第4話 2歳冬・G1初制覇(ホープフルステークス)

年の瀬も押し迫った十二月末、中山競馬場はいつになく熱気に包まれていた。

中山競馬場は千葉県に位置する国内有数の競馬場で、コースは起伏が多く、ゴール前の急坂が名物として知られている。

そんなタフな条件で行われるホープフルステークスは、2歳馬にとって年内最後の大一番。

GⅠ(国内最高格付け)に格上げされたこともあり、このレースを制すると「翌年のクラシック戦線の主役」として大きく注目されるのが通例だ。


「さあ、これで年内にG1を獲れば、来年のクラシックはますます期待できますね」

 馬主の藤堂俊和が、満員のスタンドを眺めながらつぶやく。

隣には調教師の吉田猛が控えめにうなずいた。

「確かに早い段階で実績を作りたいという思いはあります。けど、このコースは馬にとっても楽じゃない。特に中山は直線に急坂がありますからね。脚元への負担も大きい」

「まあ、大丈夫ですよ。なんせ2歳重賞をあれだけ楽勝してきたんだ。グランアブソリュートなら問題ないでしょう」

 藤堂は上機嫌だが、吉田は目の奥にわずかな緊張を宿している。


 実際、グランアブソリュートはこれまで新馬戦と札幌2歳ステークスを圧巻の内容で連勝し、すでに2歳屈指の存在感を放っていた。

ファンやメディアからも「ホープフルステークスの大本命」と目されている。

スタンドからは「今日も大差勝ちか?」「無敗の怪物誕生だろう」と興奮混じりの声が飛び交っていた。


 パドックに姿を見せたグランアブソリュートは、漆黒の毛並みをいっそう艶やかに光らせながら、周回をゆったりとこなしていた。

若馬らしい鋭い目つきはあるものの、荒々しさは感じられない。むしろ、どこか観衆を見下ろすような落ち着きすら漂っている。


「やっぱり気性がいいわね。2歳馬でこんなに落ち着いてるのは珍しい」

 厩務員の宮下久美が小声で感嘆の息を漏らす。

だが、その視線は時おりグランアブソリュートの脚元へ向けられる。

札幌2歳Sのあと、わずかだが“違和感”を抱えているように見えたことが、心に引っかかっていたからだ。


「返し馬でも問題なさそうだし、さすがに大丈夫だろう。とはいえ、最後の直線がどう出るか……」

 調教師の吉田が双眼鏡を片手に呟く。

騎手の伊藤誠は鞍上でいつも通りリラックスした姿勢を取っているが、その表情には闘志が滲んでいる。


 やがてゲート入りの合図が出され、一頭、また一頭と収まっていく。

観客席のざわめきが静寂に変わり、最後にグランアブソリュートがすっとゲートインした瞬間、場内の期待がピークへ達したように感じられた。


「スタートしました!」

 アナウンサーの声が反響し、16頭の2歳馬が一斉に飛び出す。

グランアブソリュートはまずスッと好スタートを決め、中団あたりにつけて折り合いを重視する。

馬群の中で動じる様子はなく、鞍上の伊藤も「このままリズムを守ろう」という合図を小さく送る。


 1コーナーから向正面にかけて、ライバル馬たちがハイペースで先頭を奪い合うなか、グランアブソリュートはやや後ろ目で待機。

吉田は双眼鏡を覗きながら「行きたがらないか……?」と少しハラハラしていたが、実に素直に流れに乗っているのが見える。

大きなアクシデントもなく、ペースが落ち着いたところで最終コーナーを迎えた。


「ここだ……!」

 伊藤が手綱を抑えから仕掛けに切り替え、外へ持ち出すと、グランアブソリュートの走りが一変する。

まるでエンジンが入ったかのように伸び始め、先行集団をあっという間に捉えにいく。

中山の急坂などものともせず、馬体を低く沈ませたまま、力強い脚を繰り出していった。


「外からグランアブソリュート、凄い伸びだ! 先頭に並んだ、突き抜けるか――」

 実況の声が高まる。

スタンドのファンからは「行けー!」「そのままっ!」と叫ぶ声が轟く。

ゴールまで残り100メートルほど。

先頭争いの中にいたライバル馬たちが抵抗するが、グランアブソリュートの末脚は格が違った。

最後は1馬身ほどリードを広げ、先頭でゴール板を駆け抜けたのである。


「よっしゃああああ!」

 藤堂は思わずガッツポーズを取り、周囲の関係者と握手を交わす。

吉田もこれまで見せたことのないような笑顔で、伊藤のウイニングランを見送った。スタンドからは拍手と歓声が巻き起こり、「最強2歳馬誕生」の言葉があちこちで飛び交っている。


 表彰式では、伊藤が「坂を上がってからの脚がとにかく凄かった。気性的にも素直で、最後まで全力で応えてくれました」と興奮気味に語り、吉田は「無事に走ってくれたことが何よりです。

将来はもっと大きな舞台でも活躍できる可能性を感じています」とコメント。

藤堂は「これで来年のクラシックがますます楽しみですな!」と得意げにマイクを握り締めた。


 ただ、その一方で、獣医師がグランアブソリュートの脚を丁寧に触診しながら首をかしげていた。

「少し腫れが見られますね。レース直後ですし、歩様(ほよう)に乱れはないんですが……来週、もう一度きちんと検査をしたほうがいいかもしれません」

 宮下が心配そうな顔で「先生、どうでしょう……」と吉田に視線を送ると、吉田は険しい表情を一瞬だけ見せたものの、

「わかった。しっかり経過観察しよう。勝った喜びで見落としがないように注意したい」

と静かに頷く。


 しかし周囲の熱狂ぶりはそんな小さな兆候など気にも留めない様子だ。

G1を制し、“3連勝無敗の2歳王者”という肩書が、グランアブソリュートに一気にスポットライトを当てる。

メディアも「怪物登場」「来年のダービー候補最右翼」と大々的に報道し、ファンは「どこまで強くなるんだ」「三冠も狙えるんじゃないか」と大騒ぎだ。


 吉田や宮下、そして獣医師らは勝利の栄光を称え合いながらも、どこか胸の奥で言いようのない不安を感じていた。

早い時期からここまで強いレースを重ねることは、馬にとって諸刃の剣にもなり得る。

しかしそんな葛藤は、今の祝福ムードの中ではかき消されてしまいそうだった。


 ともあれグランアブソリュートは2歳にしてGⅠホープフルステークスを制覇。

“将来のクラシックの主役”としての評価を不動のものにし、陣営も馬主も、そしてファンまでもが「次はどこを走るのだろう」「ダービーまで無敗か?」と浮き立つ気持ちを隠せない。


 こうして、グランアブソリュートは年末の寒空のなか、燦然(さんぜん)と輝く勝者の栄冠を手に入れた。

脚元のわずかな異変はあまりにも小さく、光り輝く未来を前にした関係者の目には届かない。

まるで、翌年へ向けた華やかな序章の一幕として、この日は祝福と喝采だけが中山競馬場を満たしていた。

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