【4】

 桐山と橋本は交互に事情を説明した。

「調査資料を見つけたんだ。運がよかった」

「パソコンはセキュリティロックが掛かっていて開けなかったのですがね、プリントアウトされていた資料が揃えて机の上に置いてあったんですよ」

「それらはある人物の調査に関するものだった。事務所保管用の控えをファイリングしている途中だったみたいだ。おそらく、別に印刷した同じ資料を郵送するために持ち出したか電子メールで送ったんだろうが、とにかく平山は急いで事務所を出たようだった」

 状況を想像しながら聞いていた中村は、湧き出た疑問を一気に放出させた。

「誰の調査をしていたのですか? 依頼主は? その場から平山さんが何者かに拉致された形跡は?」

 中村の顔の前に桐山が掌を立てる。

「まあ、待て。順を追って話すから」

 片笑んだ顔のまま手を下ろした桐山刑事は、眉を垂らして橋本の顔を見た。橋本も片笑んで応えると、真顔に戻して中村に言った。

「現場を見たかぎりでは、事務所内を荒らされた形跡も無かったですし、誰かが揉み合った痕跡もありませんでした。管理人もそのような物音は聞いていません。一方でその管理人は急いで出ていく平山を見ています。拉致の線は無いですね」

 桐山が中村の目を見たまま続ける。

「それで、その資料と平山のスマホの履歴から依頼主が判明した。現職衆議院議員だった漆原健太郎だ。元国家公安委員。おまえ、親父さんが警察庁のキャリア組なんだって? じゃあ、よく知ってるだろ」

 中村綾乃は視線を逸らした。

「特に父とは交流が無いので……」

「なんだ? いい歳して反抗期か? 寂しいねえ」

 からかうように桐山がそう言うと、橋本が顔を前に出して中村に謝罪した。

「すみませんね。この人、エリートとか権力者とかに不必要に咬みつく癖がありまして。この人の方こそ万年反抗期ですから。今のは気にしないでくださいね」

「うるせえな。この歳まで出世できねえと、胆が据わるんだよ! おまえも俺と一蓮托生だろうが。うだうだ言ってんじゃねえよ」

「いや、僕はフォローしたんでしょ。なんで怒られないと……」

 言い合っている二人を余所に頭の中で話を整理していた中村綾乃は、会話の隙間にボソリと口を挿んだ。

「漆原先生は何を依頼していたのですか? それから……」

 橋本への罵声を止めた桐山刑事は、中村に顔を向けて目を見据える。

 中村綾乃はその視線を受け止めたまま、ゆっくりと冷静に尋ねた。

「さっき、衆議院議員と。なぜ不自然に過去形で。まさか……」

 桐山刑事は中村の目を睨んだまま首を一度だけ縦に深く振った。

「そうだ。漆原は約一か月前に死んでいた。という事は、平山を呼び出したのは、あるいは平山が会いに行こうとしたのは漆原健太郎ではない。当然、資料の送り先も」

「……」

 中村が再び視線を外して思案していると、橋本刑事がまた補足を述べた。

「さっき言った控えの資料の日付がずいぶん前のものだったんです。つまり、過去の資料をあらためて印刷したようです。同じ物を相手、おそらく犯人に渡した可能性があります」

「漆原の事務所にも行って確認したんだが、秘書たちの説明だと、事務所では職員全員が一丸となって漆原健太郎の死を外部に隠していたそうだ。もちろん、死亡届や国会と政党などへの各種手続きは済ませているが、マスコミには完全に伏せられているらしい。俺たちも口外しないよう強く念を押されたよ。どうも、次の候補者の件でいろいろと問題があるとかで、補欠選挙に誰を立てるか政党でも決めかねているという話だ」

