第2話 2歳夏・新馬戦デビュー
夏の日差しがやわらかく降り注ぐ八月の札幌競馬場。
日本最北の主要競馬場として知られるここでは、夏限定の開催が行われ、涼やかな空気の中で若駒たちの新馬戦が続々と行われる。
新馬戦というのは、競走馬にとって生涯初めての公式レース。
2歳になったばかりの馬たちが、まだ何も証明されていないゼロからのスタートを切る大切な舞台だ。
「やっぱりキョロキョロしてませんね。落ち着いてるわ」
厩務員の宮下久美が、パドックで周回するグランアブソリュートを見つめながらつぶやく。
ほかの初出走馬たちは周囲に気を取られたり、落ち着きを失ったりしているものもいるが、グランアブソリュートは大観衆を前にしても物怖じしない。
「正直、ここまで落ち着いている2歳馬は珍しいな」
調教師の吉田猛も感心した声を漏らす。
先日までは「まずは無事にデビューを」と慎重な姿勢を見せていたが、この堂々とした気配に期待が膨らんでいるようだ。
「おいおい、あれが噂のグランアブソリュートか」
「馬体の張りがすごいな。血統もいいし、相当やれるんじゃないか」
スタンドからはファンたちのひそひそ話が聞こえてくる。
札幌競馬場のパドックはスタンドから近く、馬の状態を間近で見られるため、初出走馬に注目しているファンも多い。
父は重賞7勝の名種牡馬ヘイローザウルス、母はナイーブな血統ながら瞬発力に優れたフェアリーベル。
名門北斗ファーム生まれという肩書きも相まって、グランアブソリュートには“期待の星”としての視線が集まっていた。
「今日は頼むよ、アブソリュート」
馬主の藤堂俊和が、思わず柵越しに声をかける。
「まずは無事にゴール、それが何より大切です。もちろん勝てれば最高ですが」
吉田は穏やかにそう返すものの、その口元に浮かぶ微かな笑みは、やはり勝ちを意識している証拠だ。
やがて場内アナウンスが響き、新馬戦のゲート入りが始まった。
8頭立てのメンバーの中で、グランアブソリュートは外目のゲートへ静かに収まる。鞍上の若手騎手、伊藤誠が小さくうなずくのが見えた。
その瞬間、スタンドは水を打ったように静まり返り、次の瞬間、ゲートが勢いよく開いた。
「スタートしました!」
実況が高らかに告げると同時に、グランアブソリュートはやや控えめなスタートからスッと前につけた。
先行策を取るかと思いきや、伊藤が手綱を軽く抑えて中団に位置取る。
無闇に突っ込むことなく、前との距離を計りながら折り合いをつける形だ。
「落ち着いてるな……新馬でここまで冷静に走るか」
吉田は双眼鏡をのぞきながら唸る。若駒は気分次第で暴走しやすいが、グランアブソリュートは伊藤の指示にしっかりと従い、理想的なペースでコーナーを回っていく。
そして迎えた最後の直線。
前を行く先行馬たちが少しずつ脚色を鈍らせ始めたところで、伊藤は合図を送る。グランアブソリュートの反応は抜群だった。
「外からグランアブソリュート、一気に伸びてきたー!」
実況の声に応えるように、ぐんぐん加速し、あっという間に先頭を奪う。
ゴールまで残り100メートル――後続との差は見る見る広がり、2馬身、3馬身……。スタンドのファンからどよめきと歓声が巻き起こる中、グランアブソリュートは大差をつけてゴール板を駆け抜けた。
「圧勝だ……!」
「新馬戦でこのパフォーマンス、やばいな」
スタンドのあちこちから賞賛の声が飛び交い、写真撮影をする人々の姿も目立つ。馬主の藤堂はガッツポーズを取り、吉田に握手を求めた。
吉田は喜びを抑え切れない様子で、少し目尻を下げてうなずく。
「ご苦労、伊藤。完璧な騎乗だったな」
戻ってきた伊藤にそう声をかけると、伊藤は汗ばんだ笑顔で返す。
「いや、馬が強いです。直線でハミを取った瞬間、まだ余力があると感じました。もっと伸びる馬です」
一方で厩務員の久美は、馬房に戻る前にさっと脚元をチェックしながら、ふとした違和感を覚えた。勝利の興奮でグランアブソリュート自体も元気そうだが、右後脚をほんの一瞬だけ、かばうように上げ下げしている気がする。
「……大丈夫だよね?」
小声で誰にともなく呟いたものの、祝福ムードに包まれる周囲の喧騒にかき消されてしまう。
獣医師に診てもらったところ、「特に大きな問題はなさそうです。ただ、レースの反動がないかは注意してください」との回答。
久美は安心しながらも、どこか拭いきれない不安を胸の奥にしまい込む。
それを余韻にさせる暇もないまま、馬主や調教師、メディアが一斉に「この馬は大物かもしれない」と噂を立て始める。
父ヘイローザウルス譲りの瞬発力に母フェアリーベルの柔軟さ。
新馬戦での圧倒的な勝ちっぷりが、それを裏付けるかのようだ。
「いやあ、最高のスタートだ。今から先が楽しみだな」
藤堂の声には早くも次のレースや将来のGⅠ戦線を見据えた熱がこもっている。
吉田も「しばらくは状態を見ながら、よく検討しましょう」と応じるが、その言葉は決して否定的ではなかった。
確かにこの馬なら、さらなる高みへ駆け上がる可能性が大いにある。
歓喜に包まれた札幌競馬場の一角で、グランアブソリュートは静かに鼻を鳴らしている。
まるで「こんなのは序章に過ぎない」と言わんばかりに――しかし、その漆黒の毛並みに、一瞬だけ小さな影が落ちたことに気づく者は少なかった。
こうして、新馬戦を圧勝という最高の形で飾ったグランアブソリュート。
早くも「次は重賞か」とファンを沸かせ、関係者も口々に“怪物誕生”をささやき合う。けれど、その足取りにはほんの些細な違和感がある。
小さなささくれが、のちの大きな歪みとなって現れるのか――その答えを知るのは、まだ先のことだった。
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