第7話
みちるさんはすっかりへこんでいた。それ以上踏み込んだ話をするわけにもいかず、毒にも薬にもならない言葉を交わして過ごす。気付けば時計の針が五時半を指していた。
「そろそろ帰らせてもらいますね。もうすぐ夕食の時間なので」
「そっか。気を付けて帰ってね。聖ちゃん」
聖さん、ではなく聖ちゃん。流れでそう呼ばれるようになったのだ。
私にちゃん付けをするのは八百屋のおばあちゃんくらいだった。でもみちるさんなら違和感はない。雰囲気がほわほわしているからだろうか。大学でもみんなに愛されている姿が目に浮かぶ。
頭を下げてから玄関に向かうと、みちるさんたちが見送りに来てくれた。このままお別れかと思っていたけれど、なぜか真緒は当然のように私の隣で運動靴を履いていた。
「ま、真緒ちゃん?」
みちるさんが中途半端に手を伸ばしている。私も同感だ。なぜついてくるのだろう。
「暗いから危ない。聖は私が送っていく。お姉ちゃんは待ってて」
「だめだよ。お姉ちゃんがいくよ」
「大丈夫。私はすごい格闘術がつかえる」
真緒はしゅっしゅとシャドーボクシングのように無を殴っていた。初耳だ。聞いたことがない。でも真緒ならあり得るのかもしれない。パンチもなかなかのキレだし。
とはいえこのまま一緒に家を出るのは、みちるさんがあんまりに気の毒だ。
今も濡れた犬みたいな顔してる。
「真緒。一人で大丈夫だよ」
「ううん。聖が心配。私がいく」
私の手を固く握りしめていて、離さない。そんなにか弱い存在にみえているのだろうか? 身長は真緒よりもずっと高いし、足だって速い。困惑していると、耳元でささやく声があった。
「教えて欲しい。分かったこと」
明日で良くない? とは思った。けれど真緒のことだから何を言っても聞かないのだろう。
こういう時の真緒は本当に頑固者だ。私は小さくため息をついて、みちるさんに頭を下げた。
「すみません。真緒に送ってもらいます」
「……うん。気を付けてね? 二人とも」
もう一度、軽く会釈をする。真緒に手を引かれるままに傘を開いて家を出た。暗闇の中を白く光る雨が落ちていく。私たちはすぐ近くの街灯で立ち止まった。
「気付いたこと話すから、すぐにみちるさんの所に帰ってあげてね」
「送らなくて大丈夫?」
「全然。むしろ真緒が一人で帰る方が危ないでしょ」
「そうは思わない」
私のことがよほど心配なのか、全く納得していない様子だ。あからさまに声が不貞腐れている。
「ついてくるのなら話さないよ?」
「……分かった。送らないから教えて欲しい」
「じゃあまずこれをすれば絶対に解決できるって方法から話す」
表情筋の弱さは相変わらずだけど、目には期待の光が宿っていた。
「もう分かった?」
「うん。でも真緒はそういうこと望まないだろうし、私だって望まない」
友達付き合いなら理解はできるけど、姉妹で気を遣わないといけないなんて窮屈すぎる。無理に取り繕わないと成り立たない姉妹なんて、そんなの姉妹じゃない。もはやただの他人だ。
「それでも聞かせて欲しい」
「単純な方法だよ。真緒が何もできないふりをして、みちるさんに甘えればいい。そうすればみちるさんは、自分がお姉ちゃんであることに自信を持てる。表面的にはぎくしゃくしなくなる」
雨の中、車が通り過ぎていくのを真緒はぼんやりと見つめていた。脳内で言葉を咀嚼しているのだろう。口を閉ざして黙り込んでいる。でもやがて不安そうに肩をすくめて、目まで細めて。
今にも泣きそうな声で、こうつぶやいた。
「……お姉ちゃんは、私が何でもできるのが嫌?」
思わず息を呑む。目の前の表情を信じられなかった。こんな悲しそうな顔するんだ。本当にみちるさんのことを気に入っていたのだろう。だからここまで怖がる。完全に失言だった。
「ううん。誤解しないで。そんなことはないよ。真緒が優秀なこと自体は誇らしく思ってるはず。お姉ちゃんらしいことをしてあげられないのが、嫌なんだと思う。自分に甘えてくれないのが」
「甘えるって、分からない」
心の奥から、絞り出すような声だった。
お姉ちゃんな私でも、お母さんに甘えたことはある。でもこの子は知らずに生きてきたのだ。真緒のお母さんは、毎日夜遅くまで働いていた。そんな人に甘える勇気は、真緒にはなかった。
「……甘えたいとは思う?」
