第8話

 軒下で傘を閉じた。雨音の中で玄関扉を開けば温かい光が溢れてくる。扉を閉めて鍵をかけると、すぐにお母さんがやってきた。どうしたんだろう? 表情がいつもより暗い気がする。


 おかえりとただいまの交換を済ませてから問いかけてみる。


「何かあったの?」

「あったかもしれないし、なかったかもしれないわねぇ……」


 的を射ない発言だ。そんなに言いづらいことなのだろうか。


「今日、中学校から電話があったのよ」


 リビングの方に目を配ってから、ひそひそと小声でささやいてくる。中学ってことは、藍に関係することだろうか。まさか藍がケガをしたとか? でもそれなら曖昧な言い方はしないはずだ。


「藍がいじめられてるとか、いじめられてないとか。そういう話でね」

「……いやいや。藍はどちらかといえばいじめる側でしょ」


 小学生までの藍はずっとお姉ちゃんの後ろに隠れてるような子だった。学校にも馴染めなくて、休む日や保健室登校の日がとても多かったのだ。でも今は違う。「私はイケメンに告白されたけど、あんたは?」とか「私は友達いっぱいだけど、あんたは?」みたいな煽りばかりだ。


 だけどもしも全て虚勢だったら? 考えるまでもない。助けるに決まってる。例えば藍をいじめているのが悪そうな大企業の令嬢で、強大な権力を行使するろくでなしだとしても、私は絶対に諦めない。


 でも藍はどうだろう。素直に助けさせてくれるとは思えない。あの子はもう昔とは違う。反抗期自体が独り立ちのための過程なのだ。それを妨げようとするのなら、ますます苛烈な反撃を覚悟しないといけない。


「お母さんもお姉ちゃんと同じことを思ったのよ。でも昔の藍を思えばやっぱり心配で。かといってお母さんが聞いても『そんなわけないでしょ』の一点張りなのよ」

「まぁそうだろうね……」


 藍は、中学に入ってから自分のことを話さなくなった。この前ゲーム機を当てて帰ってきた時には、友達のことを少しだけ話してくれたけど、あれですら珍しい出来事なのだ。


 ましてや明確な弱みを口にするとは思えない。


「要するに私からも聞いてほしいってこと?」

「そう! その通り! お姉ちゃんなら藍も話してくれると思って」


 期待のまなざしがまぶしい。お母さんはなぜか私たちの仲がいいと思っているのだ。


「一応聞いてみるけど期待はしないでよ。別に私たち仲良くないし」

「仲いいわよ。藍があんなにも反抗するのは、お姉ちゃんだけなんだから」


 相変わらずお母さんの言い分はよく分からない。喧嘩するほど仲がいいって言葉はあるけど、それは相手のことを思うがゆえに、苦い薬を飲ませようとして起こる喧嘩。少なくとも私はそう思ってる。


 藍は私のことが気に食わないから突っかかってくるだけだ。


「反抗っていうのは、絶対に自分を見捨てない相手にしかできないのよ」

「んー。そんなものかなぁ……」


 お母さんの主張の是非はともかく、藍に話を聞いてみよう。世界でたった一人の妹がいじめられているかもしれないのだ。黙っていられる姉がいたらそれはもう姉じゃない。


 お母さんに見守られながらリビングに向かった。藍は今日もソファに座って、がちゃがちゃとゲームで遊んでいる。昔に比べて体も態度も大きくなったとはいえ、まだまだ私よりも小さくて頼りない。


 何気なくを装って隣に座る。一瞬だけこっちをみたけど、すぐにゲームに意識を戻した。突っかかってくることすらしない。いつにもまして不機嫌そうだ。


「学校で何かあったの?」

「……」


 何にも言わない。赤い帽子をかぶった配管工の陽気な声が、テレビから聞こえてくるだけだ。


 不機嫌の理由は分かってる。お母さんに問いただされたのが嫌だったのだろう。小野小町と同じくらいプライドが高いのなら、いじめ疑惑を吹っ掛けられるだけでイライラしてもおかしくない。


