第10話

 教室の扉を開けば涼しい空気が頬を撫でる。幸いにも今日はエアコンがさぼっていない。大きく口を開けて心地よい風を吐き出していた。ふっと息を吐いて快適な空間に足を踏み入れる。


 真緒は自分の席で熱心に勉強をしていた。相変わらずの勤勉さだ。お姉ちゃんができてからは、ますます頑張っている気がする。みちるさんが頼りない反動だろうか。


 これでは真緒がお姉ちゃんみたいだ。本当にどうしたものか。


 悩んでいると、振り向いた真緒と目が合った。

 

「おはよ聖」

「おはよう」


 真緒はいつも通りの無表情だった。軽く手を振り返してから私も自分の席に着く。今日は確かホームルームの前に英単語のテストがある。話したいことはいろいろあるけれど、まずは勉強だ。


 黙々と単語帳に目を通していると、近づいてくる足音があった。


「聖。今日の放課後のことだけど」


 顔を上げる。よほど言いづらいのか、私を見下ろしてじっと黙り込んでいた。


 このままではらちが明かない。浮かんだ推測を投げてみる。


「もしかしてみちるさんの大学のこと?」


 当たっていたようで目が大きく開いた。今日の真緒はとても分かりやすい。


「興味はある。でも噓がばれてお姉ちゃんが泣かないか心配」


 なんてことを真剣な目でつぶやくものだから、笑ってしまいそうになる。昨日は「嘘かもしれない」だったのに、あれから何があったのか「嘘だ」と確信してしまったみたいだ。


「私は嘘じゃないと思うけどなぁ」

「でも昨日、お姉ちゃんに夕食を任せたら大変なことになった。ひどい味。見栄えも悪い。包丁で指も切った。とても痛そうだった。大惨事。やっぱり私が作るべきだった。夜が明けても未だに後悔……」


 眉間にしわを寄せていた。妹でも姉でもなく、頼りない娘を心配する母親のようだ。

 

 うーむ。やっぱり赤ちゃんだって思ってるよねぇ、みちるさんのこと。


「でも嘘つくような人かな。みちるさんって」

「つくかもしれないし、つかないかもしれない。時と場合による。この間はお皿を割ったの隠してた」

「……そっかぁ」


 それは信用を無くしても仕方ない。


 同じ姉としてどうにかして助けてあげたいものだけど、どうしたものか。


「とりあえず大学に行ってみようよ。みちるさんにもお姉ちゃんらしいところあるかもしれないよ?」

「……もしもあったら、仲良くなれる?」


 断言はできない。二人の問題は、真緒がみちるさんをお姉ちゃんと感じていない点に集約される。そして真緒はどちらかと言えば頭脳面を重視しているように思う。実際にみちるさんの運動能力が高かったとしても、それが「お姉ちゃんへの信頼」につながるかは未知数だ。


「絶対にとは言えないけど、いい方へ転がるかもしれない」

「曖昧」


 じっとりとした目でみられて申し訳なくなる。その通りです。返す言葉もございません……。


「でもそれ以外に方法はない?」

「今のところはね」

「なら大学にいく。お姉ちゃん泣かないといいけど」


 またしても不安そうにする真緒に苦笑いしていると、担任がクラスに入ってきた。


 私たちはそれぞれの席に戻って、英単語のテストが配られるのを待った。



「電車で行くの?」

「そういうことになる」


 放課後、私たちは駅に来ていた。周辺のロータリーには、バスを待つ学校帰りたちが並んでいる。でも構内へと吸い込まれていく生徒の方がずっと多い。私たち二人もそこに溶け込み流れのままに改札を抜けた。


 階段を上りホームにたどり着いた瞬間、生ぬるい風が私たちの間を吹き抜ける。


 目の前に現れたのは都会でも片田舎でもない、ほどよく田舎な町。十階建てくらいの薄汚れたビルが所々に散見される。都会に比べれば遥かに地味なのだろうけど、人工物の象徴である灰色は多い。


 とはいえ遠くに目を向ければ緑の豊かな山がみえる。聞いたところによると都会に山はないらしい。小さなころは十分に都会だと思い込んでいたこのくすんだ街だけれど、実はそうでもないようだった。


 気付いたのはいつ頃だっただろう。思いをはせていると、轟音とともに電車が滑り込んできた。

 

 二つ先の駅で降りてしばらく歩くと、大学生らしき人の姿が増えてくる。さらにもうしばらく進めば、車通りの多い交差点の向こうに現代的な建物が現れた。一面がガラス張りだ。街にあれば浮いてしまいそうな開放感あふれる姿をしていた。キャンパスの敷地入り口に門はないのに、内と外を区切る何かを感じて少し入りづらい。


