第2話

エントランスはいつもと変わらず、静かで落ち着いており、歪な科学技術の進歩を感じることができた。


 コーヒーにミルクを入れた瞬間を表したような大理石の床は、人が掃除をすることは滅多にない。ゴミ箱に放り込んだゴミを一々回収する必要もない。全て機械が自動でやってくれる。


 このフレアコア中央制御塔に過集中してしまったありとあらゆるハイテクノロジーのオンパレードは、外の世界とのギャップも相まってかその異様さを際立たさせていた。


 中央制御塔で行われていることを口外したり、中の様子を撮影して外部に持ち出すことは、法律により固く禁じられている。見咎められれば、最高指導者であるマッケンシーの名の元に、死刑が宣告され、その遺体は役所の前に晒されることになるだろう。その恐怖を用いた洗脳による統治のやり方は、子供の頃に何度も読んだ本の内容と酷似していた。


 その本の中には、共産主義国家の繁栄と崩壊について記されていた。僕はその本が好きだった。一人の独裁者が国の全権を握り、博打のような政治と戦争を繰り広げてゆくその様には、ある種のロマンを感じることができた。本の内容が事実だとするならば、当時の人々の心境は、とてもじゃないが何かに形容できるとは思えない。


 その本にはそれだけの残酷な描写と、人間の愚かさと、地獄が描かれていた。今となっては、そのような地上の世界を感じさせる物はほぼなくなってしまった。当然その本も例外ではなく、情報統制強化政策の一環で十五年ほど前に憲兵が持って行ってしまった。


 唯一家に残った物といえば、用途の分からないカサだけだった。カサは何故だか、憲兵たちの目を悠々と搔い潜った。もしかするとカサは、地上でもそれほどメジャーな扱いを受けていないのかもしれない。


 ともあれその政策の結果として、同世代の人々は光神主義という考え方に染まりきってしまった。フレアコアなくして、人類の繁栄はないと謳うその思想には、非論理的な教えが沢山あった。


 その光神主義を基に制定されたとされる憲法の前文には「フレアコアは唯一無二であり、この世界の創造主である」とある。


 前文から漂うこの怪しさと違和感。人々に僅かな懐疑心が残ってさえいれば、簡単に崩壊してしまいそうな国家だが、今のところ反乱の兆しはない。


 僕の考えが正しければ、この光神主義の本質は地上の共産主義だか資本主義だかに左右されるものであるという点にあると思う。恐らく光神主義は地上の権力者達によって常に首根っこを掴まれている状態なのであろう。反対勢力が出てこないのもそのことが大きく関係していると思われる。


 僕が読んだ本に登場したドイツという国は、何者かに首根っこを掴まれているような状態ではなかった。アドルフ・ヒトラー総統の独断と偏見がドイツという国の全てだった。果たしてこの国の創造主に何かを決断する力があるのだろうか。マッケンシーはヒトラーにはなれないだろう。だからこの国は共産主義国家に似て非なるものであって、少なくともこの地下世界にいる人間が行使できる権利などたかが知れている。


 僕はそんなことを考えながら、エレベーターの方に向かって歩いた。上のボタンを押すと、すぐに扉が開いた。エレベーターの中に入り、3のボタンを押した後、閉じるのボタンを必要以上に押した。少し間があってエレベーターの扉が閉まる。エレベーターに一人で乗れるというのは素晴らしいことだ。良い一日を定義する上で、とても重要なことだと思う。だから今日は良い一日としての第一の関門を突破できたわけだ。


 僕は1のボタンと閉めるのボタンを押してから素早くエレベーターを出た。右に向いて真っ白な廊下を突き当りまで歩き、左手にあるスライドドアを開けた。


 「やあ。スピナー君。もう来たのか。相変わらず早いね」そう言ってバードは笑った。


「それを言うならバードさんの方が早いと思いますけど───」


 バードは僕の上司にあたる人で、いつも始業時間の一時間前には職場にきている。そのせいで僕も少し早めにくるようになってしまった。本人は気にするなと言う。しかし生来そういう訳にもいかない人だっているだろう。


 「まあ細かいことは気にするな。今日の夜はいつもより長いぞ」


「バードさんが早くに来るから余計に長くなってるんですよ。その分をC班が得してるみたいになってるのが気に食わないし、もう少しゆっくりきてくださいよ」


 我々に与えられた職務はフレアコアの安定維持。と言っても基本的には見守るだけだ。二十四時間体制で、モニターに映るフレアコアの温度とか放射線量とかを監視するだけ。


 一番最初にフレアコアを発生させるのはとても難しく、一歩間違えればこの町ごと吹き飛んでしまうぐらいの緊張感があったらしい。そんなことを所長がよく自慢げに話していた。そうは言っても所長は当時で言えば、右も左も分からない新人だったと聞く。勿論本人の口からではないが、事実そうらしい。だから専門的なことはなにも言わない。言えないが正しいのかもしれない。所長の名誉のため断言はしないでおくが、実際の現場に漂っていた空気感だけを曖昧に言語化してくれている所長は今頃ベッドの中で眠っているだろう。


