第11話

 更衣室にやって来ていた。みちるさんもロッカー前のベンチに座って私を待っている。まさか制服のままで走るわけにもいかないから、体育の時間に着た体操服をカバンから取り出した。


「着替え終わったら準備運動もしようね。全力で走るんだから」

「……そうですね」


 全力か。果たして私は、本気を出せるのだろうか。自信がない。みちるさんのためにも出したいとは思う。でも藍が反抗期に入ってからは、全力で何かを頑張った記憶がないのだ。


 そもそもだけれど、そういう意思をもつことがない。


 例えば藍に「おねえちゃんぜったいにまけないでね!」と応援されたのなら、たとえ相手がオリンピックの金メダリストでも、私は諦めない。勝てないと分かっていても、死力を尽くして対決に臨んだはずだ。でも、ここに藍はいない。日が経つにつれて、私の人生から藍の影は薄くなっている。


 私が頑張る理由は、失われていく。


 制服を脱いで肌着になると、みちるさんに声をかけられた。


「聖ちゃんは運動部?」

「帰宅部です」

「その割には……」


 急に言葉が途切れる。振り向けば、みちるさんはまじまじと私の体をみていた。


「聖ちゃんには才能があるのかもしれないね」

「そういうの体を見ただけで分かるんですか」

「スポーツ選手って、プロになればなるほど似通った体形になるでしょ」


 陸上競技には短距離走から砲丸投げまで様々なものがある。テレビで中継されているのを思い出せば、確かに同じ競技の選手は体の作りも同じだった。テストの問題のように正解があるのかもしれない。


「それが私にもあるんですか?」

「見た目はね。でも体だけがスポーツじゃないから、実際に動いてみないと分からないよ。ただ仮に聖ちゃんに千年に一人の才能があったとしても、私は負けるつもりない。絶対に勝たせてもらう」


 姉としてのプライド。情けない自分への悔しさ。


 その全てが最後の一言に集約されているみたいだった。


 みちるさんは昔の私に似ている。運動会の徒競走で勝ってほしいと頼まれて、必死で願いを叶えようとするのは、決して藍のためだけじゃなかった。姉としての誇り、プライドを守るためでもあった。


「あの、みちるさん」

「どうしたの?」


 姉として全力で頑張れるみちるさんが、どうしようもなく羨ましかった。だからわざわざ口にしたのかもしれない。あるいは、それは自分自身に向けたメッセージでもあったのかもしれない。


「絶対に諦めないでくださいね。真緒のこと」


 みちるさんは目を見開いた。けれどすぐに朗らかな笑顔で頷く。


「いわれなくても諦めるつもりないよ。聖ちゃんには絶対に渡さないから!」


 それでこそお姉ちゃんだと、私も微笑んだ。


 

 みちるさんと二人で軽い準備運動を済ませてから、トラックの上に並ぶ。日は傾いていて、空は紫紺に染まっていた。プロ同士の対決でもないのに、なぜか周囲にはギャラリーが集まっている。


 練習を終えた陸上の人たちだろうか。みちるさんはよほど好かれているのか「頑張れ」と応援されていた。もちろん「大人げないぞ!」という冗談めかした声の方が遥かに多かったけど。


 そのギャラリーの中には真緒の姿もあった。


「聖ちゃん。手は抜かないでね」

「それ私のセリフじゃないですか?」


 苦笑いで返す。私が手を抜こうが本気を出そうが、結果は変わらない。いや、変えるつもりがないのだ。ここで勝ったからって藍が喜んでくれるわけじゃない。「おねえちゃんすごい!」って褒めてもくれない。


 それでも私が走るのは、真緒のため。そして同じお姉ちゃんとしてのよしみだ。


 みちるさんが私に勝ったからって、真緒たち姉妹の距離は縮まることはない。競技者が素人に勝つのは当然のことなのだ。それでも、今のみちるさんには私との競争が必要だった。


『お姉ちゃん』として折れてしまわないために、私を打ち負かさなければならなかった。


「聖ちゃん、終わったら三人でご飯でも食べに行く? もちろん私の奢りで」

「夕食までには帰らないといけないので、代わりにジュースでも奢ってください」

「うん。……ありがとうね。聖ちゃん」


 その言葉を最後に、みちるさんは表情から柔らかさを消した。頭を下げてクラウチングスタートの姿勢をとる。獲物を狙う獰猛なハンターのごとく、ただ一点だけを見つめていた。


