カナカナ

アイス・アルジ

第1話カナカナ


 家に帰りたい。

 何もすることがない。というより、何もしないように言われている。一畳ほどのベッドの上が私の世界になった。

「絶対安静です」看護師がいう。

 “絶対安静”なんて言葉は、もっと重篤な患者に使われるべきものだと思っていた。私はまだ十分に動けるぞ。

「起きてはいけませんよ」また看護師が言う。

 私はもう、こんなに年を取ってしまったのだろうか。

 ああ、昔に帰りたい。


 私は若いとき、もっとチャレンジすべきだった。今更このベッドの上で何ができるというのか。やがて心が少し落ち着くと、ここからでも色々と見聞きできることが分かった。立ち働く看護師たちの様子や、緊張した会話、ときには他愛もない会話など。そんなごく日常的な出来事にも、心が動かされる。

 夜の消灯は速い、あたりが静まると医療機器の発するわずかな音や、遠く離れた通路を歩く足音などが聞こえる、建物全体に耳が広がったように感じる。目の動かせる範囲はせまいが、耳ならば代わりに遠くまで眺めることができる。体は不自由でも心は自由だ、まだできることがあるぞ。頭の中に、今まで見てきた光景や多くの言葉が渦巻く、それを形にしたいと思う。

 “俳句” “五/七/五” 最小の文字で表現できる文学。残念ながら俳句のことはそれほど詳しくないが、かつて多くの俳人が、死の直前まで俳句を詠み“辞世の句”を残したと記憶している。俳句、五七五の17文字、多少17文字を字超えても許されるだろうが、季語が必要なはずだ。これくらいの知識しかないが、俳句を作ろう。実に深淵な文学だ、私などには極められないかもしれないが、俳句作りに没頭した。できた俳句は、あまりにも素人臭い。


 ある日、どこからか虫の鳴き声が聞こえる。温度も照明も、いつも一定にコントロールされた病室にいて、久しぶりに聞く季節の便りだ「カナカナカナ…」もう夏も終わる。


 “カナカナ”とは、カメムシ目/セミ科に属するセミの一種“ヒグラシ”の別名。秋の季語だ。日の出前や、日の入り後に鳴くことがおおく、「カナカナカナ…」のように聞こえる。


「かなかなか なかなしかないか なかなしかな」


 私は、故郷でカナカナの鳴き声を聞いた記憶がない。東京で一人、浪人生活を送っていた時に初めて聞いたような気がするが、思い込みかも知れない。夕暮れ時、住宅街を歩いていると街灯が「ジーーーー」と鳴っている、変圧器が古くなっているのか? 孤独感に締め付けられるような音だ。故郷に帰りたい。

 公園の近くまで来ると、「カナカナカナ」と声が聞こえてくる。姿は見えないが、公園に植えられた樹木の暗い影から鳴いているようだ。民家には明かりが灯り始める。白熱灯のような温かい光だ(最近のLEDのように高輝度の白色光ではない)。カナカナの声は昼間のセミと違ってなんとなく物悲しい。すれ違う人はなく、誰かに会いたくなる。 家に帰りたい。


「カナカナかな 悲しかないかな 悲しかな」

 これは俳句です。いたってまじめな俳句のつもりです。


 夕焼けは真っ赤に映え、はっと私は足を止めた。公園には一組の親子のシルエットがある。

「あっ、カナカナの声だ」

「カナちゃん、もう帰ろう」

「うん…」

「クマゼミはクマではなくセミの仲間なんだよ」

「そうね」

「じゃあセミクジラは?」

「セミじゃないの?」

「セミクジラはセミじゃないんだよ」

「カワセミは…」

「帰ろう、カナちゃん」

「うん、ママ」

 母と子は家路についた。手を繋ぎながら歩いてゆく。


 私は、忘れていた記憶がよみがえった。昔、学校へ向かう田舎道を母と一緒に歩いていた。多分手を繋いでいたのだろうが、はっきりした記憶がない。さあ、あの日に帰ろう。そして、しっかりと、手を繋いだ記憶を心にとどめよう。

 私は、その夕焼けに向かって歩き始めた。

 帰ろう。

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カナカナ アイス・アルジ @icevarge

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