【3】
取調室の中の空気は湿っていた。過去と現在がドロドロに入り交じり淀んでいる。
中村綾乃はその淀みを振り払うように、桐山をまっすぐに見て尋ねた。
「それで、私に何を訊きたいのですか」
「まあ、そう慌てるな。殺された……俺はそう睨んでいるのだが、発見されたその水死体の身元はすぐに分かった。着衣のままだったし、ポケットには財布とスマホ、それに名刺入れも入っていたからな。探偵だ。名前は平山明弘。橋本、写真を出せ」
壁際に立つ橋本巡査に手を差し出している桐山の前で、中村綾乃は固まっていた。
中村に顔を向けた桐山は、橋本巡査から受け取った写真を彼女の前に放り置いた。咄嗟に中村が顔を横に向ける。桐山浩一郎は片笑みながら机の上の写真を指差した。
「大丈夫。生きている時の写真だ」
中村は恐る恐る写真に顔を向けた。それは警察の制服を着た男の胸から上を写したものだった。彼女の予想通り、その男は彼女の知る人物だった。
「平山明弘。元は平山明弘警部だ。鑑識時代におまえの上司だった男だよな。二年前に警察を辞めて探偵に転職している。と言っても実態はよく分からんが……」
鼻から強く息を吐き捨てた桐山は椅子の背凭れに背中を押し付けるようにして凭れた。
写真から顔を上げた中村は桐山と橋本の顔を交互に見て尋ねる。
「本当に……亡くなったのは本当に平山さんなのですか?」
桐山と橋本は一度顔を見合わせたが、桐山が疲れたように手を振ると、橋本誠也巡査が説明した。
「はい。遺体の歯型で平山さんの遺体だと特定できました。そこは間違いありません。遺体の所持品の財布にも彼名義の運転免許証が入っていましたし、着ていた背広に入っていたスマホも平山さんの物でした」
背もたれに片肘を掛けてふんぞり返ったまま、桐山浩一郎刑事は言った。
「ま、そいつが誰かに殺されたのだとして、元警察官で今はヨゴレの探偵稼業、誰かから恨みを買っていたとしても不思議はねえな」
橋本巡査が取り出した手帳を開いて覗きながら言う。
「一応、警察官時代の経歴を調べてみました。交番勤務後は所轄の交通課勤務。その後、本庁刑事部に異動となり、鑑識課に所属。一年後、警察大学校に異動となり修学後、検視官となって戻ってきた。そして、二年前、自己都合退職となり都内で探偵業を開始。ちなみに、昨年離婚して、その後は一人で暮らしていたようです」
「鑑識時代には主に交通事故死関係を担当していたんだな」
そう尋ねた桐山に中村は頷いて答えた。
「はい。交通事故関係は平山さんの専門分野でしたから……」
「例の交通事故も本来は彼の担当だった。そうだな」
中村は眉を寄せた。
橋本巡査が手帳の頁をめくってから言う。
「被害者は工藤玲奈ちゃん、十歳。現場から車道に出ようとした重機運搬用トラックに、そこで一人で遊んでいた玲奈ちゃんが轢かれて亡くなった。運転手の男は業務上過失致死の疑いで逮捕。送検後に起訴され、同罪で有罪判決となり、罰金刑を言い渡された」
桐山は腕組みをして深く溜め息を吐いた。
「警官としては何ともやるせない事件だな」
そして視線だけを中村に向けて続けた。
「その事件で鑑識を担当したのが、当時鑑識課に配属されたばかりのおまえさんだ」
中村綾乃は少し俯いたまま返事をする。
「はい。平山さんの指導の下での初仕事でした。あの頃も分からない事だらけで……」
桐山浩一郎は腕を解いた。
「そんな事はどうでもいいんだ。俺たちが問題視しているのは、平山が殺された理由だ。犯人の動機。どうも、そいつが見えねえ。だから、奴の経歴上で何らかの怨恨に発展しそうな出来事は全て洗おうと思ったんだよ」
中村は眉を強く寄せた顔を上げ、桐山に向けた。彼女には桐山の言っていることの趣旨が理解できなかった。
中村の眉を呼んだ橋本刑事が口を挿んだ。
「平山さんが退職された事情はご存じですか?」
橋本に顔を向けた中村は、その顔を左右に振る。
「いいえ。退官されていたことも今初めて知りました。何か特別な事情が?」
桐山刑事が中村を指した。
「それが知りたくて、おまえを呼んだんだ。だが、無駄足させたようだな。悪かった」