「みちるさんがどこにいるか分かる?」


 信号を待つ間、隣の真緒に問いかける。ゆるゆると首を横に振った。


「分からない。でもお姉ちゃんはトラックを走ってるみたい」


 それなら競技場のような場所を探せばよさそうだ。


 信号が青になる。横断歩道を渡って私たちはキャンパスに足を踏み入れた。最初に感じたのは、敷地の使い方が高校に比べて何倍も贅沢だということ。


 その次に思ったのは「あのみちるさんも本当に大学生なんだなぁ」というとても失礼な感想だった。


 でも実際、私にとって大学なんてものは身近な存在ではなくて、どこか遠い異国のような認識だった。だからこそ足を踏み入れて実感するのだ。みちるさんがここにいても確かに不自然じゃないな、と。


 きっと制服姿の私たちはこの空間から浮いているのだろう。私の主観でも、ここに馴染んでいるという気は全くしない。真緒も居心地が悪いのか、不安そうに辺りをきょろきょろ見渡していた。


「こんなとこにお姉ちゃん通ってるんだ」


 感心したような声色だった。自分のことではないのになんだか嬉しくなる。微かではあるが、間違いなく「お姉ちゃん」への尊敬を含んでいたのだ。


「そうだよ。みちるさんのこと、お姉ちゃんって感じがしてこない?」

「んー」


 うなりながら首をかしげている。


「ちょっとはするのかもしれないし、しないのかもしれない」

「曖昧だなぁ」


 私が笑うと、真緒は不服そうに目を細めた。


「人の心は曖昧なもの。白黒つけるには時間がかかる」

「ごもっとも。真緒さんの言う通りです」


 全くお姉ちゃんではない、と感じていたのだ。急に方向転換させるのは難しい。でもこれからは少しずつ変わって欲しい。真緒とみちるさんには、正真正銘の姉妹になってもらいたいのだ。


 そんな思いと共にキャンパスを歩いていくと、開けた場所に出た。夕暮れの空の下を伸びる赤銅色のトラック、その上を走っていく人たちはみんな体が絞られている。無駄な肉がなくて走るのに特化したような体つきだ。


 でもそれは天性のものではなくて、間違いなく努力の結晶だった。


 各々がそれぞれのメニューをこなしている。ゆったりと走る人もいれば、全力でトラックをかけてゆく人もいる。これをほとんど毎日繰り返しているのだろう。盲目的に打ち込めるのは素直に羨ましい。


「あ、お姉ちゃん」


 真緒の視線の先には、みんなと同じく練習に励むみちるさんがいた。真剣な顔でレーンを疾走している。姿勢は洗練されていて、手足を動かしても重心がぶれることはない。


 家での頼りない印象はどこへやら、練習用の服を着た彼女は立派な陸上選手だった。


 やがてみちるさんは少しずつ減速し、こちらへと回ってくる。その時に気付いたのか、コーチらしき女性に話しかけてから私たちへ駆け寄ってきた。響いてくる足音だけで機嫌のよさが伝わってくる。


「真緒ちゃん! 聖ちゃん!」


 みちるさんはふわふわした笑顔だ。ぶんぶんと両手を振っている。仕草に幼さがあるせいか、妹のような雰囲気を感じる。真緒は「嘘じゃなかった。よかった」と安堵の息を漏らして、手を振り返していた。


「来るのなら言ってくれたらよかったのに」


 スピードを落としながらみちるさんは告げる。真緒は立ち止まった彼女を見上げて、なぜか手を差し出していた。みちるさんは当惑の表情を浮かべながらも、その手を握った。


「お姉ちゃん頑張ってる。えらいえらい」


 真緒は優しくはにかむ。そのまま反対側の手でみちるさんの頭をなでなでしたのだ。


「ちょ、ちょっと。真緒ちゃん……?」

「何もできないお姉ちゃんだけど、頑張ってることもある。私、ほっとした」


 心底安堵したような顔だ。でもみちるさんは明らかに複雑そうな表情だった。妹によしよしされるお姉ちゃんっていうのは、私個人の価値観では大歓迎。仲良し姉妹に貴賤はないのだ。


 でもみちるさんからすると、妹扱いされているようで嫌なのではないだろうか。


 案の定、みるみるうちに悲しそうな顔に変わってしまった。


「何もできない……?」

「うん。お姉ちゃんは家事も勉強もできない。でも運動だけはできる。すごい」


 助けを求めるような目線が私に飛んできた。やっぱりみちるさんは妹みたいだ。


 真緒も結局、みちるさんをお姉ちゃんだとみなせなかったらしい。


 人の固定観念というのは、強烈だ。一度そういうものだとみなしてしまえば、よほど大きな出来事がないかぎり印象を変えるのは難しい。真緒はみちるさんをお姉ちゃんではなく妹や娘だと考えている。


 それが悪いことだとは言わない。


 でもこの子は、みちるさんの気持ちを理解できているのだろうか?


