第5話 3歳春・クラシック(皐月賞&日本ダービー)

3歳春。いよいよ“クラシックシーズン”と呼ばれる真の大舞台が幕を開ける。

クラシックとは、競走馬にとって一生に一度しか出走できない三冠レース――皐月賞・日本ダービー・菊花賞を指し、ここで勝利すればその世代の頂点に立てるとされる。

グランアブソリュートにとっては、2歳時のホープフルステークス制覇から続く“世代最強”の呼び声を証明する絶好の機会でもあった。


皐月賞(4月・中山競馬場)

 最初の関門、皐月賞はクラシック第一戦として中山競馬場で行われる。

中山特有の急坂や小回りコースは、スピードと器用さの両方が求められる難コースだ。

ファンからは「ホープフルSの覇者が、中山でもう一度頂点を獲るか?」と大きな注目が集まっていた。


「さあ、アブソリュートは満を持しての出走だね。オッズも1番人気、抜けた本命じゃないか」

 馬主の藤堂俊和が、スタンドで手応えある表情を浮かべる。

「確かに評判は上々ですよ。しかし、ローテーションはそこまで余裕があるとは言えません。馬体も成長途上、慎重に見ないといけない」

 調教師の吉田猛は、厩務員の宮下久美から渡された馬体重を確認しながら、やや険しい顔をしていた。

「脚元の腫れは治まっているようですが、ここ最近ちょっとピリピリしてる気がするんです。気のせいかもしれませんが……」

 宮下が心配げに口を開く。

勝利を重ねるごとに増していく馬体への負荷、ファンの期待、メディアの熱狂。それらが馬にもプレッシャーを与えているように思えてならないのだ。

「わかった。レース後に獣医師とすぐチェックをしよう。今はとにかく、怪我なく走り切ってくれればいい」

 吉田はそう言ってパドックへ目を戻した。

そこには大観衆に臆することなく闊歩するグランアブソリュートの姿がある。


 スタートが切られると、グランアブソリュートは中団で折り合い、コーナーワークで徐々に外に持ち出す。

前走までと同じく大きなアクシデントはなく、騎手・伊藤誠の指示によく反応している。

 そして最終直線――坂を駆け上がるとき、グランアブソリュートの脚は一瞬だけ鈍りかけるが、鞍上の合図で再度伸びを取り戻す。

逃げ粘るライバルを外からじわりと追い詰め、最後はゴール前で半馬身ほど差し切って先頭で入線した。

「やった! 皐月賞制覇!」

 興奮の渦に包まれるスタンド。藤堂はガッツポーズをし、吉田はホッとしたように大きく息をつく。

勝利インタビューで伊藤は「急坂で少し脚をとられたが、そこからもう一段ギアを上げてくれた。この馬は本当に強い」と興奮気味に語った。


 レース後、獣医師が脚元を詳しくチェックするも、大きな異常は見られないとのこと。

ただやはり筋肉に若干の張りがあり、「このローテーションでこれだけ走れば当然です」とのコメントが出る。

宮下は心配を募らせながらも、周囲が歓喜のムード一色である以上、あまり大げさには言えない。

「無理だけはさせたくないんだけどね……」

 宮下はそう呟き、せめてものケアを念入りに施してやろうと決心した。


日本ダービー(5月・東京競馬場)

 続くクラシック第二戦、日本ダービーは東京競馬場で行われる。

平坦で広大なコースは、日本最大の競馬場ならではのスケールを誇り、「日本競馬の祭典」と称されるほどのビッグイベントだ。

多くの競走馬関係者やファンにとって、ダービーの栄冠は特別な価値を持つ。


「皐月賞を勝ったし、ダービーも当然狙うんですよね?」

 記者にそう問い詰められた藤堂は、自信たっぷりに答える。

「ええ、もちろんです。アブソリュートの強さをもう一度証明する舞台になりますから」

 一方で吉田は「今回は少し間隔があくので、しっかり調教で状態を整えます」と慎重な構え。

しかし内心、3歳春の連戦でグランアブソリュートの体力消耗が心配だ。

クラシックの連戦が続くことを思えば、決して楽観視はできない。


 5月下旬、ダービー当日の東京競馬場は十万人を超える大観衆で埋め尽くされていた。

ファンたちの期待も最高潮。

「二冠達成か?」「史上最強の3歳馬誕生か?」とメディアは煽り立て、グランアブソリュートの単勝人気はまたも圧倒的な1番人気だ。


 パドックでも落ち着きを失わないグランアブソリュート。

しかし、宮下がさりげなく馬体を触れると、微熱のような熱を感じ取った。

「先生……ちょっとだけ体が熱いかもしれません」

「……今日の気温も影響してるだろう。余計な動揺を馬に伝えないように頼む。僕も獣医師と連携を取っておく」

 吉田は冷静に対処しようとするが、その表情は明らかに神経質だ。


 スタートが切られると、グランアブソリュートはやはり中団でじっくり脚を溜める。

東京競馬場の長い直線を意識してか、伊藤は追い出しを慎重に待つ。

最後の直線で外に持ち出すと、外目から勢いよく伸びを見せ、ライバルたちをまとめて飲み込むように先頭へ躍り出る。

「グランアブソリュート、先頭に立った! 後続は届かない!」

 アナウンスの興奮混じりの叫び声がこだまする。

逃げ馬が粘る前をゴール手前で完全に差し切り、2馬身差をつけて堂々の二冠達成を果たしたのだ。

 人々の熱狂が爆発し、藤堂もその場で跳び上がって歓声をあげる。

吉田は拳を握りしめ、宮下は半泣きになりながら「本当に走りきった……!」と安堵と歓喜を噛み締める。

ダービーを制することは、すなわち「日本で最も栄誉あるレースを勝った馬」として歴史に名を刻むということ。

グランアブソリュートはここにきて、不動の“世代最強”としての評価を確立したのだ。


 とはいえ、ダービー後の検量室で伊藤が「途中、ちょっと重苦しい走りをしていた時間帯があった」と告げると、吉田はその言葉を重く受け止める。

祝福ムードのなかでも、馬体を改めて診察した獣医師が「脚部に軽い炎症の兆しがある」と注意を促したからだ。

まだ重大な故障ではないにせよ、2歳から無敗でG1を連勝し続けた代償が、少しずつ顕在化してきたようにも見える。


 ダービー後、メディアやスポンサーから「次は三冠を狙うのか」「日本競馬史に残る快挙になるかもしれない」と声が殺到する。

馬主の藤堂も「当然菊花賞(3歳秋、長距離戦)も視野に入れる」と意欲をみせ、吉田は「馬の状態と相談しながら……」と答えるのがやっとだった。

「正直、相当疲れが溜まってきている。馬体重の変動も気になるし、脚元を無理に酷使し続けていいのか――」

 レース後の会話で、吉田がそう漏らすと、宮下も神妙な面持ちでうなずいた。

すでに手放しで喜べる状況ではないのだが、ダービーという華やかな勝利がすべてを覆い隠すように祝福ムードを広げている。


 こうしてグランアブソリュートは、皐月賞・ダービーを連勝し、名実ともに世代最強の称号を手に入れた。

だが、周囲から“菊花賞で三冠へ”という期待が急速に高まる一方、馬体の疲労や脚部への負担は確実に増している。

 来るべき秋へ向けて、関係者はどう動くのか。

名馬の勲章に陰る影は、もはや見過ごせないほどの大きさに育ちつつあった。

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