第6話 3歳夏~4歳春・休養と再起

皐月賞・ダービーを連勝し、3歳にして“世代最強”と謳われるようになったグランアブソリュート。

その勢いのまま、陣営には「秋の菊花賞(3歳三冠の最終戦、京都の長距離GⅠ)まで制覇して三冠馬になってほしい」というファンやスポンサーの熱い要望が殺到した。

菊花賞は3000メートルの長距離で行われるため、スタミナに不安を抱える馬にとっては厳しい条件となる。

しかし、それを克服しての三冠達成は競馬界に歴史的偉業をもたらすという夢がある。


馬主と調教師の対立

「先生、菊花賞に出るかどうか、そろそろ決めていただけませんか?」

 馬主の藤堂俊和は、厩舎事務所で調教師の吉田猛に詰め寄る。

「ファンもスポンサーも、みんなが三冠を期待してるんですよ。せっかくここまで無敗で二冠を獲ったんだから、このチャンスを逃す手はないでしょう」

 その横顔には、社長としてのビジネス的な打算も透けて見える。

三冠のタイトルを手に入れれば、グランアブソリュートの名声は不動となり、種牡馬価値も高騰する。

企業PRとしても絶大な効果を期待できるのだ。


 一方、吉田は返事を渋る。

「正直、夏の間にしっかり休ませたい気持ちが強いんです。二歳時から無休みでGⅠを連戦し、しかもほとんどが圧勝とはいえ、それだけ馬への負担は大きい」

 すると獣医師の森川も同調し、厳しい口調で言葉を継いだ。

「ダービー後の検査で、脚部に微細な炎症反応が見られました。今すぐ重大な故障には至らない程度ですが、長距離の菊花賞に強行出走すればリスクは相当高まります」


「でも、いま休養なんかしたら三冠が……」

 藤堂が不満を露わにする。視線の先には、スポンサー企業の担当者らしき人物が座っていた。

黙ってはいるが「三冠が現実味を帯びているのに、なぜ出さない?」という空気を漂わせているのがわかる。

 吉田が深いため息をつくと、宮下久美が小さく声をあげた。

「先生……アブソリュートが、ここ数日ずっと脚を気にしているんです。痛み止めを使えば、表向きは大丈夫に見えるかもしれませんが、それでごまかして無理をさせるのは……」


 調教中も、競馬法に抵触しない範囲で“鎮痛剤”や“消炎剤”を使うことは珍しくない。

あくまで合法的な治療やケアとして施されるが、使い方を誤れば馬の故障に拍車をかける恐れがあるのも事実だ。

今のグランアブソリュートには、痛みを緩和して走り続ける力があるゆえに、一度スイッチが入ると全力で疾走してしまう危険性がある。


「北斗ファームの佐久間場長とも相談していましたが……ファーム側も経営が楽ではないようです。グランアブソリュートが三冠でも獲ってくれれば、牧場全体に注目が集まり、資金面でもかなりのメリットがある、と」

 馬主である藤堂がそう言うと、吉田は表情を曇らせた。

北斗ファームが名門であることに変わりはないが、近年の競争環境や不況の影響を受け、決して余裕があるとは言えないのは事実だ。

もしこの馬がさらに大きなタイトルをつかめば、同ファームの馬に対する評価も一気に高まり、経営を支える大きな一助になる。


「でも、それで馬を壊してしまったら、元も子もないですよ……」

 森川獣医師が静かに言い切ると、部屋の空気が張り詰める。

しばらく沈黙が続いたあと、吉田が目を閉じて決断を口にした。

「――菊花賞は回避します。三冠を狙うという選択肢に魅力がないわけではありませんが、秋は休養とし、馬のコンディションを立て直すことを優先します」


3歳秋の休養と混乱

 この決定に、ファンからは大きな落胆の声が上がった。

「えっ、三冠狙わないのか? もったいない……」

「グランアブソリュートなら菊花賞でも勝てただろうに」

 SNSや競馬サイトの掲示板には不満が噴出し、マスコミも「三冠馬誕生ならず」と冷ややかな見出しを付ける。

スポンサー企業も「あれだけ盛り上がったのに拍子抜けだ」と不満を漏らした。

馬主の藤堂も、最後まで納得しきれない表情を浮かべていたが、吉田の決断は揺るがなかった。


 結局、グランアブソリュートは3歳秋は休養という形を取り、菊花賞を回避。このニュースはファンを落胆させた一方で、「将来を考えれば当然」「無理して壊しては意味がない」と擁護する声もあった。

