第1話 生まれ、そしてデビュー前まで
北斗ファームは、北海道・日高地方の広大な牧草地帯に位置する牧場である。
競走馬の生産と育成を手がけ、長年にわたり数多くの活躍馬を送り出してきたことで知られている。
季節によっては雪に覆われる厳しい自然環境の中でも、広々とした放牧地やスタッフのきめ細かな管理体制によって、馬にとって過ごしやすい環境づくりを徹底しており、国内外の関係者から高い評価を得ていた。
雪解けを待ちわびる早春の頃、格子柄に縞を描いた馬衣(ばごろも)をまとった牝馬が、夜明け前の静寂を破るように小さくいななくと、そこに一頭の仔馬が産声をあげた。
仔馬の名は――グランアブソリュート。
ここ、北斗ファームのスタッフたちは彼の誕生を固唾を飲んで見守り、「やっぱりすごい馬が生まれたぞ……」と興奮を隠せない。
父馬は国内外の重賞を合計7勝した名種牡馬ヘイローザウルス。
筋肉質でありながら柔らかなフットワークを持ち、直線の切れ味が抜群という評価を得ていた。
その産駒は気性がやや荒いものの、一度火がつくと素晴らしいスピードを叩き出すのが特徴とされている。
一方、母馬は繊細な気質で知られるフェアリーベル。
こちらもGⅠを勝った血統から生まれており、瞬発力に優れる一族だが、とにかくナイーブで繊細な牝馬だった。
その血を引く仔は、丈夫さよりも気性面の取り扱いが難しいと評判だった。
そんな“攻撃的な血統”同士を掛け合わせて生まれたのだから、現場のスタッフは当初「気の荒い仔にならないか」と心配した。
ところが産まれたばかりのグランアブソリュートは、目に宿る光こそ鋭いものの、落ち着きがあり、むしろ周りを不思議と安心させる雰囲気を持っていた。
北斗ファームの場長・佐久間が、まだ立ち上がれない仔馬をなでながら言う。
「なんていうか、堂々としてるな。母のフェアリーベルが初仔を産んだときはもっとピリピリしてたが……こいつは違うかもしれん」
隣にいた若手スタッフの久美が微笑み、
「名前はグランアブソリュート――“絶対的な大きさ”って意味ですよね。まるで本当に、その名の通りになりそうな雰囲気です」
と、瞳を輝かせる。
それから時は流れ、緑が色濃くなり始める夏。
数か月齢を迎えたグランアブソリュートは、母馬とともに放牧地を駆け回りながら、日々すくすくと成長していった。
気性は総じて素直で、人間を怖がる様子も少ない。
だが、わずかに“負けず嫌い”な面がのぞくときがあり、他の仔馬が少し先を走るだけで「負けてたまるか」とばかりにピッチを上げる。
その走りはスピード感に満ち、遠目から見ても何か突出したものを感じさせた。
やがて年が明け、グランアブソリュートが1歳を迎える頃には育成の段階へ入る。ここでは“馴致(じゅんち)”と呼ばれる、人や鞍などに慣れさせる大事なトレーニングを重ねる。
素直な性格のおかげか、グランアブソリュートは比較的スムーズに馴致をクリアしていった。
だが、その最中に一度だけ、足を軽くひねったようで、右後脚に腫れが見られた。
大事には至らず、すぐに回復したものの、この出来事が、後々に尾を引く“伏線”になるとはまだ誰も思わなかった。
1歳の夏から2歳へかけて、徐々に体が大きくなり、背中やトモ(後躯)の筋肉が盛り上がっていく。
母譲りのしなやかさに、父譲りの強靭さが加わり、見栄えのする馬体に仕上がっていく。
そこへある日、ひとりの調教師が北斗ファームを訪れた。
「はじめまして、吉田猛と申します。グランアブソリュートを、うちの厩舎で預からせていただくことになりました」
そう名乗った男は、まだ40代半ばだが落ち着いた雰囲気をまとい、頑固ながらも馬優先を貫くと評判の若手実力派だった。
「吉田先生、大変お世話になります。この仔はかなりの素質を持っていますので、よろしくお願いします」
場長・佐久間がそう挨拶すると、吉田は手綱に軽く触れながらグランアブソリュートを観察し、「素晴らしい馬体だ……」と感嘆の言葉を漏らした。
さらにそこへ現れたのが、馬主の藤堂俊和。
自社の広告で競馬を大いにPRしようという、ビジネスマインドに富んだ人物だ。
「いやあ、わざわざ北海道まで来て正解でしたよ。これほどの好馬体なら、必ずやクラシック路線を狙える。GⅠ制覇だって夢じゃない」
