第5話
価値観は八百万に存在している。しかもただ一つの形に留まることはない。私と藍の関係のように千変万化で、昨日は気が合った相手が明日には不倶戴天の敵になっていたりする。
私もいつかは価値観が変わり果てて、妹という存在を嫌いになるのだろうか。
「ねぇねぇ」
隣から飛んできた藍の声で現実に戻る。私の隣は昔から藍の指定席だった。反抗期に入ってもなぜか同じ場所を選んでいる。特別な意味なんてなくて、惰性なのだろうけれど。
「今日のあんたはいつにも増してぼんやりしてるね」
「梅雨だからかもしれない」
ゲーム機を当ててから一か月、テレビでは「この一週間は雨が降り続く」と報じられている。言葉の通り、雨音がぱらぱらと家の中に響いてくる。
手元の皿の上には、食べかけの玉子焼きが倒れていた。何だか眠い。自分の声も外から聞こえるみたいだった。朝からこんな調子では授業中なんて寝てしまうのではないだろうか。
「あんたってそんなに季節の影響受けやすかった?」
「最近はね」
昔は藍に構うのに必死だったから、暑いなぁとか寒いなぁ程度しか認識してなかった。梅雨の時期は憂鬱になるなんて話を聞いても、よく分からなかった。今のこれは甘やかせる妹がいない弊害だろうか。
「昔なんてずーっと暑苦しかったもんね。ほんとうざかった」
「うん」
あんまりにぼんやりしすぎて、言い返す意欲も湧かないのだ。口論にならなくて都合がいいはずなのに、藍は不機嫌そうに目を細めていた。箸で自分のトマトをつまんで、無言のまま皿に運んでくる。
私はそれを、ほとんど反射的につまんで自分の口に入れていた。むしゃむしゃと食べる。ちょっとだけ酸っぱい。この中途半端な酸味が藍は苦手なのかもしれない。グレープフルーツは普通に食べられるし。
「……ほんとに大丈夫?」
「うん」
何も考えず問いかけに頷く。
でも「だいじょうぶ」とは? 最近は馴染みのない言葉だ。たしか、心配を意味したと思う。
まさか藍が私の心配を……? いやいや。一昔前ならともかく、今はあり得ない。あぁ。そうか。都合のいい夢か。目覚めた時に虚しくなるのが嫌だから、強く頬を引っ張ってみる。痛い。
「……何してんの?」
「いや、ちょっと確認を」
もう一度引っ張ってみる。やはりとても痛い。
「病院行く? ……私もついていくけど」
嫌味を言っている顔ではなかった。朝食を食べる手を止めて、じっと不安そうに私をみつめているのだ。
闇の中でまどろんでいた脳に、車のハイビームのような明かりが差し込む。
信じがたい。でも現実みたいだ。
藍が、お姉ちゃんを心配してくれた! その一文が、脳内で虹色の光を放つ!
胸の中が温かくなっていく。非活性だった全身の細胞に、栄養が行き渡る。長らくの間、日の光を拝めていなかった植物のように、みずみずしさが戻ってくる。妹に心配されただけでそこまで? と違う意味で心配されてしまいそうだけど、最後に藍が私を気遣ってくれたのは一年以上も前なのだ。
驚きと喜びで、ご機嫌なダンスを踊ってしまいそうだった。
「なに突然笑ってるの。謎のリズムまで刻んで超キモいんですけど」
「ちょっと! お姉ちゃんは可愛いでしょ!」
「それ自分で言う?」
いつもみたいに冷ややかな表情だ。あれ? 私を心配してくれた藍はいずこに?