 夜の匂いをのせた風が私たちを撫でる。私もみちるさんに従って、同じ姿勢をとった。その瞬間、ギャラリーの声も消えた。空気が一瞬のうちに張り詰める。


 静寂の中、コーチがピストルを夜空に向ける。銃口が残光を浴びて、藍色を背景にきらめいた。


 雰囲気にあてられたのだろうか。胸がうるさい。鼓動だけが耳に張り付いている。みちるさんはこの緊張と戦い続けてきたのだろう。本当に大したものだ。


「位置について」


 コーチの声が聞こえた。負けることが決まっている競争なのに、体が強張る。


「ようい」


 張り裂けそうなほどに緊張が膨らんだその時、破裂するような音が響いた。


 反射的に瞬きをした直後、みちるさんは既に前へと大きく飛び出していた。私も遅れて飛び出す。足を動かし手を振りもがくが、それでもついた差は縮まることもなく、ますます離れていく。


 まるで羽が生えたような後ろ姿だった。空を飛ぶペガサスのように大地を駆けていた。


 みちるさんが心底羨ましい。あの後ろ姿は間違いなく本気だ。本気になれているのだ。


 藍と仲が良かったころの自分をみているようだった。藍が望むのなら、どれほどつまらないことでも私は本気を出した。誰も寄せ付けないくらいの距離で、全てに圧勝していた。


 でも今は、私がボロボロに負ける番だった。


 ゴールを抜けて速度を殺す。荒い息で私は立ち止まった。達成感なんて、あるわけがなかった。私だって藍のために本気で頑張りたい。でもあの子は許してくれない。下手に助けようとすればすぐに罵倒が飛んでくる。


 分かっているから、私は信じることしかできなかった。


 頭を下げて荒く呼吸を繰り返す。立ち止まっていると、戻ってきたみちるさんが手を差し出してくれた。


 顔をあげて、申し訳なさそうな笑顔をみて、私は再び理解する。みちるさんに負けたのだ。やる前から分かっていた。この場にいる誰もが予想していた。当然の結末だった。


 だというのに、どうしようもなく悔しい。


 それでもなんとか作り笑いを浮かべて、みちるさんの手を取った。

 

「お姉ちゃん速かった」


 真緒が微笑みながら私たちに駆け寄ってきた。無意識になのか、みちるさんの頭に手を伸ばそうとしていた。でも顔を見てすぐに引っ込める。真緒はいつもの無表情に戻って、静かにうつむいた。


 心の中でうごめく感情から目をそらして、現実に意識を向ける。


 難しい問題だ。お互いがお互いに求めるものの違い。認識の違い。


 間違いなく好意はあるのにすれ違う。どうすればいいのか私には分からない。


「みちる! これからみんなで夕飯食べに行こうよ。よければ二人も!」


 ギャラリーの中から、声が聞こえてきた。みちるさんの友達なのだろう。


 私はその誘いを断った。真緒も同じく首を横に振っていた。みちるさんは迷うみたいに目線を交互に向けたあと「ごめんね。また次におごるから」と私たちの元を去っていった。無理もない反応だ。


 全力の走りを見せてもなお、真緒の反応は変わらなかったのだ。分かっていてもへこんでしまう。


「……聖」


 私を呼ぶ声は震えていた。


 そんなにも恐れているのに、どうして正直な反応をしたのだろう。真緒の価値基準は私には分からない。でもこの子がひどい子じゃないというのは、よく分かってる。だって今にも泣きそうな顔なのだ。


 震える小さな手を優しく握りしめた。


「一緒に帰ろっか」


 制服に着替えずこのまま帰ることにする。途中で電車に乗るけど、どうでもいい。


 真緒はみちるさんと出会って大きく変わった。今はこの子を一人にしたくない。


「せっかく助けようとしてくれたのに、ごめん聖」

「大丈夫。でも教えてほしい。あそこまでみちるさんに厳しく当たる理由」


 競技場を出て、二人でキャンパスを歩いていく。食堂らしき建物は大繁盛だった。おしゃれなカフェみたいにガラス張りだから中の様子が見えるのだ。所狭しと大学生たちが夕食をとっている。


