第15話

 教室に入る。今日も怠けることなく真緒は勉強をしていた。挨拶をすれば振り向いて軽く手を振り返してくれた。しかも笑顔だ。無表情でも可愛いのに、これが日常になれば真緒は男女問わずモテモテなのではないだろうか。喜ばしいことだけど、ちょっと寂しい。


 でも一週間の初めから感傷にふけるのも良くない。脳を切り替えるために数学の問題集を出す。


 ちょうどその時、藍との約束を思い出した。反射的に親友に顔を向ければ、ばっちりと目が合う。でもなぜかそらされてしまった。何か言いたいことでもあるのだろうか。真緒の席まで向かう。


 そのまま頭頂部を見下ろすと、つむじが綺麗に渦を巻いていた。


 じっと観察していると、不満そうな顔が私を見上げた。


「勉強に集中できない」

「あぁごめんね。こっちみてたから、言いたいことでもあるのかなって」

「今日も聖は可愛いって思ってた。それだけ。横顔もとても綺麗だった」


 茶化すわけでもなく、まっすぐな目で私をみていた。反応に困る。


 藍以外に可愛いと評価されるのは、そんなに好きじゃない。嬉しさはあるけど気恥ずかしさの方が強いというか、そんなに褒められるほどの何かを私は持ってませんよ、と反射的に謙遜したくなるというか。


 真緒とは気の置けない間柄なのだから、気にするようなことではないのだろうけど、うーむ。やっぱり気になる。どう返すのが正解なのだろう? 考えている間に、真緒は何かを待ちわびるような目になっていた。


 褒められたのならとりあえず褒め返す。うん。これが正解だ、たぶん。


「真緒も可愛いよ」

「……うん」


 気まずそうな顔で俯いてしまった。よく分からないけど、失敗だったのかもしれない。


 真緒とみちるさんが本当の意味で仲良くなってから、まだ一日。けれど内面の変化は大いにあったのだろう。凍り付いていた時間が長い時を経て動き出したのだ。


 これまでの既存の知識で、真緒という人間を測れなくなるのはごくごく自然。それを悪く思っているわけじゃない。この子が幸せになれる方向へならいくらでも変わってほしい。


 ただ、変わらない姿に安寧を感じていたのもまた事実だった。


「私も勉強に戻るよ。数学苦手だけど頑張らないとだよね。期末もうすぐだし」

「聖ならきっと大丈夫」


 真緒は顔をあげて優しく微笑んだ。


「……ありがとう。じゃあね」


 と席に戻りそうになって、再び思い出す。


「そうだ、今日の放課後遊びに来ない?」 

「聖の家?」

「そう。何か予定入ってたりする? みちるさんと遊んだりとか」

「大丈夫。何もない。お姉ちゃんは陸上にとても熱心。かっこいい」


 真緒はうんうんと頷いている。かっこいい、か。頬がほころぶ。


「良かった。藍が真緒に会いたがってるんだよ」

「私に?」


 意外そうに目を丸くしている。


「聖の妹が、姉の人間関係に興味を持つのはとても珍しい」

「言われてみれば確かに……」


 お姉ちゃんが学校でどんな風なのか聞いてくることはなかった。せいぜい「ぼっちな姉とか最悪だよ」とか「友達いないからって私のことひがまないでよね」なんて風に、根拠のない断定を武器に口撃してくる程度。


「いい兆候かもしれない」

「だといいけどねぇ」


 期待しすぎると反動が辛いから、ほどほどに留めておく。


 真緒が自分の問題集に向き直ったから、私も席に戻って数学の勉強に取り組んだ。



 放課後、真緒と二人で帰路についていた。蝉の鳴く交差点で、夏の太陽にあぶられながら青信号を待つ。暑さも相まってお互いに無言なのが息苦しい。ふっと息を吐いて、気になっていたことを聞いてみる。


「真緒って藍にどんな印象もってる?」


 しばらく黙り込んでから私を見上げた。


「聖の発言を総合すると唯我独尊で自由奔放。しかも毒舌。顔を合わせるのがとても不安」


 体を縮こまらせて不安そうにする親友に苦笑いする。わが妹ながらひどい妹だ。


「でも仲良くなれたらいいなって思う。聖の妹だからきっと根はいい子のはず」

「そうだね」


 笑顔で頷く。藍は根っからのワルではない。反抗期が藍に悪さをさせているだけなのだ、たぶん。


「……ところで聖。私には一つ悩みがある」


 信号はまだ青にはならない。行き交う車をみつめながら親友はつぶやいた。


「なんでも話してよ」


 姉妹に関する悩みは積極的に聞きたい。けれどそうでない悩みでも、この子なら助けてあげたいのだ。


 無表情で分かりづらい子というのが、みちるさんとの一件を経るまでの正直な評価だった。でも真緒は本当に優しい子なのだ。大切な人の幸せのためなら、自分自身すらも歪めようとするほどに。


