【2】
刑事部捜査一課強行犯係の桐山浩一郎刑事と橋本誠也刑事が同じ刑事部の総務課の部屋に中村綾乃巡査を訪ねて来たのは今日の昼過ぎのことだった。
中村綾乃はいつものように捜査資料の副本の部数とそれぞれの資料に貼られた付箋の配布先名を配布リストと照らし合わせていた。
彼女が刑事部総務課に異動になってもうすぐ五年が経とうとしていた。警察学校を卒業し、実質的には実務研修期間である交番勤務を終えた後は、本庁の刑事部鑑識課への配属となった。当時は意外な配置に自分が一番驚いていたが、我が子を危険な現場に置きたくはないという、警察官僚である父親の意向が働いたことを知ると、飼い殺されるもやむなしと思うしかなかった。
理系出身でもない彼女にとって慣れない職場での仕事は全てが一からの勉強だった。それでも、彼女が寝る間も惜しんで知識の記憶に務め、技術の習得に励んだのは、女は早く結婚して家庭に入ればいいという父親への強い反発だったことは言うまでもない。適齢期を過ぎようとしている今も独身でいる自分を悔やみながらも、彼女は当時の自分の努力を今でも誇っている。その一方で、いわゆる「黒歴史」だとも思っていた。仕事に慣れてきた頃に、それまで全ての時間を注ぎ込んできた勉学や練習が徒労に帰す人事が発表され、この総務課に異動となったからだ。この頃から彼女は父親と連絡を取らなくなった。
刑事部総務課は部内の庶務・会計・部内の総合調整・実務指導・講習事務などを担当する部署である。現場捜査を担当する捜査各課には捜査本部の設置・連絡調整や捜査資料の収集整理をする部署があるが、それらを横断的に相互調整するのが捜査体制における総務課の仕事である。捜査の進行を外野から陰で支える真の「縁の下の力持ち」と言えば聞こえはいいが、実際には、ここでの中村のような若手女性警察官は捜査各課の事務部門に応援として追加されることを想定した控え要員だった。内部では派遣社員と呼ばれることもある。そんな椅子に座らされて、もうすぐ五年。中村綾乃は今日も指定された捜査資料を会議室の名札の上に置いて回っていた。昼食も終わって少し眠気が襲ってくる時間帯だけに体がだるい。中村綾乃は面倒くさそうに資料の束を数えていた。
一通りの作業を終えた彼女が腕時計を見ながら廊下に出ると、向こうから歩いてきた二人の背広姿の男たちに声を掛けられた。若い頃は体格もよかったであろう、背を少し曲げた痩せた中年男と、今まさに体躯の絶頂期と言わんばかりの筋肉の張りをスーツの内側から浮き立たせている若い男である。桐山浩一郎巡査部長と橋本誠也巡査だった。二人に言われて、中村綾乃巡査はエレベーターに乗った。
彼女が連れて来られたのは、上階の捜査一課のフロアだった。廊下を行き交う刑事たちの顔つきは鋭く、殺気立っているようにも感じられる。そういった顔は見慣れているし、ここも普段から何度も足を運ぶフロアであるが、こうして刑事二人に両脇を固められて歩くと、まるで自分が被疑者にでもなったかのような心境になり、見知った刑事の顔も攻撃的に見えてしまう。実際、彼女が通されたのは取調室の中だった。一瞬躊躇した彼女に中に入るよう笑顔で促した橋本巡査は、中村と桐山が入ると自分も入り、ドアを閉めた。現行規則では任意の取調中はドアを開放しておくことになっている。つまり、これは正規の取調べではない。普段見る刑事たちの疑り深い目つきとは違う鋭さを感じさせる桐山の目を見て、中村綾乃はそう思っていた。橋本の顔にも深刻さが滲み出ている。
椅子に腰を降ろすと、向かいに座った桐山浩一郎が口を開いた。
「こんな部屋ですまんな。気を悪くしないでくれ。ちょっと他には聞かれたくない話なんでな」
困惑顔を浮かべながら中村綾乃は尋ねた。
