第2話

 最近よく思う。それなしで生きていけない生物からそれを奪ってしまったら、どうなってしまうのだろうと。要するに草のない草食動物とか肉のない肉食動物とか、妹のいない姉とか。今の私はちょうど三番目の例で、甘やかせる妹がいない飢餓を毎日のように感じていた。


 両親が仕事に行った後のリビング。藍と朝食を食べながら、ふとつぶやく。


「どこかに甘えん坊な妹でも落ちてないかなぁ」

「頭大丈夫? 病院行く?」


「病院行け」じゃなくて「行く?」だし、一応心配してくれているのだろうか。そんなところに優しさを見出してしまうのが、飢えている感じがしてとても悲しい。


「っていうかそもそもあんたには『しおりちゃん』がいるんでしょ」


 昔からの好物であるベーコンをむしゃむしゃと頬張りながら、藍はつぶやいた。ちなみに中学校ではパスタの方が好きだと謎に見栄を張っているようだ。


「でもしおりちゃんは甘やかせないし……」


 それこそが一番の欠点なのだ。どれほど可愛らしい最高の妹でも、現実世界にしおりちゃんはいない。泣けど叫べど、やけになって夜の街を走り回ってもしおりちゃんは漫画の中で笑っているだけだ。


「なら適当に女の子さらってくればいいじゃん。それで一から自分の理想に育て上げるとか」

「お姉ちゃん、そんな極悪人にみえる?」

「みえるみえる。すごくみえるよ」

「そういうこと言うのなら、今日からお姉ちゃんトマト食べてあげないけど」


 その瞬間、箸の動きが止まった。でもすぐに何事もなかったかのように藍は食べ物を口に運んでいく。ベーコンにソーセージにレタスに味噌汁。それらを片付けて最後に残ったのは、真っ赤な球体だ。


 どことなく物欲しげな目で、藍がちらちらとみてくる。


 いつもなら無条件で私が食べてあげるところだけれど、今日はそういう気分ではないのだ。


「ホントに食べないの?」

「藍が言うには私ってば有史以来最低最悪の極悪人みたいだから」

「そこまで言ってないし」

「同じでしょ」

「……じゃあそんなに極悪人ではないかもしれない」


 声に力がない。


 私は自分のトマトを口に運んだ。でも藍のトマトは一瞥もしない。すぐにそわそわした空気を隣から感じた。


 反抗期な藍も道徳観はしっかりしている。食べ物を残すことに罪悪感があるのだ。小さな頃なんて豚肉が豚の肉だと知った日には「あい、もうぶたさんたべない……」って泣きそうになっていた。


 豚と同じでトマトが生きているということも、藍は理解している。


「極悪人じゃないから」

「じゃあ善人?」

「……極じゃない悪人?」


 苦しそうに目を伏せながらも罵倒してくるのは、流石ひねくれものだ。でももうそろそろ家を出る時間。昨日みたいにヒートアップしても困るし、この辺りで許してあげることにした。


「はいはい。分かった分かった。食べてあげるから」

「馬鹿だね。最初からそうしてればいいのに」


 感謝するでもなく、ただただ深いため息だけが聞こえてきた。なんて奴だ!


 私の妹は今日もうざい。ホントどこかに甘えん坊な妹落ちてないかなぁ。なんて思いながら、トマトを食べてあげる。すぐに藍は満足そうな顔で自分の食器をキッチンに運んでいった。


 でもこういうのも一応は「甘やかしている」に入るのかもしれない。どうせ甘やかすのならベタベタドロドロに甘やかしたいものだけれど、今の藍は間違いなく反抗するのだろう。悲しい。


 一通りの身支度を終えたあと、まだ準備中の藍に玄関から問いかけた。


「ねぇ、甘えん坊な子知らない?」

「馬鹿なの。知ってても教えるわけないでしょ」 


 まぁそりゃそうだ。前に進めと言えば、後ろに全力疾走するような妹だ。別に期待もしていなかったし深く失望するようなこともない。学校の鞄を肩にかけて玄関扉に手を伸ばす。


 けれどその時、ふと藍の声が聞こえてきた。


「っていうか、甘やかせるのなら誰でもいいわけ?」

「なんでそんなこと聞くの」

「は? きもい」


 なぜか唐突に罵倒されたんですけど。私、藍の癪に障るようなこと言った? いや、私の言うことは何もかも全て気にくわないのかもしれないけどさ。それにしたって、藍の考えていることは分からない。


「急にキモがられてお姉ちゃん悲しいよ……」

「ずっと思ってたんだけど、一人称が『お姉ちゃん』なのどうかと思う」


 ついに私のアイデンティティにまで手を出そうというのか、この妹は。


「だってあんたは甘やかせる妹属性なら誰の姉にでもなるんでしょ。そんなの『お姉ちゃん』じゃなくて『ビッチお姉ちゃん』でしょ。これからは一人称『ビッチ姉』ね。よろしく」

「誤解を招くからやめて! そもそもそんなお下品な言葉どこで知ったの!」


 日進月歩な妹は不純な知識も吸収して大きくなっていく。「おしえておねえちゃん!」とニコニコ笑う初雪の白だった藍はもういないのだ。現実はどうにも上手くいかない。無常だ。


