つめられたかと思えば、繋いでいた手に指が絡んできた。手のひらがより密着してくすぐったいし、恥ずかしい。確かこういうつなぎ方を恋人繋ぎと呼んだ気がする。


 ……恋人繋ぎ?


 たった一つの単語で、散らばっていた点が線で結ばれていく。……そういうことなの? 横目でちらちらと真緒の様子をうかがう。この子も高校生だ。恋をしても不思議ではない。でもまさかその相手が私とは思わなかった。


 なんて確信めいたことを思いながらも、間違いだったら自意識過剰で恥ずかしいから、いつも通りを装う。真緒は藍に別れの挨拶をしてから、私の手を引っ張って玄関の外に出た。人も車もまばらな住宅街を歩いていく。


 今も手はがっちりと繋がれていて、落ち着かない。


「こんな感情が現実に実在するなんて、知らなかった」


 橙の空をカラスが鳴きながら飛んでいく。二つの黒い影はいつまでも一緒だった。真緒はそれを羨ましそうにみつめている。隣に目も向けていないのにそんな気がしたのだ。


「他人は流れる川で、通り過ぎれば振り返ることもない。私は孤独に耐える石で、年月に削り取られてバラバラになるまで一人でいる。これは、死ぬまで変わらないんだって信じていた」

「それは悲観的すぎないかな……」


 真緒は良い子だ。中学からの四年の付き合いで、よく分かった。不愛想なせいで勘違いされがちだったけれど、今は感情も表に出すようになった。この子には、輝かしい未来が待っているはずだ。


 夜の近い空を、今にも泣きそうな顔でみつめるのは間違ってる。


「辛いことがあるのなら教えてほしいよ。私にできることなら何でもするから」

「本当になんでもしてくれる? ……私、聖のこと恋愛的な意味で好きみたい、だけど」


 熱を帯びた瞳が私をみつめる。向けられたことのない感情に、怯みそうになる。


 告白を受けたことはこれまでにもある。けれど私はまともに人付き合いをしてこなかったから、振られること前提の言葉ばかりだった。それに比べて、真緒のこれは何なのだろう。


 軽い気持ちなんかじゃない。私が受け入れると確信しているようにもみえない。


 むしろ振られることを知っていて、それでも無理に奮い立たせたみたいだった。


「……うん。何でもするよ」


 力なく微笑んで真緒の手を握り返す。


 かつての私は、藍だけでいいのだと、近い未来に訪れる永遠の孤独を受け入れていた。まさか家族以外に親しい人ができるなんて思ってもいなかった。でも今は真緒を傷つけたくない。真緒に嫌われたくもない。


「だったら、その……」


 心配になるくらいに顔色が赤い。慌ただしく自分の頬を撫でたり、髪の毛で遊んでみたり、錯綜した心の中が透けて見えるほどに大慌てだ。可愛いなぁとは感じる。でもこの気持ちが恋かと問われれば違うと即答するだろう。


「何をすればいいの? ……その、キスとか?」

「きっ……きす……」


 目がぐるんぐるん回っている。感情を揺さぶられすぎて、めまいでも起こしているだろうか。ふらふらして今にも倒れそうだったから、手をつないでない方の手で体を引き寄せた。


 片手は恋人繋ぎだから、体を支えようと思えば必然的に抱きしめるみたいな姿勢になる。


「……その、聖は、私のことが好き?」


 か細い声が胸の中から聞こえてきた。見下ろせば今も綺麗につむじが巻いていた。


「どうだろう。友情的には間違いなく好きだけど」

「……だったら聞き方を変える。いつまでもずっと一緒にいてくれる?」

「いつまでも……」


 言い淀む。藍が相手なら即答していたのだろう。でも悩む。それ自体が答えのようなものだ。私はこの世にお姉ちゃんとして生まれてきた。藍のお姉ちゃんであるために生きてきた。


 逆に言えば、それ以外のアイデンティティは極めて希薄だった。


 藍のためなら何でも本気になる。いつかお互いに大人になった後の孤独な人生ですらも、あの子の幸せを願うためなら、生き抜ける。けれど真緒とずっと一緒に、というのはあまり確信が持てない。