 そこから漏れた光が夜闇により深い影を作っていた。私たちの影だった。


「……お姉ちゃんは、無理をしている」

「無理?」

「昨日だって私にいいところを見せようとして、料理してけがをした。もしも私が甘えたら、期待に応えようと、もっと無理をするかもしれない。それは、怖い。私のために傷ついてほしくない。傷つくのは私だけでいい」


 必死で絞り出すみたいに、真緒はつぶやいた。

 

「それに私が甘えなくても、ほかの姉妹みたいなことをしなくても。お姉ちゃんがお姉ちゃんである事実は変わらない。なんであの人が、そこまで『お姉ちゃん』にこだわるのか、私には分からない」


 目がうるんでいた。抑揚も安定していない。

 

「姉妹だからって絶対に妹がお姉ちゃんに甘えないといけない? なんで? 私たちは普通の姉妹じゃない。私はお姉ちゃんの背中を追って育ったわけじゃないのに。……なんで、あんなに悲しそうにするの?」


 手を引かれて立ち止まる。振り向けば真緒はもう進めなくなっていた。しゃがみこんで、小さくうずくまっているのだ。私も一緒に腰をかがめた。目線の高さを合わせる。そうして優しく背中を撫でてあげた。


 赤らんだ頬を涙の筋が落ちていく。


「私は、お姉ちゃんと一緒にいられるだけで、楽しいのに」 

「……そうだよね」


 そっと真緒を抱きしめた。


 お姉ちゃんが出来てから真緒は感情が豊かになった。自分の内面に言及することも増えた。笑ったり、ましてや泣いてしまうなんて、これまでの真緒にはあり得ないことだった。それだけみちるさんを大切に思っているのだ。


 でも、だからこそ伝えられないことがある。


 真緒は知っている。みちるさんが「お姉ちゃん」にこだわっていることを。恐れていたのだ。そのこだわりのせいで、みちるさん自身を追い詰めてしまうことを。だから真緒は。


「……私、何もできない妹になろうと思う。全部、お姉ちゃんに任せる」


 こんなことまで、言ってしまうのだ。顔をあげた真緒は笑いながら泣いていた。


 この子はずっと一人で生きてきた。一人で育ててくれたお母さんに迷惑をかけたくないと、自分の力だけですべてを解決しようとたくさん努力した。どんな苦しみも心の中に封じ込めて、決して表に出さなかった。


 真緒の孤独な生き方は、苦しみぬいた果てに作り上げたもの。望んだものではなかったのかもしれない。でも真緒という人間を形作る大事なものなのだ。なのに強引に切り崩して、相手の望む形に変形させようとしている。


 何度でも言う。そんなのは間違ってる。


「だめだよ真緒」

「……だったらどうすればいいの?」


 全てを解決する方法なんて、私には分からない。それでも伝えてあげたかった。安心してほしかった。


「大丈夫だよ。私が何とかするから。絶対に真緒のこと助けるから!」


 私が笑うと真緒は目を見開いた。まん丸な目からこぼれた涙を、そっと指先でぬぐってあげる。この子には泣いて欲しくない。姉妹を苦しい関係だと思って欲しくない。


「聖はいつも私を助けてくれる。感謝してもしきれない」

「親友なんだから当然だよ」

「……うん。頼りにしてる。ありがとう聖」


 しばらく背中を撫でていると、真緒は再び立ち上がった。もう涙は止まっていた。


 私たちは手をつないだまま家の近くまで帰った。


 夜空では星がまばらに瞬いている。大切な親友は縋るみたいに強く私を握り締めていた。でも分かれ道で先に手を離したのは私ではなかった。人に迷惑をかけるのを恐れる。真緒はそういう性格だった。


 それでも私には、頼ってくれたのだ。


「ばいばい聖」

「ばいばい」


 ぎこちなく手を振りあう。後ろ姿が角に消えるまで私は手を振り続けた。


 時々振り返っては、真緒は街灯の下で儚く笑っていた。

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