「普通に生きてたら普通に知るでしょ。そんなことも分からないの?」

「それはそうだけど……」


 肩を落としていると、準備を終えた藍が玄関までやって来た。いつも通り不機嫌そうだ。


「仲いいとか誤解されたら嫌だから遅れて家出てよね」

「お姉ちゃんの方が先に玄関にいたんですけど」

「さっさと行けばよかったじゃん。嫌いな妹の会話に付き合わずにさ」


 あんまりに理不尽だ。夏服を着た妹はさっさと扉を開けて出て行ってしまった。別に着崩しているわけではない。むしろ真面目さを感じるくらい校則に従っている後ろ姿だった。


 スカートの丈も長いし、下品な言葉を使いたくなるのも、私への反抗期の一環なのかもしれない。というかそもそも藍が私以外に反抗している場面をほとんど見たことがない。人体の70%が水なら、もしかすると藍の残り30%は私への反抗心でできているのかもしれない。果たして喜ぶべきか、悲しむべきか。


 気だるい一日の始まりを憂う。しばらくしてから、私も家を出た。初夏なだけあって、青空からそそぐ太陽光が暑苦しい。じっとりと汗をにじませながら十分くらい歩いていると、交差点の向こうに古びた校舎がみえた。


 私が通っている高校はこの地域で一番賢い所だ。我ながらすごい。藍も高校に合格した時は『お姉ちゃんすごい!』って褒めてくれていた。まだぎりぎり反抗期じゃなかったし。


 校門を抜けて、ところどころの壁に小さなひびの入った昇降口に入る。近々改修の予定があるらしいけれど、私が在校生の間には行われないようだ。とはいえ教室にはエアコンもついているし、特に不満はない。


 はずだったのに、暑い廊下を抜けて教室に入っても全然涼しくない。


 天井をみればエアコンは頑固に口を閉ざしていた。肩を落として絶望していると、視界の端でなにかがひらひらと揺れた。中央の席から手を振ってくるのは、中学からの付き合いの真緒だ。


「おはよう聖」


 真緒はいつも通りの無表情だった。声だって平坦で感情を表に出すことが少ない。もう四年の付き合いだけど、笑顔は片手で数えるほどしか見たことがなかった。


 小柄な彼女はもう片方の手に握ったタオルで、汗ばんだ額を撫でていた。その姿はどことなく毛づくろいする子猫を思わせる。体だけでなく顔立ちも幼く可愛いけれど、残念ながら同級生なのだ。


 後輩なら甘やかし対象に入ったかもしれないけど、流石にね。


「おはよー。暑いね。この怠け者のエアコンめ……」


 愚痴りながら廊下側の自分の席に向かう。椅子に腰を落ち着けてみるも、やっぱり教室の中は外気温と変わらない。むしろ暑い。開いた窓から吹き込んでくる風も生ぬるい。


 英語や古文の単語帳で軽く勉強するつもりだったのに、やる気が無くなってしまった。


 同じくだるそうにしている真緒に声をかける。


「エアコンつくまで涼しい場所にいようよ」

「分かった」


 二つ返事で同意してくれるのは、以心伝心って感じがして心地良かった。


 こんな暑さの中でも勉強している真面目なクラスメイト達を横目に、私たちは教室を出る。向かう場所は一階学食前の渡り廊下。ちょうどこの時間帯は校舎の影だから、涼しい風が吹いていて気持ちいい。


 たどり着くととすぐに汗が引いていく。校舎入り口の段差に腰かけて二人で涼んだ。


「まぶしい」


 真緒は目を細めている。視界の端で校庭がやたらめったら輝いているし、朝練をしている運動部の、はつらつとした掛け声も聞こえてくるのだ。その両方への抗議なのだろう。


「常日頃から思ってた。聖ってあっち側。今からでも遅くない。青春を満喫すべき」


 ないない、と私は手を横に振る。


「運動部とかやってられないよ。暑いししんどいし日焼けするし、上下関係とか面倒くさそうだし」


 私と同じで真緒も帰宅部。運動が好きではないし交友関係もほぼ皆無だ。誰にも懐かない猫のような態度はいつだって人を遠ざけている。でも私にはかなり懐いてくれているようだった。


「でも聖は運動得意。大体のこと人よりもできる。しかも美人」

「えー。そんなに褒めても何も出ないよ」


 真緒がお世辞を言うことはない。いつも正直で裏表がないのだ。とはいえ真正面から受け止めるのも恥ずかしいから、くねくねと動いて冗談めかした。そんな私をみつめる真緒は相変わらずの無表情だ。


「褒めてるわけじゃない。むしろ逆。もしも聖がシスコンじゃなかったら、もっと輝かしい今もあった。今も昔も妹のことばかり」

「そうかな」


 家の外ではできるだけ抑えているつもりだ。特に高校に入ってから、妹のことは愚痴以外で口には出さない。でも真緒は気付いていたらしい。


「歪。聖くらい恵まれてたら、もっと活発になってるはず」

「偏見がすごいなぁ真緒は」

「妹以外に興味関心を持てないって、呪われてるみたい」


 呪い。真緒にはそういう風に見えているのか。


 私も考えることはあるけどさ。もしも妹を好きになっていなければ、何してたんだろうって。キラキラした汗を流して部活に取り組んでいたのか、甘酸っぱい恋の味を楽しんでいたのか。


