第1話
生きていれば何かを好きになっている。どこで出会ったのか、何を理由にのめり込んだのか。何も分からないうちに、一度きりの人生は侵略されている。元に戻れないほどに歪められてしまっている。
私だって、他に好きになれたものがたくさんあったはずだった。それでなければならない理由なんて、なかったはずだった。なのに気付けば、たった一人の妹を愛することを選んでいた。
記憶の箱をひっくり返すと、子供の玩具みたいに鮮やかな情景が溢れる。「おねえちゃん!」とニコニコ追いかけてくる幼稚園児な妹。九九が覚えられなくて泣きそうになっていた小学生な妹。運動会のかけっこでびりになり泣いてしまったかわいそうな妹。嬉しい時も悲しい時も一番に私に甘えてくる妹。
優しく頭を撫でるだけで泣き顔を晴らしてしまう妹が、その全てがどうしようもなく愛おしかった。思いの強さでなら宇宙全ての生命体と競い合っても勝つ自信があった。なのにどの瞬間に妹を好きになったのか、いくら頑張っても思い出せなかった。小学生の私は、その歪さが不思議だった。
そこで先生や両親に聞いてみることにした。けれど「あらあら。聖(ひじり)ちゃんは藍(あい)ちゃんのことが大好きなのね」と微笑まれるだけで、望んだ答えが返ることは一度もなかった。私だって自分の気持ちくらい分かっている。そんな分かり切ったことを聞いているわけじゃないのだ。
結局、いくら考えても聞いても分からないままだった。もやもやするのは嫌で、幼い私は分からないなりに理屈をつけることにした。「きっと生まれた瞬間から藍のことが好きだったのだ」と。
自分が生まれた時に影も形もない、三歳も年下の妹を好きになりようがない。けれど理屈を超えた何かが私と藍の間には流れている。特別な運命を信じたかったのだ。あの頃の私は藍のことが大好きで、文字通りずっと一緒にいたいと願っていたし、一緒にいるのだと確信していたから。
けれど幼い理想が現実になるわけもなく、中学二年生になった藍はすっかり反抗期に入っていた。
「うわ。邪魔。どいてよ」
「ちょっと。うわって何? 私、藍のお姉ちゃんなんですけど?」
ぎりぎり肩にかかるくらいの髪が揺れる。妹なだけあって姉(ルビ:わたし)に似た少し癖のある髪質だ。目元でも長いまつげが瞬きするたびにふわふわしていて、妖精さんみたいに可愛い。
でも私を見上げる表情はどこまでも冷徹で、虫を見るような目が悲しい。
何か悪いことをしたわけじゃない。初夏の日差しの中を汗かきながら帰ってきて、お茶でも飲もうかとリビングに向かった。そこで鉢合わせただけでこの態度である。
「あのね、お姉ちゃんって呼びたくなるような要素があんたのどこにあるわけ?」
「頭からつま先まで全部」
「妄想もここまでくると哀れだね……」
藍はいつも通りだ。何を言ってもこの子がお姉ちゃんと呼んでくれることは、もうない。何かきっかけがあったわけではなく、気付けば悪魔になっていた。私が藍を好きになった瞬間を覚えていないのと同じように、藍も知らないうちにお姉ちゃんを嫌いになってしまったのだ。
悲しいか悲しくないかで言えば、悲しいに決まっている。でもきっかけも分からず好きになった人ならば、記憶に縛られない分嫌いになるのも簡単なのかもしれない。私だって最近の藍にはかつてほどの好意を抱いていない。『しおりちゃん』の方がよほど可愛い妹で、愛すべき存在だと思っている。
「ま、私にはしおりちゃんがいるから別にいいんだけどね」