 人は思っていること全てを言葉にするわけじゃない。伝えること。伝えないこと。伝えたくないこと。この三種類が人にはある。二人は普段、お互いのことをどれだけ話しているのだろう。


「……真緒ちゃんは、私のことお姉ちゃんだとは思えないの?」


 唯一の心の支えだったのかもしれない。これさえ知ってくれれば、尊敬してくれる。そう思っていた。でも真緒は相変わらずみちるさんをお姉ちゃん扱いしない。妹のように可愛がるだけなのだ。


 みちるさんは今にも泣いてしまいそうな顔だった。

 

 その表情をみて、真緒も自分の発言がよくなかったことに気付いたのだろう。


 けれどこの子は正直者だった。


「思えない」 

「……どうして?」


 問いかけるみちるさんから目をそらして、真緒はなぜか私の方をみた。


「言ってもいいこと?」


 心細そうに目を細めている。真緒が言葉を濁すのは初めてかもしれない。


 私が頷くと真緒は言葉をつづけた。


「私はあまり人の心の機微に聡くない。それは自分でも理解してる。後悔してもいる。もっと自分から積極的にみんなと関わって言葉を交わしていれば、人間味のある性格になれたかもしれない」


 でも真緒はそれが出来なかった。人に頼るのが怖かった。人に裏切られるのも怖かったのだと思う。


 両親の離婚が与えた衝撃は、それだけ大きかったのだろう。


「でもそんなに後悔してるわけでもない。だって私には聖がいた」

「私?」

「もしも聖が私に声をかけてくれなかったら。仲良くしてくれなかったら。きっと私は今以上に機械みたいな生き方しかできなくなっていた。お姉ちゃんがお姉ちゃんでも言葉なんて交わさなかった」


 私が真緒に声をかけたのは、一人ぼっちの後ろ姿が藍に重なったからだ。藍とは違って真緒は賢かった。一人でも生きていけそうな強さがあった。でも、やっぱり放っておけなかった。


「私はもしかすると、聖のことをお姉ちゃんみたいに思っていたのかもしれない」


 その瞬間、みちるさんは悔しそうに唇を噛みしめた。それでも真緒は続ける。


「だから私が『お姉ちゃん』に求める基準は、聖なんだと思う」


 いたたまれない。私は二人から目をそらした。


「お姉ちゃんは理由を知りたい?」


 もう分かっているはずだ。みちるさんの望みを邪魔しているのは、妹の親友たる私で。


 これ以上、何を話すことがあるというのだろう? 何を伝えたいというのだろう。


「聖は勉強も運動もなんでも出来るし、悩みだって聞いてくれる。でもお姉ちゃんは勉強はできないし、家事とかも頼りない。だから寄りかかる対象とは思えない」


 それは、もはやただの追撃だった。真緒はここまで人の心が分からない子だっただろうか?


 それとも何か言外に伝えたいことでもあるのだろうか。そうだと信じたい。


 でもみちるさんは、言葉をそのまま受け取ってしまったようだ。私たちに背を向けて、何かをこらえるみたいに震えている。真緒はそんな後ろ姿をただただ静観していた。


 この子の考えていることが、私にはまるで分からなかった。


「あの、みちるさん」


 肩に手を伸ばす。その瞬間、みちるさんは勢いよく振り向いた。


 青っぽい瞳は涙に濡れていた。夕日を浴びて黄昏色に染まる。


「分かってました。ただ、認めたくなかっただけなんです。真緒ちゃんは家でもよく聖ちゃんのことを話してくれました。とても楽しそうに。立派な人だということがとてもよく伝わってきました」

「別に立派では……」

「それでもです!」


 力強い声が謙遜を薙ぎ払った。


 目をぎゅっと閉じて、こぶしも強く握りしめて。全身全霊の力で、みちるさんは叫ぶ。


「私は! 真緒ちゃんのお姉ちゃんなんです! 真緒ちゃんのお姉ちゃんは、私だけなんです!」

 

 銀の弾丸に心を打ちぬかれたようだった。


 立派なのは、みちるさんの方だ。妹にお姉ちゃんであることを否定された。涙まで流してしまった。それでもなお、この人は真緒のお姉ちゃんであろうとしている。藍と距離を取ってしまった私よりもずっと凄い。


「こんなものに意味があるのかわかりません。大人げないってことも分かってます。でも、でもやっぱり嫌なんですよ。立派じゃなくても、情けなくても、妹にはお姉ちゃんの凄い所を知ってもらいたい」


 みちるさんは大きく息を吸い込んで、深呼吸をする。そうしてもう一度叫んだ。


「聖ちゃん。私と一緒に走ってもらえませんか。本気で走ってもらえませんか!」


 意味なんてない。そんなの、みちるさんが一番分かっているはずだ。私は素人で運動部に入っているわけでもない。平凡な高校生を自分の得意分野で打ちのめしても、何も変わらない。


 けれどここまで愚直に妹への思いを、姉としてのプライドを明け透けにしたのだ。断れるわけがない。


 私だってみちるさんと同じ、お姉ちゃんなのだ。


「……分かりました」


 私は小さく頷いた。


 そんな私たちの様子を、真緒は静かに見守っていた。

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