 時刻は二十三時三十分。本来であれば零時までC班がいなければならないはずなのだが、既にもぬけの殻だった。こういうことがずっと続いているから、C班の二人の顔の形すら朧気な記憶になろうとしていた。


 この少々のストレスから逃れる術を僕は知らない。何故なら僕の上司はこのバードという男でなくてはならないからだ。反対のことも言えるだろう。彼の部下は僕でなくてはならない。僕が知らぬ内に与えている、少々のストレスを彼も同じように、仕方がないと受け入れているのだろう。その理由は彼の考えている事と、僕の考えている事がほぼ全く持って同じであるという点にある。つまりはバードも地上が存在していると確信しており、地上をこの目で見てみたいと思っているということである。


 そのような危険な思想を面と向かって、腹を割って話せる相手など、この世界においてそうそう見つかるものではない。初めて彼と出会ったのは、約二年前のことだ。


 バードは僕の教育係として、眠そうな目を擦りながら、会議室にやってきた。そして僕の耳元で囁いた。「この世界には上の世界が存在する。君もそう思わないかい」突然の禁忌に僕は少したじろいだ。何を言っているのだろうか。一瞬耳を疑ってしまった。しかしそんなことはすぐに忘れて僕は言った。「ええ。ありますよ。地上はあります」これが適性検査の一環としての質問だったなら、あの日死んでいたかもしれない。ただ幸運なことにそれは私的な質問だった。


 僕の言葉を聞いてか、彼は目の色を変えて質問してきた。「ほう。何故そう思う」僕はじいちゃんから聞いた話をそのまま彼に伝えた。すると彼は、何かを嚙み締めるように小刻みに震えてから、淡泊に「そうか」と言った。


 その日以来、彼は地上に関する話をしなくなった。ただの普通の教育係を振る舞っているように見えた。次に彼と地上の話をしたのは、彼が班長を務めるA班に僕が配置されてから迎えた最初の夜勤の日だった。


 当然バードは、僕より先に制御室の黒い椅子に座っていた。壁も床も天井もすべて白色に統一された部屋に、差し込んでくるフレアコアの光を背に向けるようにして僕は彼の対面に座った。


 「ついにこの日がきたよ。待ちくたびれた。一刻も早く研修を終わらせて、この日が来ることを願っていた。見ろ。誰もいない。今なら女のあそこの形についての話をしようが、私が男色を好んでいることについての話をしようが、誰に聞かれる心配もない。無論地上の話も例外ではない」彼は冷めやらぬ興奮を抑えるように、一息で言い終えた後、コーヒーを啜った。


「やはりそういうことでしたか。研修初日と二日目の変容具合があまりに不気味だったので、何か企んでおられるのであろうと思っていましたが、どうやら僕がA班に配属されたのは偶然ではないようですね」


「まあそういうことだ。それで君のおじいさんは地上の世界を知っていたわけだろう?つまりは───」それから僕とバードは互いの考えや、仮説を披露し合い、矛盾点を指摘し合い、より高度な穴のない仮説へと昇華させる日々を過ごした。察しが付くとは思うが、仮説の昇華が最終的な目標ではない。仮説の話合いは我々にとっては、あくまで娯楽の様なものだった。初めて人に本心をぶつける機会を得たのだ。その快感といえば射精などでは比べるに値しない。


 とある日バードは言った。「そろそろ本題に入ろうではないか。このむさくるしい虚像の世界から脱出する方法を考えよう」


「その意見には賛成ですが、現実的に考えてそのようなことが可能なのでしょうか」


「不可能ではない。ただその千載一遇の機会を逃せば、次にいつその機会がやってくるのかわからない。私はここで十年以上働いている。その機会というのは、十年前に一度遭遇したっきり巡りあえていない。不覚にも当時の私には、その機会を機会と認識するだけの思想と、機会をものにするだけの知識と度胸を持ち合わせていなかった。だが今は違う。何度もシミュレーションを繰り返し、頭の中では何度も成功している。後はその時がいつくるのかと、実際に行動するだけの度胸があるのかということだけだ。ただ後者の問題はほぼ解決しつつある。何せ心強い同士に出会えることができたからね」


 バードが何度も繰り返したその機会というのは、月に一度やってくる物資を乗せた大型トラックに乗り込むというものだ。しかしただ乗り込むだけでは駄目だとバードは言う。基本的にトラックは無人である。ただその十年前にバードが遭遇したというトラックは、人間が運転していたというのだ。システムのトラブルが原因で、急遽人が運転することになったらしいが、果たしてそのような日がいつやってくるのか。

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