「思わない。甘えるのは分からないし、分かったとしても怖いと思う」
誰にも頼らず、何もかもすべて自分でこなせるように頑張ってきた。心を鋼鉄の壁で守るような生き方をしてきたのだ。その正反対のことをするのは、怖いに決まってる。
「けどお姉ちゃんが望むのなら甘える」
真緒はいつもの無表情に戻っていた。じっと私をみつめている。姉妹に関しては、私の方が造詣が深い。アドバイスを求めているのだろう。だったら私はこう答えるしかない。
「それは、間違ってる」と。姉妹とはそもそも、妹が姉に甘えるものなのだ。決して、姉のために妹が無理をしてはいけない。甘え方も分からないのに甘えようとするのは、ただのやせ我慢でしかない。
それに、そもそも甘えるというのは意識的に行うことではない。
信頼できる相手に自然と身をゆだねることだ。
「聖。私はどうやってお姉ちゃんに甘えればいい?」
こんなことを口にするうちは、甘えるという選択肢はあり得ない。
一つ目の方法を口にしたのは失敗だったかもしれない。後悔しながらつぶやく。
「方法はもう一つあるんだよ」
真緒は顔を寄せて勢いよく食いついてきた。
「教えて欲しい」
「みちるさんが立派なお姉ちゃんになることだよ」
そうなれば真緒も自然と甘えられるのではないか。でも真緒は即答だった。
「それは無理」
私も同感ではある。あの人はかなり抜けている。そこが親しみやすくて良いんだけど、お姉ちゃんとしては全くもって頼りない。「寄りかかってもいい対象だ」と認識できる何かが見当たらないのだ。
話を聞いたところによると、料理も掃除も真緒に任せきりらしいし。
「みちるさんには得意なこととかないの?」
「あの人は運動が得意」
「あぁ。スポーツ推薦で大学に入ったって言ってたよね」
でもどれくらい凄いんだろう? 真緒はみたことがあるのだろうか。
「でも実際にみたことはない。実は妄言かもしれない。密かに思ってる」
うんうんと真緒は深く頷いていた。自分の言葉に自分で納得しているらしい。
「だったらみちるさんが通ってる大学に行ってみようよ」
「お姉ちゃん、噓がばれたらきっと悲しむ。泣くかもしれない。やめた方がいい」
小さな体温が引き止めるように私の手を握った。真緒のみちるさんへの評価が、とても悲しい。
甘えられるわけもないよなぁ。だって無力な赤子みたいに思ってるよ、絶対。
「ちなみにだけど私のことはどういう認識?」
「聖はすごい。夜空の綺麗な月。まぶしい。でも太陽には負ける」
要するに陽キャになれない陰キャってことか。……結構毒舌だな? この子。
私のこと、本当に友達だと思ってくれているのだろうか。
疑念を抱いていると、真緒はふっと目を細めて微笑んだ。
「……でもこんな私を助けてくれるたった一人の親友」
つられて笑みがこぼれる。何もかも全部、たった一言でひっくり返してしまった。
「私も理解している。愛想もないし、みんなともずれている。変だって言われることは多かった。でも気にしたら辛くなる。できるだけ気にしないように、一人で過ごしていた。でもそんなときに聖が声をかけてくれた」
中学二年生の時、私たちは初めて面識を持った。確か初めて交わした会話は、会話とも呼べないものだったと思う。「休み時間も勉強してるの? 凄いね」「集中してるから話しかけないで」みたいな感じで。
「最初はどうせからかわれるんだろうなって思ってた。でも聖はそうじゃなかった。嬉しかったんだと思う」
「……そうだったんだ」
「私は私の感情にとても疎い。人の感情も難しい。けど聖とのやり取りでだけは、自分の感情の色をはっきりと理解できた。嬉しいって、楽しいって分かった。だから私は聖を、……聖も、親友だって思ってくれる?」
懇願するみたいな上目遣いだった。否定できるわけがないし、したくもない。
「親友に決まってるよ」
その瞬間、またしても輝かしい笑みが現れた。
なるほど。やっぱり真緒は妹だ。残念ながら私はただの親友だけど、こういう不意な可愛さを見せつけられると、たくさん愛でたくなる。それだけの妹力が、真緒にはあった。
助けてあげないといけないなぁ、と強く思うのだ。
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