「どういう事ですか」
桐山は橋本と一瞬だけ視線を合わせてから、ゆっくりとした口調で語り始めた。
「俺たちはある連続殺人犯を追っている。だが、まだ正式に捜査の線には乗っていない案件だ。内密に事を進めたい」
中村は眉を寄せた。
桐山刑事は中村巡査の表情を窺いながら話を続ける。
「先週、都内の埠頭で水死体が発見された。遺体は死後数日が経過。臨場した所轄の捜査官は遺体の腐乱状態から検視判断を保留し、こっちに検視官の臨場を要請した。そして、俺とこの橋本がその検視官に同行することになった。所轄の刑事たちや、出向いた検視官の初見は事故死というものだった。だが、俺はその場で、これは他殺だと思った」
中村は反射的に尋ねた。
「検視官はどなたですか」
「山根警部だ。おまえも前は鑑識に座っていたなら知っているだろう。ベテランだよ」
「ええ。存じ上げています。で、山根さんの結論は」
壁際に立っていた橋本巡査が答えた。
「司法解剖の必要あり。今、手続きを進めています」
桐山が話を続ける。
「つまり、クロだ。これ自体は殺人案件としていずれ帳場が立つだろう」
司法解剖と呼ばれる解剖は「犯罪の捜査をするについて必要があるとき」に警察または検察から外部の医療機関に嘱託される。(刑事訴訟法第二二三条)
検視権限を与えられた山根検視官がそう判断したということは、遺体に何らかの不自然な点を発見し、他殺の可能性を完全に否定できなかったからかもしれない。だが、かつて鑑識部門にいた中村にはもう一つの事情も推察されていた。きっと、この桐山刑事が強く他殺説を主張したからに違いない。警察も人で構成される組織である。職場の人間同士、互いの立場や面子に心を回すことも少なくない。中村綾乃はそのような場面を何度も見てきた。だから、周囲に咬みついてでも自己の主張を通そうとする頑固な警察官には特に注意が必要だという事も知っていた。中村の目には桐山という男がそういう刑事だと映っていたので、かつての職場で尊敬する大先輩だった山根検視官が結果の提出を保留して外部に解剖を依頼するに至ったのは、そのような事情があったからに違いないと思っていた。
桐山刑事は中村の目をじっと見ながら言った。
「その仏さんの顔がよ、相当苦しんだような顔に見えたんだよ。まあ、鼻も目も魚に食われて、ほとんど無くなっていたが、なんか、直感的に俺にはそう見えたんだ」
中村綾乃は何かゾクリとするものを感じていた。彼女にも同じ経験があったからだ。
鑑識に配属されたばかりの頃、最初に見せられた本物の遺体は幼い少女のものだった。大型トラックに轢かれたというその少女の体は、顔面も胴体も両腕も上手く形容できないほどに破壊されていた。タイヤ痕を刻んだ肉塊に両腿の中程から先が付いている状態だった。安置所で、遺体に被せられていた白布をはぐった中村がすぐに顔を逸らし、程無くして近くの洗面台に駆け寄って嘔吐したことは言うまでもない。その時、水道の水で口を漱ぎながら、彼女はその遺体の顔の部分あたりに違和感を覚えたのを思い出していた。それは彼女が、その遺体のかろうじて顔だと分かる、潰れて伸びた顔面の目じりの辺りに涙の痕らしき変色した筋を見つけていたからだった。その時の中村には、その遺体から苦しみを訴える断末魔のような声が聞こえたような気がした。轢殺の苦痛とは違う声。この少女は死ぬ直前に何か相当な苦痛を与えられたのではないか。中村綾乃はそう思っていた。
あの時の中村が得た感覚と今目の前の桐山が語る彼が得たという感覚はよく似たようなものだった。
中村綾乃は桐山の目を見据えたまま、静かに頷いた。
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