 肩を上げた桐山に中村が質すように問う。

「だから、こんな形で内密の捜査を」

 桐山は手を顔の前で一振りした。

「まあ、死んだとは言え、警察機構にかなり幅を利かせていた国会議員だ。そのポスト引継ぎの調整で政治がゴタゴタしている時に、現場の刑事が掻き回す訳にはいかねえだろ」

 同意を求めるように中村の顔を覗き込んだ桐山を指して橋本刑事が言う。

「こういう忖度は出来る人なんですよ」

「うるせえって言ってんだろ! いちいちチョロチョロと横槍を入れやがって」

「だから、フォローしただけですよね」

 また始まった二人の言い合いを中村綾乃が遮った。

「待ってください。じゃあ、漆原先生の死も他殺なのですか?」

 壁際に立つ橋本の方に体を向けていた桐山刑事は、そのまま机に肘を載せて中村に顔を近づけた。そして少し小声で彼女に言った。

「いや、正確にはそう断定はされていない。少なくとも書類上は疲労の蓄積と老衰による急性心不全。そういう医師の診断書が提出されている」

「でも、疑わしい点があると」

「そうだ。その日、漆原は運転手に箱根の別荘に向かうよう指示したそうだ。到着したのは夜中。連絡したら迎えに来いという指示だったらしい」

「その連絡が無かったのですね」

「ああ。次の日の昼過ぎになっても連絡が無いので運転手と秘書が別荘に向かうと、漆原がベッドの上で死んでいたそうだ」

 一度首を傾げた中村綾乃は、眉を寄せて目の前の刑事に確認した。

「警察に通報は。その場で現場検証はされなかったのですか」

 桐山が中村の強い視線から顔を逸らすように再び橋本の方を見ると、橋本刑事は仕方なさそうに事情を説明した。

「秘書さんがその場の状況を見て、いろいろと手を回したようですね。ようですが、救急車で都内の病院まで運び、そこで、その日の夕刻に死亡が、という事だそうです」

 小さく鼻で笑った桐山浩一郎が言う。

「おそらく、よほど恥ずかしい格好で死んでいたんだろうな。これまで漆原の権力の矛先の一つだった警察から人を呼ぶにふさわしくないような恰好で」

 そう言った桐山は少し笑いを堪えているように見えた。話の趣旨を察しかねた中村は橋本の方を向く。橋本も口に手を当てて笑いを堪えながら下を向いていた。

 少し考えた中村綾乃は、ハッとした顔をして二人に尋ねた。

「もしかして、彼には嗜虐性癖でもあったのですか?」

 それを聞いて一瞬だけ止まった二人は、同時に噴き出した。中村はなぜ二人が笑うのか分からず、困惑顔で二人を見ている。

 指先で目尻の涙を拭いながら桐山が言う。

「キャリアの娘さんは上品だねえ。はっきりとSMの趣味があったかと言えばいいだろうに。って……」

 また肩を揺らして笑った桐山は、一通り笑ってから呼吸を整えると、無理に真顔を作りながら話を続けた。

「まあ、その秘書は知らなかったと言っていた。念のためサッチョウ(警察庁)の知り合いにも尋ねてみたが、そっちでもそういった噂は聞いたことが無いそうだ」

 桐山刑事はズボンのポケットからハンカチを取り出すと、それで涙を拭きながら懸命に笑いを堪えていた。

 少し不機嫌そうに、中村が真顔で尋ねる。

「その件で、桐山さんが他殺を疑ったのは何故なのですか」

 桐山浩一郎は刑事の顔に戻して彼女の質問に答えた。

「その秘書がようやく話した内容によれば、漆原の遺体の首には革製の鞭が巻き付けられていたそうだ。まあ、遺体は秘密裏に火葬されちまったようだから、もう検視のしようもねえが、たぶん絞殺だろう。秘書の話では、発見時の漆原の体はいたる所が傷だらけだったらしい。お決まりの恰好で大の字に縛られた状態だったらしく、それを見て、その秘書は、その無数の傷がSMプレイによる傷だと思い込んだようだ。気が動転して、とにかく隠蔽しなければと動いてしまったらしい」

 中村は桐山の目をじっと見据えたまま指摘した。

「ですが、本当にそうなのかも……」

 桐山刑事は真剣な顔で首を横に振った。

「いや。もしそうなら、その相手は何処に消えた。それに、漆原は現職国会議員として、その発見当日以降も予定が埋まっていたそうなんだ。仮に漆原にそういう隠れた特殊性癖があったとしても、漆原は八十過ぎの老人だぞ。翌日以降も重要な予定で埋まっているというのに、体中を傷だらけにする遊びを実行するとは思えん。それに、過去にそんな趣味を疑わせる行動も無く、冷静に考えてみれば不自然だったと、今になって秘書たち全員が口を揃えて言っている始末だ。そして何より決定的なのは……」

 桐山刑事は中村の目の奥を睨むようにして覗いたまま続けた。

「秘書の話では、発見された時の漆原は顔面がかなり腫れあがっていたらしい」

 中村は鑑識時代に学んだ知識を思い出しながら必死に思考した。そして、桐山に言う。

「絞首による鬱血が引き起こした浮腫なのでは」

 桐山刑事はニヤリと片笑んで頷いた。

「ああ。確かにそれも考え得るが、殴打による打撲創かもしれん。とはいえ、まあ、素人の秘書には見分けがつくはずはねえよな」

 そう言った今度の桐山は笑っていなかった。彼は声を低めて言う。

「だが、もしそれが打撲創だとすると、漆原健太郎の遺体の状況は平山の遺体の状況と酷似していると言える」

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