「この悩みを伝えたら、聖を困らせてしまうかもしれない」


 深刻そうな声で目を伏せてしまった。


 もしかしてみちるさんとの間に何かあったのだろうか。軽く膝を曲げて目の高さを合わせる。


「困らないよ。真緒がそんな顔してる方が困る」

「……なら伝える」


 小さく息を吸い込む親友は、ほんのりと頬を染めていた。ためらうみたいな上目遣いで、まるで愛の告白でもするみたいに瞳を潤ませて、震える唇を動かした。


 それほどまでに重大な何かが、真緒の内面に起こったのだろうか。身構える。


 でもその瞬間、夏の全てを塗り潰すような轟音が鼓膜を揺らした。大型のトラックが正面を通り過ぎて行ったのだ。遠ざかった蝉の鳴き声はすぐに戻ってくる。けれど真緒はもう口を閉じていた。


 間違いを悔いるみたいに横断歩道の白線を見下ろした。切なげに笑う。


「やっぱりなんでもない。ごめん」

「何でもないって……」


 真緒があんな顔をしたのは初めてだ。ただただ不安に震えるわけでもなく、恐怖に怯えるわけでもなく、そこはかとない期待の含まれた表情。未知は不安を増幅させる。それは人を前に進ませる原動力になる。


「嫌なことがあったの? 辛いこととか。教えてほしいよ」

「むしろ幸せなことだと思う。何も知らなかった私だから」


 夏の太陽に照らされた微笑みがまぶしい。切なげで、けれど憂鬱にふさぎ込んでいるわけでもない。空っぽの薄暗い教室から明るい世界を優しく見つめるような、青春のきらめきを大切に抱えているみたいな顔だった。


 何も言えなくなる。追求する気持ちはもう残っていなかった。


「……大丈夫なんだね?」

「うん。へいき」


 真緒は清々しいほどの笑顔を浮かべていた。この子は、私が思う何倍も変わったのかもしれない。


「そっか」


 また一つ、自立の足音を感じて寂しくなる。藍は反抗期に入って、お姉ちゃんの元を離れようとした。真緒もみちるさんとの出会いで、人として大きく成長を遂げたのだろう。蛹から羽化する美しい蝶のように。


 夏らしいぬるい風が吹くなか、私たちは横断歩道を渡った。


 

「ただいま」

「おじゃまします」


 真緒を伴って玄関に入る。いつもなら出迎えなんてないのに、慌ただしい足音が聞こえてくる。二階から階段を下りてきたのは藍だった。いつもの部屋着ではなく、外行きの可愛い服装をしている。


「えっ、その人が真緒さん……?」


 目を丸くしている。


「そうだよ。お姉ちゃんの親友。可愛いでしょ」


 軽く肩を抱き寄せて笑う。藍にはお姉ちゃんの威厳を教えてあげないといけない。自慢できない姉だと軽くあしらわれるのなら、立派な姉だと教え込めばいいのだ。


 藍は目を細めて何とも言えない顔をしていた。


「……その、聖」


 耳元から声が聞こえてきてくすぐったい。


 顔を向けると鼻が触れ合うような距離で、真緒は真っ赤になっていた。


「大丈夫!?」


 凄い勢いで顔をそらす真緒を見て思う。そういえばこの子は自分を「冬型」と自称していた気がする。夏の暑さも本格的になってきたから、あまり体調が良くないのかもしれない。こういう時はとりあえず水分補給だ。


「スポーツドリンクあるから飲もう」


 真緒の手を引いてリビングに向かう。


「あんたに肩を抱かれたのが嫌だったんじゃないの」


 皮肉を飛ばしてくる藍を半目で見つめる。けれど先に反論をしたのは真緒だった。


「そんなことない。とても嬉しい」

「そうなんですか?」


 半信半疑な顔だったから、お姉ちゃんは胸を張ってつぶやいた。


「私たちは親友だからね!」

「……へー」


 気に食わなさそうな顔をする藍を横目に、食卓の椅子に真緒を座らせる。


「ちょっとだけ待っててね」

「ありがとう聖」


 優しく微笑んでくれるのが嬉しい。藍にも見習ってもらいたいものだ。


 キッチンに向かって冷蔵庫を開く。そこから取り出したスポーツドリンクを、しおりちゃんの描かれたコップに注ぐ。真緒にこれをみられるのはちょっと恥ずかしい。でも家族のを使うわけにもいかない。