「ひどい。さっきの藍、ちょっだけ昔みたいだったのに! お姉ちゃんのこと心配してくれた!」
唇を尖らせて不満を表明するも、藍はやれやれと肩をすくめるばかりだ。
「錯覚じゃないの? 私があんたを心配するなんてあり得ないでしょ」
言われてみれば、そんな気がしなくもない。私が都合よく心配だと解釈しただけなのかもしれない。
現実は非情だ。でも「心配」と言えば。テレビの下のゲーム機に目を向ける。藍の友達はゲームが好きで、下手すぎる藍はハブられることがあったらしいのだ。少しは交じれるようになったのだろうか。
「最近は友達にはぶられたりしてない?」
「あんたなんかに心配してもらわなくても平気だから。っていうか何で知ってるの?」
「この間お母さんに聞いた」
つぶやくと、藍はあからさまに顔をしかめた。
「プライバシーって言葉知らないわけ? 普通にキモい」
「ちょっと?」
お互いに睨み合う。それからはいつも通りのほとんど口論なやり取りだった。険悪な姉妹が急に仲良くなるような、二次元的なイベントが起こるはずがない。現実というのはいつだって冷酷なのだ。悲しい。
ため息をつきながらも、やがて身支度を終えた私は一人で家を出た。
「聖。相談したいことがある」
お昼休みに入って早々、真緒が教室で声をかけてきた。無表情で声も平坦で、でもどこか焦りのような雰囲気が言語化できない場所にあった。
「どうしたの?」
問い返すと手招きされた。こちらの返事も待たずに歩いていくから、慌てて小柄な背中についていく。教室では話したくないことなのだろうか。そういうの真緒にもあったんだと目を丸くする。
湿った廊下を歩いてたどり着いたのは、空き教室だった。雨脚が強まっているようで、窓ガラスにぱちぱちと雨粒が打ち付けている。真緒は堂々と中に入って部屋の明かりをつけた。
端に寄せられていた机と椅子をもってきて、面談みたいな格好を作っている。私も真緒に倣って椅子に座った。向かい合わせでお弁当箱を机の上に置く。何となく持ってきたけれど、昼食という感じではなかった。
真緒は真面目な顔をしている。いつも通りの無表情だけど、雰囲気が真面目なのだ。
「前にした話。お姉ちゃんができるって話。覚えてる?」
「うん。大学生だっけ」
梅雨に入る前に、学食の前で聞いた記憶がある。
頷くと真緒は小さく頭を下げた。
「教えて欲しい。とても困ってる」
表情も声色もほとんど変わらないのに、どこからか悲しい雰囲気を醸し出してくる。「どなたか貰ってください」と書かれた段ボールの中で、子猫がにゃあにゃあ泣いているイメージが脳内に溢れ出した。
助けが必要なのは良く分かった。助けたいとも思う。でも肝心なところが分からない。
「何を教えればいいの? お姉ちゃんに関することってのは分かるんだけど」
真緒は小首をかしげた。目を閉じて何か考え込んでいるようだ。
やがて大きな瞳が私をみつめる。そのまま大真面目に言い放った。
「自分が何に悩んでいるのかが分からない」
「……あー」
知識がないから知るべき知識も分からなくて、何が分からないのかが分からない。勉強が不得意な子がよく言ってるイメージだ。まぁよくあるよね。でもまさか、学年一位を取る真緒から聞くとは思わなかった。
しかも悩みがあることは分かっても、その悩み自体が分からない。これは、とてつもなく奇妙な悩みだ。
自分に関心の薄い真緒だからこそなのだろう。
「お姉ちゃんとは同じ家に住んでるの?」
「結構近くの大学だから二人暮らし。お母さんとお父さんは別の場所」
そっか。二人暮らしか。それなら真緒も自分なりに関係を取り持とうと頑張ったのだろう。お母さんを心配させたくないって気持ちもあるはずだし。でも無理だった。だから私に頼ってきた。こう考えるのが妥当だろうか。
真緒は自分たちがぎくしゃくしていることに、ぼんやりとは気付いている。
でもそれが表層にまで登って来ていないから、言語化には至らない。こういうことかな?