「しおり?」
学校帰りに寄ったアニメグッズ専門店の袋から、それを取り出す。大好きな妹キャラのしおりちゃんが描かれたコップだ。裏表のない可愛い笑顔で私に微笑んでくれている。にやけてしまいそうだ。
「うわ、なにそれ」
「しおりちゃんだよ。私が愛してる妹キャラの」
「相変わらずこのオタクは……」
「オタクじゃないし。姉として当然だよ。可愛い妹を愛でたくなるのは」
オタクとか、そういう次元ではないのだ。私にとって、妹を愛でるのはもはや本能のようなもの。でも藍が反抗期に入ってしまったから、荒ぶる妹愛をどこに向ければいいのか分からなくなってしまった。
そんな時、しおりちゃんがヒロインの漫画『お姉ちゃんが大好きな妹ですけど、何か文句ありますか』と偶然本屋で出会ったのだ。あれはまさしく運命だった。
しおりちゃんは私の天使。宇宙の真理で間違いない。だというのに藍は私たちの邂逅を頑なに否定するのだ。
「それをオタクだって言ってるの。現実に存在しないキャラを溺愛するとかあり得ない。そんなだからあんたは友達少ないんじゃないの。学校でもどうせぼっちなんでしょ」
「友達は普通にいるし!」
「とにかくその変なコップ私の前では使わないでよね。キモいから」
「変じゃないしキモくもないよ!」
本当に可愛くない妹だ。大きなくりくりの目とか真っ白な肌とか、幼さを残す丸っぽい輪郭とか。可愛かったころの面影を外見にだけは宿しているから、なおさらたちが悪い。
いつも通り藍と口論していると、お母さんがキッチンからやって来た。
「でもまぁ聖はしっかりしているわよね。先生も成績優秀だって褒めてくれてたし」
キッチンから持ってきた私たちのコップに、テーブルの上でお茶を注いでいく。「飲みなさい。水分補給は大事よ」とお母さんに言われて渋々手に取った藍は、やっぱり顔をしかめていた。
「こいつのどこがしっかりしてるの」
「頭からつま先までだよ」
私が答えると深いため息が聞こえてきた。
「……馬鹿の一つ覚えに」
「あ、今馬鹿って言った! お姉ちゃんのこと馬鹿って!」
藍は「事実でしょ」とでも言いたげに、ぷいとよそを向いている。
「お母さんも知ってるでしょ。こいつが妹もののキモい漫画キモいにやけ顔で読んでること。それでもまだしっかり者だとか言うの? どうみても変質者にしかみえないんだけど?」
「ま、まぁ一つくらいそういうところがあってもいいじゃない? ね? お姉ちゃん」
助け船に偽装された攻撃が私を襲う。なんでそんな引きつった笑顔で言うの。お母さんだって叔母さんのこと好きでしょ。電話でよく楽しそうに話してるくせに。
「うわー。お母さんにまでドン引きされてるじゃん」
うちの妹がニヤニヤしていてうざい。
「でも藍も読んでる!」
「サイコホラーを楽しむような気分でね」
なぜサイコホラーになるのか。『お姉ちゃんが大好きな妹ですけど、何か文句ありますか』は普通のラブコメだ。人は死なないし外宇宙の脅威にさらされることもない。仲良し姉妹がイチャイチャする話だ。
「だっていかにもオタクの妄想を詰め込んだって感じでキモすぎるんだよね。読んでる間ずーっと鳥肌立ちっぱなしだし。妹がおはようのちゅーって何なの。恋人?」
呆れ果てたみたいな笑顔で藍はため息をついた。妹大好きな姉として聞き捨てならない。あれはオタクの妄想ではなく、全姉の理想なのだ。お姉ちゃんはみんな妹が大好きで、妹が一番可愛いのだ!