そう言って椅子から腰をあげた桐山を中村綾乃は呼び止めた。
「ちょっと待ってください。事情が呑み込めません。どうしてそんなに怨恨の線にこだわるのですか。遺体に何か特に怨恨をうかがわせる不審な点でもあったというのですか?」
桐山刑事は中村の目を見たまま静かに腰を椅子に戻した。そして、片笑んで言う。
「いやな。平山の遺体はスーツ姿だったんだ。こう寒くなってきたというのに、コートを着ていなかった。平山が発見現場の埠頭で入水したのか、どこか別の場所で入水して、その埠頭まで流れ着いたのか、まだ分からんが、平山が水辺までコートを着用せずに移動したとは思えん。おそらく、車を使って入水場所近くまで移動したはずだ」
橋本刑事が付け加える。
「もしくは、どこからか運ばれて、水中に遺棄されたか」
一瞬だけ考えた中村綾乃は、また桐山と橋本の顔を交互に見ながら尋ねた。
「遺棄? ということは、やはり平山さんの死因は溺死ではない、そういう事ですか?」
桐山刑事が険しい顔で答える。
「残っていた頬の一部に内出血の痕らしきものを山根検視官は見つけている。それと奥歯の詰め物の剥離、さらに前歯の傾きも。平山は死亡直前に何者かによって相当な暴行を受けた可能性がある、というのが山根検視官の見立てだ。だから彼は平山の遺体を司法解剖に回したんだよ」
中村綾乃は驚いていた。予想と違ったからだ。結局は山根検視官もこの桐山刑事と同じ心象を抱いていたのだ。ただ、中村には、平山が何者かに殺害されたとしても、その動機を怨恨に絞る理由がどうしても分からなかった。
より強く眉を寄せる中村を見て、橋本刑事が補足する。
「一応、物取りの線も無しということです。お分かりでしょうけど」
そう言われてもキョトンとした顔をしている中村に、一度短く溜め息を吐いてから桐山刑事が説明する。
「あのな。財布もスマホも遺体の服の中に残っていたと言ったろ。おまけに、顔面を複数回殴打されている。歯がグラついたり奥歯の詰め物が外れたりするくらい激しくな。鼻が魚に食われていたのも、その前にかなり潰れていたからだろう。おそらく片目も。平山の顔は水に入る前にボコボコだったって事だ」
中村は食らい付くように必死な顔で質問を続けた。
「流しの物取りとかに襲われた可能性は? 平山さんが抵抗したから犯人が殴ったとか」
桐山刑事は口を縛ったままの顔を左右に振る。そして言った。
「あれが平山の抵抗を抑えるための暴力だとしたら、やり過ぎだ。それに、奴も元警官だぞ。何らかの状況で自分が襲われて相手に抵抗したのだとしても、一二発やられたら危険だと分かって無駄な抵抗はしないと思う。たぶん、あれは平山の抵抗を抑えるための暴力じゃない」
橋本刑事が再び補足する。
「それほど、彼を恨んでいた人間の犯行だということですよ」
「もしくは、平山がホシをそれほど強く怒らせたか。そこでなのだが、俺は強行犯一筋でやってきたから交通事故専門だった平山とは交流がなくて、どんな奴だったかあまり知らん。どうなんだ、平山って奴はたびたび他人をキレさせたり、よく他人から憎まれたりするタイプだったのか?」
中村綾乃は首を傾げた。
「さあ。特にそういう印象はありませんが……。どちらかというと、物静かなタイプの方だったと思います。私もすぐに総務課に異動になりましたので、平山さんとはそれ以降、廊下ですれ違う程度でしたし。なので、よくは分かりません」
それを聞いた桐山は再び腕を組み、橋本は壁に凭れて天井を仰いだ。二人の妙な緊張感を感じ取った中村綾乃は、思い切って桐山に尋ねてみた。
「あの……さっき連続殺人だとおっしゃいましたよね。他にも類似する他殺案件があるのですか?」
桐山は腕組をしたまま深く頷いた。
「平山の車の所在を確認しようと思って、奴の探偵事務所を尋ねてみたんだ。まあ、脱サラして開業二年目にしては、えらく立派な事務所だったが、ビルの管理人に事情を話して鍵を開けてもらえた。そしたら……」
中村綾乃は息を呑んで話の続きを待った。
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