考え込んでいると、いつの間にか真緒は机を乗り出して私に顔を寄せていた。大きくて真っ黒な瞳には、感情は薄くとも希望の灯が燃えていた。そしてそれは、私に向けられたものだった。
「真緒が聞きたいのはお姉ちゃんと仲良くなる方法で合ってる?」
「……私は仲良くなりたいの?」
不思議そうに首をかしげている。あまりにも自分に無頓着だ。将来のことはきちんと考えているようだけれど、むしろそれしか考えていないのではないだろうか。急に真緒のことが心配になってきた。
「たぶんそうだと思うよ」
「姉妹のプロである聖が言うのなら、きっと正しい」
「プロなのかなぁ?」
苦笑いして返す。昔は胸を張って肯定していたのだろうけれど、今は大いに疑問が残る。
「お姉ちゃんはどういう人? 真緒の印象でいい」
「……印象」
んー、と平坦な唸り声をあげる。しばらくして思い浮かぶものがあったのか、口を開く。
「やさしいと思う」
「そっか」
良かった。でも意外だった。上手くいかないのだから、てっきり刺々しい性格をしているのかと。
なら問題があるのは真緒なのだろうか。
「真緒はお姉ちゃんにどういう感じで接してるの?」
「いろんなこと教えてる」
「いろんなこと?」
「勉強とか。あの人、今の大学もスポーツ推薦で入ったみたい。大学生なのにあんまり頭が良くない」
突然のストレートな発言に苦笑いする。真緒は良くも悪くも正直だ。発言をオブラートに包むということをあまり知らない。私は好きだけど、不協和はそれが原因なのではないだろうか。
加えて姉になった以上、真緒のお姉ちゃんにも自負のようなものがあるはずだ。それなのに妹に助けられてばかりでは、関係がぎくしゃくしてしまうのもごくごく自然。
「真緒がお姉ちゃんに教えを請えば上手くいくんじゃないかなぁ」
「……なにを?」
真緒は首をかしげた。本当に素直な子だよこの子は……。
これではお姉ちゃんが委縮してしまっても仕方ない。かといって知ってることを知らないふりして問いかけるなんて、真緒らしくない。何より偽りの自分で仲良くなった関係なんて、きっと長続きしない。
「……んー」
考えあぐねる。もう少し情報を集める必要がありそうだ。
「お姉ちゃんに会わせてもらうことってできる?」
「今からスマホで確認する。友達が会いたがってるって送る」
「よろしくね」
少しは解決の糸口が見つかればいいんだけど。
ぼんやり窓の外をみていると、珍しいことに真緒が微笑んだ。
「よろしくなのは私。ありがとう聖」
花の開くような、屈託のない笑みに見惚れてしまう。やっぱり真緒の妹適性は非常に高い。たまに不安になることはあるけれど、素直なのはいいことだ、本当に。藍にも見習ってもらいたい。
「聖?」
小首をかしげた真緒に焦点が合う。私は反射的に作り笑いを浮かべた。
「ちょっと考えごと。真緒は大丈夫だよ。絶対に良い姉妹になれるから」
「うん。がんばる」
小さくファイティングポーズをとった新米妹は、いつもの無表情で頷いた。
それからまた淡々とした声でつづけていく。
「今から私の周辺情報を伝える。それも含めて私の悩みを解決する方法を考えて欲しい」
カーナビみたいな物言いに笑ってしまいそうになって、口元を隠した。真緒がこてんと首をかしげるから、私は手のひらを差し出して「つづけて」と先を促す。
「知っていると思うけど、小学校低学年の頃に私の両親は離婚している」
お昼休みに話すには少しヘビーな話題だ。でも知る必要のある情報だと真緒が判断したのなら、知るべきなのだろう。普段自己開示をしてくれることはほとんどないし、私としても真緒のことは知りたい。
「離婚はお父さんの浮気が原因だった。二人で生活するようになってからは、お母さんは夜遅くまで働いていた。私は十八時まで学童で過ごして、一人で家に帰っていた。夕食はお母さんが作り置きしてくれたご飯を食べた」
専門家ではない私にもわかるほど、無感情無関心の原因は明らかだった。
辛いはずなのに、真緒は淡々と心の傷をえぐるような過去を教えてくれた。「私が悲しそうな顔をするとお母さんも悲しそうにするから頑張って笑った」とか「テストで悪い点を取るとお母さんを心配させてしまうから、暇な時間はずっと勉強をしていた」とか、ショックを受けるエピソードが多かった。
真緒はずっと孤独だったのだ。家でも学校でも、どこでも一人だった。
「どういう人生を送ってきたのかは伝えた」
「……その、なんていうか、ありがとうね?」
「感謝されるいわれはない。私は事実を伝えただけ」
怖いほど平坦な声に胸の奥が落ち着かなかった。私は四年間、真緒と友達付き合いをしてきた。どういう風に育ってきたのかも、節々の言葉からある程度は知ったつもりになっていた。
でも改めて本人から聞くと、何も知らなかったのだなと思い知らされる。
「真緒はきっとお姉ちゃんが出来たのが嬉しかったんだね」
「……嬉しい?」
「一人じゃない家は寂しくないでしょ?」
微笑むと真緒は小さく頷いた。
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