「違うよ。姉妹は恋人よりもずっと強い結びつきなんだよ。だからちゅーをするのも当然なんだよ」
「早口すぎて何言ってるのか分からないんですけど。あと顔近すぎ」
ぐいっと肩を押される。妹への熱が溢れ出して、つい前のめりになっていた。
「あーあ。もっとまともな姉が良かったなぁ」
生意気に笑ってごくごくとお茶を飲んでいく。藍は私のことがどうしようもなく嫌いみたいだ。でもここまで妹が好きなお姉ちゃんは珍しい。私としてはお姉ちゃんにはみんな妹が好きでいて欲しいけど、世の中には妹を嫌う姉だってたくさんいる。悲しいことに。
「まともだよ。この間もデザートのプリン譲ってあげたし、小学生の頃なんて毎日一緒にお風呂入ってた。夜は『おねえちゃんいっしょにねよ!』って藍の方から甘えてくれてた!」
「それがどうしたの。昔のことは関係ないでしょ」
藍は二次元妹みたいに顔を赤らめることもせず、ただただ鋭く睨みつけてきた。
「大体今のあんたは四六時中二次元妹のことばかりで、漫画読んでるときはキモいにやけ顔だし、変なコップ買ってくるし。何一つとしてまともじゃない。二次元妹にデレデレして、ホントあり得ない」
「可愛い妹を愛でるのはお姉ちゃんの義務だよ」
「そればっかり!」
よほど気にくわないらしい。前のめりな姿勢で声を荒らげている。そんな藍に何か思うところがあったのか、黙って様子を伺っていたお母さんが口を挟んできた。
「なるほどなるほど」
「……何? 何がなるほどなわけ?」
不機嫌そうな目がお母さんに向けられた。
「いやね。やっぱり藍も昔と変わってないのねって思って」
「また子ども扱いするつもり? 私もう中二なんですけど? 大人なんですけど?」
少しでも体を大きくみせようとしたのか、藍は背筋を伸ばしていた。これで大人かぁ。大人ってよりかは、必死で巣穴を警備するミーアキャットの方が近い。お母さんも面白そうに藍をみつめていた。
「藍が怒ってる理由がとても可愛らしいと思ったのよ」
「意味不明。私今こいつと喧嘩してたんだけど」
「だって藍は、お姉ちゃんが他の妹にデレデレしているのが嫌なんでしょう? それって取られちゃったみたいで嫉妬してるってことよ。昔から大好きだもんねお姉ちゃんのこと」
「はぁ!?」
ナイス援護射撃だお母さん。確かに藍の発言を思い返してみれば、そういう風に取れなくはない。強張っていた口元が脱力して緩んでいく。意外と可愛いところあるじゃん。流石私の妹。
「藍はお姉ちゃんにツンデレなんだね」
満面の笑みで伝える。その瞬間、鬼みたいな顔になった。
「意味不明なこと言わないでっ! お母さんもお母さんだよ。都合のいい妄想はやめて。私はこんな奴嫌いだから。生理的に無理だから!」
「ちょっと」
「あんたのこと一ミリもお姉ちゃんだなんて思ってない!」
目には射殺すような苛立ちが籠っている。やっぱりお母さんの言葉は、藍の言う通り都合のいい妄想だとしか思えない。嫌いなふりをしている割には、罵倒があまりにも激しすぎる。
不服そうに目を細めている藍の肩を軽く押す。これ以上ヒートアップするのはまずい。
「ほら、宿題あるんでしょ。早く終わらせてきたら」
「……あーあ。あんたに肩触られたせいでやる気吸い取られちゃった」
ろうそくの炎が消えるみたいに、藍は脱力した。旅行先で歩くのに疲れた時もこんな感じだったなぁ。体の大きいお父さんやお母さんではなく、なぜか私に「おねえちゃんおんぶ!」と両手を伸ばしてせがんできたのだ。懐かしい。あの頃は藍の顔をみるだけでやる気が溢れたものだった。
おんぶすると藍はすぐに寝ちゃってたんだよね。可愛かったなぁ。
あれはたしかにやる気を吸い取っていた、と言えるのかもしれない。
「そんな特殊能力お姉ちゃんにはありません。もとからやる気ない癖に」
「そうやって勝手に人の意志決めつけるのやめてもらえません?」
ばちばちと火花を散らして睨み合う。まるで永遠に燃え盛る炎だ。本当に全てが昔と変わってしまった。けどお母さんは、なぜかこのやり取りが嫌いではないらしい。
「やっぱり二人って仲いいわよね」
「仲良くないから!」
妹と声が重なるのも、いつも通りだった。
その後にはまたちょっとした小競り合いが起こって、お互いに挑発しあって。度を越えそうになったらお母さんがなだめて。そして翌日になれば、私は学校で友達に妹のことを愚痴るのだろう。
そういうつまらない繰り返しが私の毎日だった。
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