第9話

 翌朝のリビングで、私たちはいつものように二人で朝食を食べていた。


 昨日の予報はどこへやら、テレビでは「これから先しばらくは晴れの天気が続くでしょう」と報じられている。窓から差し込む光もまぶしい。


 藍は好物のベーコンを頬張りながらも「うわぁ」と低い声を上げていた。


「晴れとか最悪。走るのやだなぁ」

「体育で長距離走でもあるの?」


 私の隣、いつもの指定席で藍は頷いた。


 小学生のころ、気付かずにカカオ95%のチョコを食べたときのような、苦々しい表情だ。


「あんなの完全に拷問でしょ。理解不能」

「そうかなぁ。適当に走ってればいいだけじゃない?」


 私にとっての長距離走とは、無心で走っていたらいつの間にか終わっているものだ。楽しくはないけど「拷問」と表現するのは少し過剰な気がする。


 なんてことを思っていたら、なぜか藍は鷲みたいに鋭く睨みつけてきた。


「は? 自慢? 妹にマウントとるとか最低」

「お姉ちゃんそんなつもりなかったんだけど……」


 世間と私の常識はたまに乖離する。真緒からも指摘されているけど、私は人よりもできることが多いらしい。藍を守っていた昔は存分に役立たせてもらったけれど、今は邪魔に思うことの方が多い。


 今のは普通に私が悪かった。「ごめん」と謝る。


「謝るだけで許してもらえるのなら、警察とかいらないんだよね」


 見せつけるみたいにため息をついていた。可愛げを失った妹に弱みを見せるというのは、こういうことだ。山頂に張り付けられたプロメテウスのように、延々と内臓をついばまれることになる。


「どうすれば許してくれるんですか。藍さん」


 慇懃な態度で問いかけると藍は半笑いになった。


 箸でトマトをつまんだかと思えば、目にも止まらぬ速さで私の皿に運ぶ。


「それ食べたら許してあげる。あんたは寛大な私に感謝するべき」 


 私はまじまじと藍を見つめた。どことなく声が楽しそうなのだ。


 今日の我が妹はいつもよりも機嫌がいい気がする。


「何じっと見てるの。きもい。こっちみないで」

「ひどい!」


 妖精さんのような可愛らしい顔から、痛烈な毒が飛んできた。ま、この子がデレるわけないよね。逆に怖い。急に「おねえちゃんだいすき!」なんて甘えられた日には、間違いなく天変地異を疑う。


 妹にパスされた赤いボールを口に運ぶ。横目で見ると藍は満足げだった。

 

「あとはこれを八十年くらい続ければ、あんたの贖罪は終わり」

「へー。藍はお姉ちゃんと八十年も一緒にいてくれるんだ?」

「は? それだけは絶対にありえない。きもいこと言わないで」


 自分で言っておきながら自分で否定するなんて。相変わらず自分勝手な妹だ。


「だったら贖罪とやらはどうするの」

「決まってる。あんたは私への贖罪を済ませられないまま、悲しく一生を終えていくんだよ」


 どうやら私は、藍の長距離走への心労を軽んじた罪を悔いながら、死んでいくらしい。


 病院のベッドの上、よぼよぼになって動けなくなった私を想像する。そのころには、藍もおばあちゃんなのだろう。孫もいて、もしかするとひ孫もいるかもしれない。


 でもきっと私は一人ぼっちで、何十年たっても藍のことを考えている。


 それは悲しい結末かもしれないけど、私らしい終わりだった。


「……ま、そういうのも悪くはないのかもね」

「それよりもコツとかないの?」

「んー」


 正直困る。なんとなくできるだけなのだ。普段から走りこんでるわけじゃないし、運動なんて体育の時だけ。とはいえ一つくらいなら思い浮かぶことはある。


「周りにペースを乱されないことかな。周りが飛ばしても自分だけは自分のペースで走っていく。地味だけど大切なことだよ。お姉ちゃんが走る時も、無理に周りに合わせたせいで後半ばててる人よく見るし」

「ほかには?」


 お気に召さなかったらしく唇を尖らせている。昔、私が運動会のかけっこで勝てなかったときも、泣きながらこういう顔をしていた。何か役に立つことを教えてあげたい。けど何も思い浮かばない。