 ましてや今の藍は反抗期で、触れるものすべて傷つけるような精神状態なのだ。


 だからいつしか私も藍に踏み込むことはなくなった。反抗されるのが当たり前で、何か諭そうとするのも馬鹿馬鹿しく感じるようになっていた。どうせ「うざい」とか「きもい」で会話を拒絶されるのだから。


 でも世の中の姉妹なんて、大体そんなものだと思う。真緒とみちるさんみたいなのは、極めてレアだ。普通はどちらにも歩み寄る理由がないのだから、お互いに無視して離れていくのは当然。


 でもやっぱり私は藍を放っておけない。


 いじめられているかもしれない、なんて聞けばなおさらだ。


「藍はゲームうまくなったよね」


 テレビでは、藍の操作するキャラクターが颯爽とステージを走り抜けていた。


「……何心配してるのか知らないけど、あんたが思うようなことはないから」


 いつも通りの、ふてくされたような顔だ。


「ならいいんだけどね」


 反抗期が来る前は藍のことを全てわかっているつもりだった。なのに突然、何もわからなくなった。世界が真っ暗になったみたいで、泣きたいくらい悲しむこともあった。今もお姉ちゃんの心は梅雨のままだ。


 残念ながらお姉ちゃんには、真実を見通す目も耳もない。


 藍が何を考えているのか、まるでわからない。


「信じてくれないの。私のこと」


 藍はぽつりと言葉をこぼした。論点のすり替えといえばそうなのだろう。私やお母さんにとって重要なのは、いじめられているのか、いじめられていないのかだ。


 でも藍にとって重要なのは、そこではないのかもしれない。きっと最初からこの子の答えなんて決まっている。本当にいじめられていようが真実を話すわけがない。私だってわかっていた。


 だったらお姉ちゃんがしてあげられることは、一つだけだ。


「分かった。信じるよ」


 小さく頷く。その瞬間、藍の表情はほんのわずかだけ。


 それこそ、十四年間お姉ちゃんをしている人にしか分からないほど微かに、和らいだ。


 火のない所に煙は立たたない。本人がそう感じていなくても、外からすればいじめに類する行為が行われている。そういう認識のずれはよくある。藍が自ら隠そうとしている線だってもちろん外せない。


 けれどお姉ちゃんはそういうものだ。藍が信じてほしいと願うのなら、信じるのだ。


 きっとこれが今の藍なりの甘え方で、私が藍のためにできる全てなのだから。


「ま、そういうわけだから。あんたなんかに心配してもらう必要はない」


 ぱんぱんと手をたたくように、藍は会話を打ち切った。


 でもまだ言い残していることがある。お姉ちゃんとして伝えておかなければいけない。


「お姉ちゃんと藍は仲良くないかもしれない」

「世界で一番仲良くないよ」

「でもこれだけは覚えておいて。お姉ちゃんはいつだって藍の味方だから」


 じっと横顔をみつめる。私と同じこげ茶の瞳。血のつながった大切な妹である証拠。


 それが、ようやく私に向けられた。


 その瞬間、颯爽とステージを駆け抜けていたゲームのキャラクターが、敵に衝突して死亡する。


 藍は深いため息をついて肩をすくめた。


「二次元妹ならそれで落ちるのかもしれないけど、私はそういうのじゃないんで」 

「気取った発言とかじゃないよ。思ったこと伝えただけ」

「ならあんたは生まれる次元を間違えたんだね。ご愁傷様でした」


 いつもと同じにやけ顔で皮肉を飛ばしてきた。本当に可愛くない。


 でもひとつだけ分かることがある。藍に馬鹿にされてイライラすることはこれから何度もあるだろうけど、不幸を望む日だけは絶対に来ない。それだけはお姉ちゃんとしての愛が保証していた。

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