【7】

 中村綾乃は総務課刑事企画第一係の部屋の隅に置かれた自分のデスクでパソコンの画面に向かっていた。――何か忘れている、何かピースが足りない――。漠然とした不安が彼女を突き動かす。中村綾乃は工藤玲奈轢死事故の記録データにポインタを重ねていた。

 データを開きPDF化された資料を閲覧してみると、どれも形式的文言での記載に終始しているように思われた。自分が付記したはずの意見は消されていた。桐山の話を思い出した。彼の推論に沿って資料を読んでみると、全てが自然に見えるのが不思議だった。

 退庁時刻を知らせるチャイムが鳴る。なぜか、ふと父の顔が頭に浮かんだ。帰宅しようか彼女が迷っていると、同僚の女性事務官が飲みに誘ってきた。流石にそんな気分にもなれず、やんわりと断った。その同僚は二人で飲みに行けば帰りのタクシー代が半分で済んだのにと冗談を言って去っていった。

 再びパソコンに向かった中村は、ハッとした様子で顔を上げた。慌てて机の上の固定電話から受話器を持ち上げ捜査一課の内線ボタンを押す。しばらく話してから電話を切った彼女は、廊下へと駆け出ていった。


 警視庁ビルの地下駐車場。黒いセダンの覆面パトカーの助手席で桐山浩一郎は発布された逮捕状を読み返していた。読み終えると、それを折り畳んで背広の内ポケットに仕舞いながら言う。

「とりあえずこれでサディスト殺人鬼の身柄を押さえることができる。あとは、奴の供述を待って本格的な帳場の立ち上げだ。数班が駆り出されるだろうから、大仕事になるぞ」

 運転席の橋本がシートベルトを掛けながら言った。

「しかし、相手も勘が冴えてますね。急に海外へ出張とは。こっちの動きに気付いたのでしょうか」

「犯罪者はそんなもんだ。血に飢えた猟犬のように嗅覚が鋭くなっている。それに、俺たちはここ数日で漆原や小野田の関係先に聞き込みに回ったんだ。何某かの連絡が健次郎に行っていても不思議じゃ……」

 助手席側のサイドガラスがノックされた。ガラスを下ろす桐山。そこに立っていたのは息を切らした中村だった。

「大事な事を……」

「なんだ。どうした」

「犯人は違う人かもしれません」

「ああ?」

「平山さんの探偵事務所に行ったと言いましたよね」

「ああ、行ったが……」

「車はあったのですか。もしくは自宅に」

 運転席から橋本刑事が答えた。

「事務所の駐車場に駐めてありました」

「桐山さんは平山さんの遺体がコートを着ていなかったから車で移動したのではないかと言っていましたよね」

「ああ。タクシーを使ったんだろ。調べれば出てくるさ。だが、今はそんな時間が……」

「漆原健太郎は伊豆の別荘まで自分の車で移動したのですよね」

「ああ。運転手がそう言っていたそうだ」

「小野田は赤城山まではどのように」

「自分の車で行ったはずだ。群馬県警の捜査資料にはそう記されていた」

「それ、自分で運転して行ったのですか」

「いや。運転手が登山口まで送迎したのだと思うが……」

 そう言って口を止めた桐山の後から橋本が言った。

「言ったでしょう。『撮りタイガー』は運転手付きだって……え?」

 ドアが閉まる音がした。中村が後部座席に乗り込んできたのだ。彼女は深刻そうな顔で前の席の二人に言う。

「その運転手。名前は確認したのですか」

「いや、いちいちそこまでは。それは詰めの捜査で証言を取ればいいから……」

「今すぐ確認をしてください! 工藤玲奈ちゃんの父親は、工藤彰さんはタクシーの運転手です。個人タクシーの」

 二人が慌ててスマートフォンを取り出す。それぞれが電話をかけて通話を始めた。中村綾乃は気を揉みながら二人の答えを待つ。スマートフォンを耳から離した橋本が言った。

「漆原健太郎の専属運転手の名前はクドウアキラだそうです。漆原が殺される一か月前に臨時採用された運転手で、事件後に雇用契約を解除したと。履歴書などは漆原には見せていないそうです」

 スマートフォンをポケットに戻しながら桐山も言う。

「こっちもだ。小野田の専属運転手はクドウアキラ。小野田が殺される約一か月前に採用されたらしい。小野田の会社の総務の女が採用を取り仕切っていて、小野田には軽い紹介しかしていないと言っていた!」

 後部座席から中村が言った。

「小野田さんの遺体は山頂付近の崖の下で発見されたのですよね。平山さんは埠頭。どちらも登山者や釣り人などに発見されやすい場所。漆原さんは彼に付き従う秘書たちに発見された。恥ずかしい格好で。もし工藤彰さんが犯人なのだとしたら、被害者を辱めたかったのではないでしょうか。凌辱され暴行され、その遺体を傷つけられた挙句に動画を公開された娘さんの無念を晴らすために」

 顔を見合わせる桐山と橋本。

 桐山が取り出した逮捕状を橋本が指した。

「じゃあ、それは……」

「くそっ! 使えねえじゃねえか!」

 桐山は逮捕状をくしゃくしゃに丸めてダッシュボードの上に放り投げた。

 後部座席から中村が大きな声で言う。

「そんな事より、健次郎さんは今どこに! 工藤さんが次に狙うとしたら、いや、彼の最終的な標的は健次郎さんですよね!」

 桐山は赤色灯の稼働ボタンに手を伸ばしながら怒鳴った。

「橋本、早く出せ! 奴は海外に高飛びするつもりだ。工藤はその前に奴を消すぞ!」

「あ、でも、中村さんは……」

 振り返った桐山に中村綾乃は強く言った。

「私も連れて行ってください!」

「バカヤロウ! 現場検証に行くんじゃねえんだ。殺人鬼の逮捕に向かうんだぞ。分かってんのか!」

「お願いします。同行させてください!」

「おまえは総務課だろうが! 降りろ!」

「降りません!」

「ええい、出しますよ! 中村さん、シートベルトをしておいてくださいね。飛ばしますから!」

 三人を乗せた黒いセダンは急発進すると、タイヤの音を鳴らして向きを変え、駐車場の通路を走っていく。その覆面パトカーは赤色灯と回してサイレンを鳴らしたまま駐車場のスロープを猛スピードで上がっていった。

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