第8話 4歳秋・天皇賞(秋)直前
秋の澄んだ空気が漂う東京競馬場の調教コース。
紅葉しかけた木々の向こうで、朝日を浴びながらグランアブソリュートが重々しい足取りで坂路を駆け上がっていく。
その息づかいには熱がこもり、力強さは依然として感じられる――しかし、調教師の吉田猛には、どこか“行きたがっている”のか“痛みをこらえている”のか見分けがつかない微妙な違和感があった。
「先生、本当に出すんですか? このまま秋の天皇賞を……」
側でハロンタイムを計測していた獣医師の森川が食い気味に問いかける。
「……分かってる。けど、スポンサーも馬主も、もう後には引けないんだよ」
吉田はうつむいたまま力なく首を振る。
プロローグですでに描かれたあの結末を、まだ誰も止められないという焦燥が彼を苛(さいな)んでいた。
この日は、天皇賞(秋)に向けた最終追い切りの日。
宝塚記念からの疲労が完全には抜け切らず、脚部の炎症が治まりきっていないのも事実だ。
それでも、マスコミやファンからは「最強馬の復帰が待ち遠しい」「秋の大一番も圧勝確定?」と煽られ、馬主の藤堂俊和やスポンサー企業は「結果を残してくれなきゃ困る」と暗にプレッシャーをかける。
「馬だって、生き物なんだぞ……」
吉田は独り言のように呟きながら厩舎に戻る。
そこには厩務員の宮下久美が待っていた。
彼女の顔からはすっかり血の気が失せている。
「先生、注射や鎮痛剤、消炎剤……これ以上増やすのは危険です。どうか、出走を見直すわけには……」
「分かってる。けど、それじゃあ馬主もファンも黙っちゃいない。北斗ファームも経営がギリギリだ。アブソリュートがここで勝ってくれなきゃ、みんな行き詰まるんだ」
吉田が声を荒らげると、宮下はハッとして言葉を飲み込んだ。
互いに、ここまで追い詰められているとは思いもしなかったのだ。
さらに拍車をかけるのがネット上のファンの声だ。
「秋の天皇賞は当然アブソリュートだろ」
「もし負けたら陣営の責任問題だろ」
激励と称して過激な書き込みも多い。
スポンサー企業からは「絶対に不出走なんて選択肢は許されない」と念押しされ、藤堂は「勝てば宣伝効果は爆発的だ。頼むぞ」と吉田に詰め寄る。
そこにはもう“馬の安全”を最優先しようという空気は欠片ほどもない。
そんななか、鞍上の伊藤誠も複雑な表情を浮かべる。
宝塚記念後から感じる馬の反応の違和感――スイッチが入れば走ろうとするが、その代わり何かを押し殺しているような躊躇(ためら)いがある。
「大丈夫だ、何があっても抑え込む」と強がりを言うが、内心では不安に押しつぶされそうだ。
「もし……もし、レース中に馬が悲鳴を上げたら。俺はどうすればいいんだ……」
こうして秋の天皇賞に向けて誰もが“勝利”を望む一方で、十分すぎるほどの“敗北”の匂いが漂っていた。
森川獣医師は「レース直前にこれ以上の注射はやめてください」と再三警告するが、最終判断を下すのは結局、馬主と調教師という現実。
ギリギリの範囲内なら法的には問題ない鎮痛剤が、明らかに上限に達しつつある。
「一体、誰がアブソリュートを殺そうとしているんだ?」
宮下は夜の厩舎でそう呟く。
馬主のビジネス重視? スポンサーの圧力? ファンの過剰な期待?
勝利を最優先しなければ厩舎が潰れると分かっている調教師も、結果を求められ続ける騎手も、北斗ファームの厳しい経営事情も――すべてが複雑に絡み合い、彼らを追い込んでいる。
馬を愛するはずの人々が、いつしか馬を犠牲にしているようにも見える。
それはもはや「事故」という言葉で済ませられる段階を超えているのではないか。
そして運命の日――秋の天皇賞当日。東京競馬場のスタンドは、グランアブソリュートの登場を待ち焦がれたファンで埋め尽くされている。
ゲート裏で伊藤誠が最後の確認をすると、馬は体温の高さを示すように小さくいなないた。
吉田は遠巻きに見守りながら、顔から血の気が失せている。
馬主の藤堂は逆に興奮気味で「行くぞ、アブソリュート!」と声を上げ、スポンサーやメディアは“伝説の続き”を期待してカメラを向ける。
――あの悲劇の結末は、すでにプロローグで語られたとおりだ。
しかし、それが本当に“ただの事故”だったのか。
それとも“誰かの手による殺人”だったのか。もし殺したのが誰かひとりではなく、複数の思惑が絡んだ結果だとしたら――。
いずれにせよ、秋の天皇賞を境にして、グランアブソリュートはもうこの世にいない。
その命が絶たれることは、今や止められない運命の歯車だったのか。真の犯人は誰なのか。
それを知るためには、さらに深く、あの馬が背負っていた運命の糸を解きほぐす必要がある。
馬房の隅に落ちている小さな薬品容器、メディアを牛耳るスポンサーの影、そして「勝利のためなら手段を選ばない」と口走った人間たち。私たちはこの先に潜む真実へ、一歩ずつ近づいていくことになるだろう。
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