「はいどうぞ」


 真緒の正面にコップを置く。興味深そうにまじまじと見つめていた。


「このキャラクターは?」

「しおりちゃんだよ。私が好きな漫画の」

「……つまりこれは聖の?」

「うん」


 頷くと真緒は顔を逸らしてしまった。でもそのままごくごくとスポーツドリンクを一息に飲み干してくれる。飲み終えても名残惜しそうにコップを見つめているものだから、キッチンからペットボトルを持ってくる。


「もう一杯飲む?」


 のぞき込むと、真緒はまたしても顔をそらした。首を横に振っている。


「もう大丈夫」

「本当に? おでこ触ってもいい?」

「……」


 長い沈黙の間に、藍の視線を感じる。どういうわけかニヤニヤしていた。よく分からない妹だ。


「触ってもいい」


 頷いてくれたから手のひらを触れさせる。見た目ほどは熱くなかった。 


「……聖の手、つめたい」


 くすぐったそうに目を細めている。今の真緒は甘えてくる子猫みたいだった。


「じゃあしばらくこのままにしておく?」


 視線を惑わせてから真緒は小さく頷いた。やっぱり甘えん坊だ。妹なだけはある。


「あの、真緒さんってこいつのこと好きなんですか?」


 いつの間にか向かいに座っていた藍が面白そうに問いかけてくる。


 真緒は表情を一瞬だけ強張らせたけれど、すぐに自然体に戻った。


「……好き。親友として好き」

「親友として?」


 またしてもニヤリと悪戯っぽく笑う。親友以外に何があるというのだろう。


「こんなシスコンのどこを気に入ったんですか」


 なんてことを聞くんだ、この妹は。そういうのは私がいない所でやってほしい。


「……それは」


 案の定、真緒も言葉に詰まっていた。私が一番分かってる。勉強も飛びぬけてできるわけじゃないし、性格だって別にいいわけじゃない。ただのシスコンを気に入る理由なんて、単純接触効果以外に思いつかない。


 けれどやがて真緒は重い口を開いた。

 

「……聖は勉強も運動も人並み以上にできる。容姿だっていい。性格だって、シスコンであること以外は普通で、むしろ善性に満ち溢れている。こんなにも優れているのに、その全てを無駄にする姿勢がとても興味深かった」

「興味深いって……」


 過大評価とは途中まではいえ嬉しかった。けれど最後の一言に思わずツッコミを入れる。そんなこと思ってたんですか真緒さん……。でも思い返せば、梅雨に入る前に似たようなことを言っていた気がする。


「私のために、ほんのわずかでも無駄にしてくれたのが、嬉しかった。隣にいてくれる時間がとても幸せだった」


 微笑みからぽつりと零れ落ちた言葉を、私は否定する。


「真緒は無駄じゃないよ」

「そういう姿勢が嬉しかった。自分自身ですら認められない私を、認めてくれたのが聖だから」


 優しい顔で笑う親友をみて改めて思う。本当に変わったのだなぁと。そもそも真緒は内面を言葉にすることなんて、ほとんどなかった。人どころか自分にすらも心を閉ざしていたのだ。


「今度は私から質問がある。藍さん……。藍ちゃん?」


 黒い瞳がまっすぐ藍の方を向いた。


「藍でいいです」

「藍はどうして聖のことを嫌いになったの。聖は藍のこと大好きなのに。本当に反抗期だけ?」


 藍はお姉ちゃんのことが嫌いであるにもかかわらず、なぜか姉妹というものは大切に思っている。これは矛盾しているようにも思える。ここ最近ずっと気になっていたことだった。でも問いかけるのは怖かった。


 反抗期以外の理由があるのなら、仮にそれがどうしようもない理由なら。


 例えばお姉ちゃんのことを生理的に無理だと感じたとか、最悪の可能性を考えてしまうのだ。


 けど藍と仲良くなりたいのなら知る必要がある。じっと見つめて耳を傾ける。


「そもそも反抗期じゃないんですけど。というか初対面でそういうこと聞いちゃうんですか?」

「初対面な気がしない。聖から藍のことはずっと聞いていた。憎たらしいけど可愛い妹だって」


 難しそうな顔で藍はため息をついていた。


「話す気になれないです。けど真緒さんがどうしてもっていうのなら」

「どうしても」


 食い気味な返答に藍は半笑いだ。


「どうしてもって言うのなら一緒にゲームをしませんか」

「……ゲーム?」

「あのゲーム機ですよ」


 藍はテレビの下に置かれたそれを指さした。


「私に勝てたのなら話してもいいです」


 悪戯っぽく笑う藍をみてお姉ちゃんはすぐに察した。この子、勝つ気しかないなと。そもそも話すつもりなんてないのだ。


「分かった」


 でも真緒はやる気満々な声だった。私の方を向いて微笑むのだ。


「待ってて。今度は私が聖を助ける番。絶対に勝つ」

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