「藍が望んでる魔法みたいな方法はないよ。泥臭く頑張るしかない」

「しおりの姉は頼りになるのに、この姉ときたら……」


 深いため息が聞こえてくる。


 その頼りにならない姉を頼ってくるのは、どこの生意気妹なのやら。


「そんなこと言うのなら、お姉ちゃんもうトマト食べてあげないけど?」


 藍はほんの一瞬だけ顔をこわばらせた。でもすぐニヤニヤ笑う。


「食べてくれなかったこと、一回もないじゃん」


 まぁそりゃないけど。妹を苦しめたいお姉ちゃんなんていない。


「つまり頼りになってるってことでしょ」

「……ん」


 私の主張に反論が見つからないのか、悔しそうに目を細めている。藍はいい加減感謝をするべきなのだ。こんなにひどい反抗期の妹にかまってくれる姉なんて、そう多くない。

 

「感謝したらどう?」


 流石にここまで追い詰めれば「ありがとう」の一言くらいくれるのではないか。


 なんて思っていた私は、まだまだ甘かった。


「あんたって馬鹿なの? 感謝ってのは求めるものじゃないでしょ」


 体を私の方に傾けて、見上げるような姿勢でにらみつけてきたのだ。


「感謝ってのはね、自然としたくなるものなの。強いられてするのは偽物」


 ああいえばこういう。屁理屈の王でも目指しているのだろうか、この子は。


 期待を裏切られたせいで、いつにも増して胃がむかむかしてきた。


「世界で一番『感謝』って言葉を知らない藍が言ったらだめでしょ。それ」

「感謝を知ってるからこそ、感謝を大切にしてるんだよ」


 この捻くれ妹め! 勝ち誇ったような顔がとてもうざい。


「あのね、藍」

「あー。はいはい。これ以上あんたと議論を続けるつもりないから。論破されたんだからおとなしく敗北を受け入れなよ。妹に負けちゃったからって、顔真っ赤にするの姉としてダサすぎだから」


 本当にうざい。ぷるぷると唇が震える。そもそもお姉ちゃん負けてないし!


 まぁでも昨日の藍を思い出せば、これくらいうざい方が安心感がある。


 深呼吸だ。深呼吸。大きく息を吸ってから吐く。そもそも私が今考えるべきは、真緒とみちるさんのことだ。反抗妹の戯言に付き合っている暇はない。


 食器を運ぼうと立ち上がったそのとき、藍が私を呼び止めた。


「……っていうかさ、なんで昨日は帰ってくるの遅かったの」

「友達の家に遊びに行ってたんだよ。お姉ちゃん人気者だから」

「どっちも嘘。あんたはどちらかと言えば人見知り。人が多い場所も好きじゃない。昔からそうでしょ? 夏祭りとか花火大会だって面倒くさそうな顔してたし。運動会とかも似たようなものだった」


 即座に否定してきた。この妹はお姉ちゃんのことをよく分かっている。嫌いなくせに。


 私は昔のことをあんまり覚えてない。藍のことはほとんど覚えてるけど、自分のことは分からないことが多い。皮肉にもそれは藍も同じだった。この子はなぜか、お姉ちゃんのことは大体覚えている。


 合理的に考えるのなら、好きだったころのなごりなのだろう。好きだったからこそ記憶に残った。嫌いになった今もなお忘れられずにいる。


 そこまで考えて、私はかつて繁盛していた廃遊園地を思い浮かべた。栄えていたころがあるからこそ、ますます寂しいものになるのだ。私たちの関係のように。


 藍はつんとした態度で目をそらしていた。今や遠い過去にため息をつく。


「人気者ってのは嘘。でも友達の家に行ったのは本当だよ」

「……へー。あんたがねぇ」

 

 いかにも興味なさそうな声だ。実際興味はないのだろう。ならなんで聞いてきたのって感じだけど。藍には不可解な言動が多い。でもその意味を追求してしまうと、大体は骨折り損のくたびれ儲けで終わる。


 代わりに私は、素直に藍を応援することにした。


「まぁとにかく、辛いと思うけど長距離走頑張ってね」

「あんたに言われなくても頑張るし、余計なお世話」


 つんとした声で顔をそむけた。相変わらず気に食わない態度だけど、元気になったみたいでよかった。

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