第3話
バードはいつものようにコーヒーを片手に、フレアコアが良く見える窓際に立っていた。それなのにどこか違和感を感じるのは、いつも必ず机の上に置いてあるはずのビタミンD補給用の薬がないせいか。それとも制御用のPCモニターが不可解な点滅を繰り返しているせいか。
僕はバードの隣に立ってフレアコアを眺めた。もう見飽きた。ただ眩しいだけで、何も感じなかった。
「今日はビタミン剤飲まないんですか」
「ああ。家に忘れてきてしまった。───ふと思ったんだが、何故私たちはあの薬を生涯飲み続けなければならないのか」
「さあ。考えたこともないですね」
「もし太陽が関係しているのなら、今日、私がビタミン剤を忘れてしまったのは何かの運命かもしれない」バードはコーヒーをズズっと啜ってから、目を細めた。思ったより苦かったのだろうか。
「突然だがスピナー君。私は今日ここを出ようと思っている」そう言ってからのバードの行動は早かった。コーヒーを一気に飲み干してから、「今のうちに原子核衝突装置の両方のタンクを手動で満杯にしておいてくれ」と言って制御室を出て行った。
僕は何が起こっているのか状況が全く見えないでいた。ここを出るというのは文字通りの意味であるなら、この建物から出るということになる。しかしバードの顔は、そのような冗談を言っているようには見えなかった。だとすると、この世界から出るということになる。言い換えれば「地上に上がろう」という捉え方ができる。そのような考えがゆっくりと頭の中を一周した直後、何か得体の知れない熱いものが、じわじわとこみ上がってくるのを感じた。
僕は制御装置のマウスを動かしてバードの指示通り、原子核衝突装置のタンクを満杯にした。後ろに振り替えるといつの間にかバードが、いつもの黒い椅子に腰掛けていた。
「準備はいいかい」
「はい」
僕はローカーにしまっておいたカサを手に持って、制御室を後にした。バードは非常階段から下の階に向かうようだった。疑問に思うことは山ほどある。何故有人トラックでないといけないのか。何故エレベーターを使わないのか。どのようにしてトラックに乗り込むのか。だが今更考えたところで、無駄なことだ。僕に残された道は地上に這い上がるか、この暗い世界で死ぬかの二つに一つだけ。地上に導かれる上で、些細な疑問を解決することが重要なことだとは到底思えなかった。
僕は紺色のシャツを羽織ったバードの背中を、追いかけることだけに集中することにした。
階段を下りて、見知らぬ廊下を歩いた先には、倉庫のような場所があった。その倉庫はやけに埃っぽくて寂れているという印象を受けた。床には油をぶちまけたような黒いシミが残っているし、目の前にあるシャッターは錆が酷かった。一応操作用のスイッチらしき物が壁に備え付けてあるが、本当に動くのかどうか怪しい香りが漂っていた。
バードは何の躊躇いもなく、シャッターの開閉用の赤いボタンを押した。シャッターは金切り声のような音を出しながら、ゆっくりと上がってゆく。
「こんな場所があったんですね」バードは静かに頷くだけで、何も言わなかった。
シャッターが全開になると、トラックの運転手らしき男が現れた。男は白髪混じりの髭を生やした中年で、まん丸とした瞳でバードの方を凝視していた。
「あのーすいません。物資を運んで来たんですけど」
「あーわざわざこんな遠い所までありがとう」バードはそう言いながら、握手でも求めるかのように男に近づいていった。緊張でこわばっていた男の表情が少し緩んだかに見えたその刹那、男は激しく痙攣しながらバードの体に寄りかかるように倒れ込んでしまった。バードはそのまま男の脇に手を掛けて、倉庫の中まで引きずった。「すまない」と一言添えてから男を床に寝かせ、胸ポケットからICカードのような物を取り出し、ズボンのポケットの中に入れた。
「心配するな。彼は死んでいない。強い電気ショックで気絶しているだけで、その内目が覚めるさ。まあその後は───」何かを言いかけたようだが、バードは苦い顔だけを浮かべた。
「大丈夫です。これぐらいのことなら想定の範囲内の出来事です」
「ではシャッターを閉めて、トラックに乗ろう」バードはそう言ってトラックの方へ歩き出した。
僕は黒いボタンを押してから倉庫を出た。後ろから聞こえてくる金切り声が、この町を代表しての別れの挨拶のように感じた。
「スピナー君悪いが、君は後ろの荷台で隠れていてくれないか。このカードがあれば検問所は問題ないとは思うが、一応念のためだ」僕は小さく頷いて、薄暗い荷台の中へ乗り込んだ。
「暗闇の中で成功を祈っていてくれ」そう言ってバードは荷台の扉を閉めた。
