第7話 4歳夏・宝塚記念

6月末の阪神競馬場。日本競馬の上半期を締めくくる「宝塚記念」は、ファン投票で選ばれた精鋭たちが集結する“春のグランプリ”として知られている。

2000メートルを超えるタフなコースを舞台に、前半戦の総決算を迎えるわけだ。

そんな大一番に、二冠馬かつ“現役最強”の呼び声が高いグランアブソリュートが出走する――とあって、スタンドは熱狂の渦を巻き起こしていた。


「票数トップ、おめでとうございます。やっぱりアブソリュートはファンから絶大な支持ですね」

 スポーツ紙の記者がそう声をかけると、馬主の藤堂俊和は胸を張る。

「まぁ、当然でしょう。春の大阪杯も圧勝だったし、次も期待してもらって構わない。ファンのみなさんにも大勝利をお見せしたいですね」


 一方で、調教師の吉田猛の表情は曇りがちだ。

大阪杯から中間のローテーションは決して楽ではない上に、ファンからの期待とスポンサーの要望が一層強まっている。

「先生、調教での動きは申し分ないんですよ。けど……」

 厩務員の宮下久美が声を落とす。

「最近、鎮痛剤に頼ってる部分が増えている気がして……馬はやる気を見せてくれるけど、逆に怖いんです。痛みを感じない分、限界を超えて走ってしまうかもしれない」

 吉田は唇を噛みしめるようにして考えこむ。

「馬主やスポンサーのプレッシャーもあるし、北斗ファームもアブソリュートの活躍で経営を立て直したいのは分かる。でも、これ以上無理を重ねれば、いずれ破綻するかもしれないな……」


 そこへ現れたのは、獣医師の森川。

「先生、今朝のチェックで右前脚に微細な腫れが確認できました。レントゲンでは大きな異常は出ていませんが、継続的に炎症が溜まっているのは事実です。これ以上鎮痛剤を安易に使うのは危険ですよ」

「分かってるよ。しかし、馬主サイドからは“絶対に走らせろ”と言われてるんだ。ファン投票でもトップだった以上、回避は考えにくい……」

 吉田の声には苛立ちと苛立ちをどうにもできない葛藤が混じっている。


 そして迎えた宝塚記念当日。

阪神競馬場は朝からファンでごった返し、「アブソリュート、また圧勝だろう」「他の馬も負けちゃいないぞ」と口々に声が飛び交う。

パドックに現れたグランアブソリュートは、いつもと変わらぬ堂々とした姿を見せていたが、宮下の目にはわずかに歩様(ほよう)が硬いように映る。

「……大丈夫。大丈夫だよね?」

 自分に言い聞かせるように馬の背を撫でるが、不安は増すばかり。

スポンサー企業の担当者や藤堂は笑顔で取材陣をさばき、吉田には「頼みますよ、絶対勝ちたいんで」と圧をかけてくる。


 やがてゲートが開くと、グランアブソリュートは快調に中団からレースを進め、最終コーナーで先団を捉えにかかる。ライバル馬たちとの激しい叩き合い。

「外からグランアブソリュート、並んで、抜けるか……ハナ差か、粘るのか!」

 鋭い末脚を繰り出すが、最後はハナ差で辛うじて前に出たように見えた。

ゴール後、場内モニターには写真判定の文字。

結果、グランアブソリュートの“僅差勝利”が確定すると、大歓声が阪神競馬場を揺るがす。

しかし、さすがの二冠馬にも今回の2200メートルは苦しかったのか、伊藤誠が下馬後にゼーゼーと荒い息を吐く馬の首を必死になだめていた。


「勝った……けど、馬の消耗がすごいな」

 吉田は額の汗を拭いながらほっと胸をなでおろす。

藤堂やスポンサーは「やはり最強!」と大喜びでメディアにアピールし、ファンも「三冠は逃したけど、文句なく現役No.1だろ」「このまま秋の天皇賞も勝ちそうだ」と絶賛の嵐だ。

 その一方、獣医師の森川は馬運車での移動中に脚を確認し、「やはり炎症が少し悪化している。

いまはアドレナリンが出ているから誤魔化せるけど……」と険しい顔をする。

宮下も馬房でグランアブソリュートの脚を見て、「痛み止めなくても歩けてはいるけど……これ以上上積みは望めないかもしれない」と苦い思いを抱く。


 だが、馬主やファンの間では秋の天皇賞(東京2000m)を“勝って当たり前”という空気が色濃い。

今さら回避など考えようものなら、大ブーイングは必至だ。

藤堂も「ここまで来たら、GⅠを総なめにしてくれ。スポンサーもさらに大金を積んでくれるだろうし、ファームの経営にも弾みがつく」と意気込む。

吉田が「馬を優先すべきです」と訴えても、熱狂の渦は止まりそうになかった。


 こうして夏のグランプリを制したグランアブソリュートは、いよいよ“秋の大一番”へと突き進むことを余儀なくされる。

表向きは栄光と喝采に包まれ、どこから見ても絢爛(けんらん)豪華なサクセスストーリーに見える。

けれど、馬房に戻ったあの馬の足元には、蓄積された疲労と痛みが、治り切らないまま重くのしかかっていた。


 そうとも知らず、あるいは知っていても意図的に目を背け、関係者たちは次の勝利を求める。

ファンからは「秋の天皇賞こそ最強の証明を」「ジャパンカップや有馬記念で新たな伝説を」と期待が高まり、スポンサーもその盛り上がりを逃すまいと莫大な予算を投じる構えだ。


 ――グランアブソリュートはさらなる輝きを求められる。

しかし、燃え尽きる寸前のローソクのように、その燦然たる光が一気に消え去る可能性を、今はまだ誰もはっきりと認められずにいる。

秋の天皇賞で何かが起きるのではないか――そんな不吉な予感だけが、宮下や森川の胸を暗く締めつけるのだった。

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