「それもよく分からない。ごめん」

「……大丈夫。聖のことはよく分かっている。例えば聖は自分そのものに、それほど価値を感じていない。だからキスだって簡単に差し出そうとする。でも親しい人のことは尊重してくれる。価値だって認めてくれる」


 聖はそういう人。悲しそうな表情で真緒はつぶやいた。


 そうなのかもしれない。ただ、私が自分を軽んじるのは、藍や真緒がそれ以上に大切だからだ。けれど大切な人がいない人生を考えたとき、自分のために本気になれるのかは、やっぱり分からない。


「聖のことは分かっているから謝らなくていい。……むしろ悪いのは私。困らせるって分かってた」

「でも我慢できなかったんだよね?」

「……うん」


 攻めるつもりはないのに、しゅんとうつむいてしまった。


「無理に抑える必要はないよ。知らない所で真緒が悩んだり苦しんでる方が、私は辛い」

「やっぱり聖は優しい」


 顔をあげた真緒は、照れくさそうに笑っていた。


 ふらふらが落ち着いたから、また二人で手をつないで歩いていく。薄暮の世界は影が長い。家も塀も走っていく子供だって巨人みたいな背たけだ。途中にあるアーケード街だって、影だけみればお城みたいだった。


 この寂れた街並みも小さなころは全てが大きくみえた。世界の中心なのだと信じていた。けれど大人に近づくにつれて何もかもが色あせていった。藍もお姉ちゃんに頼らなくなった。遠く突き放すようになった。


 この世の全ては変化を免れない。


「……そっかぁ。真緒も恋を知ったかぁ」


 あんなにも高かった空をみあげて、ぼんやりとつぶやく。


「どうすれば恋愛が分かるのかな」

「私は気付けば聖のことが好きになってた。目で追うことが増えて、可愛いなとか綺麗だなとか、そういう主観的な感想が頻繁に心を乱すようになって、帰り道で横顔をみつめてたら急にしっくりくる言葉が思い浮かんだ」


 この感情は、恋。かみしめるみたいな声が響いてきた。目を向ければ夕日よりも真っ赤だ。


「四年前に聖と出会ってからのことも思い出した。その時は取るに足らなかったはずなのに、思い出してはニヤニヤしそうになったり、適当な言葉や反応で済ませたのを後悔したり……」


 恋する女の子は可愛いっていうけれど、もともと可愛い真緒はもはや天使だった。後ろから夕日を浴びた髪は、風に吹かれて揺れるたびにキラキラと輝いた。遠い空をみつめる真っ黒な瞳も、星を宿したみたいだ。


「頭の中が聖でいっぱいになって、勉強にも集中できなくなった。……期末テストも近いのに聖はひどい」


 冗談めかした声で私に半目を向けてくるものだから、ついつい笑みが漏れる。


「それは一大事だ」

「たいへんだった。だからこれが恋だって分かって、とてもすっきりした」


 優しい笑顔だ。私を叱責する道具として使われることの多かった恋に、いい感情はなかった。でもこうして間近でみつめていると、いいものだなと思う。


「聖、ちゃんと告白させてほしい」

「……うん」


 真緒は背筋をただしてじっと私をみつめた。自然と私も背中が伸びる。


 よほど怖いのか表情が硬く強張ってしまっている。振られたくない。なら思いを伝えないままにしよう。こうなるのが普通なのに、真緒は勇気を振り絞ろうとしている。それがどれほど難しく高潔なことか。


 恋をしたことのない私にもわかる。真緒は本当に偉い子だ。


「……私は聖のことが、好き。大好き……! 付き合ってほしい!」


 言葉と一緒に、真っ黒な瞳から涙があふれ出してきた。力が抜けてしまったのか、崩れ落ちるみたいに私の方に倒れ込んでくる。優しく受け止めて抱きしめてあげた。いつも以上に小さな体温だ。胸がきゅっと閉まる。


 どうにかしてこの子の思いに応えてあげたい。そう願ってしまったのだ。

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