荷台の中は文字通りの真っ暗になった。一寸先が見えないとはこういう状況を指すのだろう。僕は太腿辺りまで積み上げられたダンボールの一番奥で、身を潜めていた。
少しして荷台全体が激しく振動し始めた。トラックの加速に呼応するように体が進行方向に揺れて、段差を下りた感覚が全身に伝わった。何も情報与えられないというのは、恐怖を伴う反面ある意味気が楽だった。分かるのは心地よいエンジンの振動と、時頼伝わる道路の凹みだったり、カーブの遠心力だったり。そういった作用を感じる度に少しずつ地上に近づいている気がした。
車体が数秒ほど停止した。そしてまたすぐに走り出した。何事もなく検問を通過したのだろうか。そう願うことしかできない。
この真っ暗闇のせいで地上に出るという実感が湧かないのだろうか。制御室で感じたあの得体の知れない熱い何かは引っ込んでしまったようだ。どことなく寒気すら感じる。カサを持ってきたはいいものの、役に立つとは思えない。ただ知らず知らずのうちに、心の拠り所みたいな役割を担ってくれているような気もする。
暫くの間、右方向への遠心力が体に負荷を与えている。どれぐらいだろう。五分か或いは十分か。暗闇の中に閉じ込められているのだから、体内時計が狂ってしまっても仕方ない。一方向の遠心力が働き続けているということは、車体は曲がり道を走り続けているということになる。恐らく螺旋状の坂道をグルグルと回転しながら、登っているのだろう。
ここから先は、バードにしたって僕にしたって未知の世界だ。厳重な検問所があって、そこで二人とも見つかって殺されるかもしれない。それでもいいと思える。少なくとも地上の景色を見て、空気を吸って、死ねるのだからどちらかといえば本望に近い最後と言えよう。
そんなことを考えている間に、遠心力という名の長い呪縛から解放された。少し真っ直すぐ進んでから大きく右に曲がったところで、トラックは完全に停止した。
バタンと扉を閉める音が全身に伝わると、いよいよかと言わんばかりにまた熱い何かがこみ上がってきた。太陽とは一体どれほど明るいのか。本当に空中を飛ぶ乗り物があるのか。期待が膨張し、張り裂けそうだった。そして荷台の扉がゆっくりと開かれた。
眩しい光が差し込んでくると思っていた。しかし現実は閉め切った荷台の中に比べたら僅かに明るいという程度のもので、暗いと表現しても差し支えない世界が広がっていた。
バードも状況を飲み込めていないらしく、茫然と僕の目を見つめていた。
「バードさん。地上に着いたんですか」
「分からないんだ。ここは地上なのか。ただ天井にな、変な形の物体が浮かんでいる。仄かに光ってる。ただ君のおじいさんが言っていた太陽とは言い難い」
僕はカサを強く握り締めて、荷台から飛び下りた。見上げると、確かに仄かに光る何とも言い難い形の物体が浮かんでいるように見えた。例えるなら蛍光色のバナナのようなそんな物体だ。
その物体はとても綺麗だった。いつまでも見つめていられるような、見つめさせられているというような、それは優しくて危なげな淡い光だった。
我々はその不思議な物体をずっと見つめていた。
「何かよくわからないけど、綺麗だな。空気も澄んでいて、下の世界とは大違いだ。周りは緑の葉っぱで埋め尽くされているし、この緑の世界が永遠に続いているようにも見える」
「そうですね。たださっきからの何か水の雫のような物が、上から落ちてきているような気がするんですんけど、これは気のせいですか」
「いや気のせいじゃない。そうだ。そのカサだよ。それでこの水を防げるんじゃないのか」そう言ってバードは僕のカサを開いて、頭上に被せるように手に持った。
カサを右手に持った、バードの佇まいは妙にしっくりときた。まるで僕の遺伝子に刻みこまれた先祖の記憶が、騒いでいるような懐かしんでいるような。ゾワゾワとした不思議な感覚だ。その姿をぼんやりと眺めていると、あの謎の物体の正体をふと思い出した。
「なあ。これが正しい使い方だよ。これ以上にしっくりくる用途が存在すると思うかい?」
「月です」
「何の話だい?」
「あの上に浮かんでいるやつのことですよ。あれは月です」
「よく分からないが、その月というのが見えているということは、ここが地上であることを証明していると?」
「そうです。間違いなくここは地上の世界です」何故断言できるのかは、僕にも分からない。月なんて知らない。ただ僕の本能は、それを理解しているように思えた。
明暗 @ask413
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