いずれにしても、周囲の期待を背負う名馬ゆえの喧噪(けんそう)が絶えないまま、静かに秋シーズンを見送ることになった。


 その休養の中でも、陣営は完全に暇というわけではない。

調教量を落としつつ、脚部のケアや基礎体力の再構築に取り組み、同時にスポンサーやファンのフォローを欠かさない。

北斗ファームの佐久間場長は「こういうときこそ、しっかり英気を養うんだ」と来訪するメディアに語り、なんとか経営的にもプラスになるよう動いていた。


4歳春・大阪杯での復帰

 そして迎えた4歳春。年度が変わり、「そろそろグランアブソリュートの復帰はいつか?」とファンやメディアが騒ぎ始めた頃、吉田は満を持して大阪杯(阪神競馬場・2000メートルGⅠ)への出走を発表した。

大阪杯は春の中距離GⅠとして、近年では国内トップクラスの馬が集まる一戦だ。


「休養明けとはいえ、やはり“現役最強”の走りを見せてくれるんじゃないか」

「昨年の二冠馬だし、ここでどんなレースをするのか楽しみだな」

 SNSやスポーツ紙は一斉にグランアブソリュート復活の話題を取り上げる。

藤堂も「やっと動くか」と胸を弾ませ、スポンサー企業は「二冠馬の復帰レースの特集」を企画し、大々的なキャンペーンを打つ。


「少し乗り込み不足があるのは否めないけれど、馬の状態は悪くありませんよ」

 吉田はパドックで、伊藤誠に最終確認を取る。

伊藤は久々に鞍に乗るグランアブソリュートの背中に触れ、

「大丈夫です、先生。馬場入りの時も、すごく落ち着いていました。脚の状態も、見たところ問題ないですよ」

と頼もしく笑った。


 ゲートが開くと、中距離を得意とするライバル馬たちが先行争いを繰り広げるが、グランアブソリュートは相変わらずマイペースに折り合いをつけ、中団からレースを進めた。

阪神の直線で外へ持ち出されると、久しぶりのレースとは思えない鋭い末脚で前を一気に捉える。

「復帰初戦だが関係なし! グランアブソリュート、豪快に抜け出した!」

 実況の声が会場に響き渡る。

ゴール前では余裕すら感じさせる完勝劇で、スタンドのファンも「やっぱりこの馬はただ者じゃない」と大絶叫だ。


 ウイナーズサークルで藤堂は感無量の面持ちだ。

スポンサーの関係者も「さすがです! これで再び注目度は最高潮になりますよ」と嬉しそうに話す。

吉田は慎重ながらも安堵の笑みを浮かべ、宮下は馬房でグランアブソリュートの脚を温めながら、「大丈夫、大丈夫」と何度も言い聞かせるように呟く。

脚元にほんのわずかな張りはあるが、重大な支障は見られない。

ただ、獣医師の森川は「これだけのパフォーマンスを出すということは、負荷もそれだけ大きいということ。その点だけは忘れないでください」と、改めて釘を刺した。


歓声と不安

 こうして4歳春、大阪杯で華々しく復帰を飾ったグランアブソリュートは、ファンから「やはり現役最強」と称えられ、メディアも「二冠馬が再び王道を歩み出した」と大々的に報じる。

馬主の藤堂は「そろそろ海外挑戦も視野に入れていいのでは」と意欲を見せ、スポンサー企業は「このまま大舞台を連勝して、さらにブランド力を高めよう」と戦略を練り始める。


 ただ、厩舎サイドの表情に心の底からの笑顔はない。

調教師の吉田も獣医師の森川も、そして厩務員の宮下も、「いつか無理が爆発しないだろうか」という不安を拭いきれないでいる。

北斗ファームの佐久間場長もまた、遠く北海道の地から「これ以上、馬を酷使して大丈夫か……」と複雑な想いを抱いていた。


 だが、現時点では故障らしい故障も出ず、現役最強の呼び声を恣(ほしいまま)にするその走りは、もはや止まることを知らないかのように見える。

トロフィーを掲げ、ウイニングランでファンに応えるグランアブソリュートの姿は、圧倒的なオーラを放ちながら、次の大舞台へ――「秋の天皇賞」や「ジャパンカップ」、あるいは海外遠征すらも視野に入れられる――華々しい未来へと突き進んでいく。


 しかし、馬体に刻まれた小さな疲労の蓄積は消えてなどいない。

名声の波はあまりにも大きく、関係者たちの声はかき消されそうなほどだ。

いずれは、取り返しのつかない代償を払う可能性もある――けれど、その足音を聞いているのは、ほんの一握りの人間だけだった。

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