 けどやっぱり別の自分は上手く想像できない。


「真緒は一人っ子だったよね」

「悠々自適の一人っ子」

「もしも妹とかお姉ちゃんがいたらって思わない?」

「考えたことない。欲しいと思ったこともない」


 輪をかけて興味がなさそうな声だった。


 もったいない。実にもったいない。姉妹という関係の尊さを理解できないなんて。いない存在の価値を認識しろってのは酷だけど、そこまではっきりと否定されるともやもやするのだ。


 私は妹が好きだけど、姉妹という関係も大好きだから。


「そんなことより、今は気にしないといけないことがたくさんある。夏休みにはオープンキャンパスに行くようにって教師が言ってる。冬には仮だけど志望校も提示」

「……まぁ確かに」


 そんなこと、という言い方は気にくわないけど、真っ当だと思う。


 真緒は成績がいい。一位を取ることもよくある。青春的には怠け者だけど勉強には熱心だし、将来のこともちゃんと考えてるんだと思う。私は何にも分からないけど。


 大人になるんだって実感が、蜃気楼よりも薄い。


 妹を愛でることが一番重要で、他のことにはあまり関心を持てないのだ。


 熱膨張でも起こしたのか、金属がからんころんと頭の上で鳴った。横目で真緒をみつめる。小柄な体躯に可愛らしい声。理知的ではあるがどこか儚げな横顔。そして裏表のない素直な性格。


 もしも姉がいたのなら、溺愛された妹なはずだった。


 でも一人っ子なのだ。本人は満足してるみたいだけど、やっぱりむずむずする。


 横顔をみつめていると、目が合った。


「どうしたの聖」


 抑揚の薄い声で呼びかけられた。慌てて首を横に振る。


「ううん。何でもない」


 真緒は不思議そうに首をかしげていた。まさか私がお姉ちゃん役になるわけにもいかないし、仮に姉妹の良さを教えたところで真緒に姉妹はいないのだ。残酷でしかない。


 沈黙が流れる。いつもならそうでもないのに、微妙に気まずく感じてしまう。


 肩をすくめて縮こまっていると、不意に真緒が口を開いた。


「お母さんが近く再婚する」

「えっ。そうなんだ」


 真緒の両親は小学生の頃に離婚している。


 でもなぜ今そんなことを口にしたのだろう。反応に困る。


「大学生のお姉ちゃんができるってお母さん言ってた。私は苦手。そういうの」


 別に悲しむわけでもなく喜ぶわけでもなく、いつもの無表情だ。


 祝福するべきではなさそうだった。小学生のころから一人で育ててくれたお母さんに、迷惑をかけたくないって気持ちが根幹にあるのだろう。真緒は自立志向が強い。人に頼ることも少なく、友達も私以外にはいない。


 そんな真緒の性格的に、お姉ちゃんに甘えるなんて絶対に無理なはずだ。


「大変だね。真緒も」

「……うん。たいへん。考えることが増えるのは、めんどくさい」

「そうだよねぇ」


 人によって価値観は違うっていうけど、実際目にしてみると難しいものだなと思う。私ならきっと大喜びしていたはずなのだ。違う考えをもつ人の内面を推し量るのは、とても難しい。


「まぁ悩み事があったら私に話してよ」


 私が今伝えられるのは、この程度だった。


「ありがとう」


 真緒は無表情をほんのわずかだけ緩ませて、笑った。見惚れそうになるくらい可愛い。例えるのなら、シャーシャー威嚇していた子猫が、突然ニャーニャーと甘えてくるような衝撃だ。

 

 それくらい、真緒の笑顔は刺激的だった。


 やっぱりこの子は妹に向いている。少なくともあの憎き藍より遥かに甘やかしたくなる。 


 でも残念ながら真緒は同級生だ。悲しい。


 気付けば笑顔は消え、涼しい横顔に戻っていた。感情が薄いから真緒は孤立しがちだった。ロボットなんて揶揄されることもあった。だから友人としてはお姉ちゃんができるのは嬉しい。


 私以外にきちんと頼れる人ができるってことだ。


 信頼関係を築けるように手助けしてあげないといけない。


 その時、太陽が雲に隠れたらしく校庭は光を失った。朝練も終わったようで部活動の声も聞こえない。空からごうごうと風の音が響いてくるだけだ。半袖なのもあって、涼しいを通り越して少し寒いくらいだった。


 自分の身体を抱きながら真緒をみやる。


「そろそろ戻ってみる?」

「聖が寒そうだから」

「真緒も寒いでしょ」

「私は冬型の人間」


 朝型夜型は聞いたことあるけど、冬型なんて天気予報くらいでしか聞いたことがない。


 小柄な友人は妙なことを言いながら、ショートヘアをかき上げて立ち上がった。

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