藤堂の高揚した声に、吉田は慎重な口調で応じる。
「確かに、この仔には大きな可能性を感じます。ですが、まだ2歳に上がったばかり。焦らずコンディションを見極めながら進める必要があるかと」
「ははは、もちろん分かってますよ。でも期待してますからね、先生。良い結果が出れば、こちらとしてもスポンサーを呼び込めるし……」
ビジネスの香りをちらつかせながら笑う藤堂に、吉田は「はい、しっかり育ててまいります」とだけ答えた。
こうしてグランアブソリュートは、2歳春を前に吉田の厩舎へと移り、本格的な競走馬としてのトレーニングに入ることになる。
競馬の世界では、馬たちはおおむね2歳になると“新馬戦”を迎え、そこで公式のデビューを果たすのが通例だ。
調教といっても、坂路やコースを使ってスピードとスタミナを培い、馬群やゲートに慣れさせ、競走に必要な経験を積まなければならない。
グランアブソリュートにとって、それは未知の挑戦だったが――初めての厩舎でも、その物怖じしない性格が幸いして、順調に馴染んでいった。
「アブソリュート……なかなか気性がいいね。乗り手を困らせるような暴れ方はしない」
厩務員の宮下久美が微笑みながら、手綱を引く。
「それでいて一度スイッチが入ると、とんでもない脚力を見せる。こりゃ、大きいところ狙えますよ」
久美の隣で、まだ若手の助手がうなずく。
「けど、昔ちょっと脚を痛めたことがあるんですよね? そのへん、先生はどう見てるんでしょう」
すると後ろから吉田が現れ、
「長く引きずるほどの怪我じゃない……ただ、無理をさせすぎないように、日々の状態はしっかりチェックしておかないとな」
と厳しい表情で釘を刺す。
若馬とはいえ、2歳シーズンから獲得賞金を重ねれば、いずれはクラシックレースやその他の大舞台を狙える。
だが、それには馬のコンディション維持が不可欠だ。
吉田は勝負師であると同時に“馬ファースト”を信条としているだけに、余計にそのバランスに気を配っていた。
そして迎えた2歳夏。
いよいよ、グランアブソリュートの新馬戦デビューを控え、気候が涼しくなる北海道シリーズを使うか、本州へ移動して大きな競馬場を目指すか、藤堂や吉田が相談する。
「佐久間場長からは、札幌の新馬戦がちょうどいいんじゃないかと言われてます」
吉田が進言すると、馬主の藤堂はすぐさま賛成した。
「いいね。デビュー戦で派手に勝つところをアピールして、スポンサーにも話を通したい。すでに注目されてる馬だから、今からでも数多くのファンを味方につけたいんだよ」
「まずは無事に走ってくれれば十分……いや、もちろん勝ちを狙わせたいですけどね」
吉田は穏やかに応じたが、その瞳の奥には強い決意が宿っている。
何より大切なのは、グランアブソリュートの“本質的な能力”をしっかりと引き出すこと。
そして、気性面や脚元のリスクをケアしながら、長い先を見据えて育て上げることだ。
いよいよデビューが間近に迫った。
厩舎周りは慌ただしさを増し、夜の鞍下(くらした)検分や最終調整の手綱合わせなど、すべてが新馬戦に向けての準備である。
馬主も調教師もスタッフも、そして一部の競馬ファンも、「この馬は大物だ」と囁いている。
父と母の血統の良さを背景に、トレーニングで示す素質と柔軟さは、まさしく“絶対的”な可能性を感じさせた。
「先生、明日の朝も坂路入れるんですか?」
「そうだ。コンディションはいいが、あと一押し、スタートの反応を確かめたい」
「了解です。久美も準備しておいてくれ」
「はい、任せてください!」
厩舎の空気は、期待と緊張を孕んだ一種独特の高揚感に包まれている。
どんなスターも最初はこの“新馬戦”から始まり、輝かしい舞台へと上り詰めていくのだ――もしグランアブソリュートがその資質を開花させたなら、クラシックはもとより、GⅠ戦線を勝ち進む姿も現実味を帯びるだろう。
夜になると、静まり返った馬房でグランアブソリュートが眠りにつく。
月明かりがその漆黒の毛並みを淡く照らし、まるで宝石のような存在感を放つ。
誰も知らないが、この馬は、やがて日本の競馬界を席巻するほどの走りを見せるに違いない……。
その未来がまだ、純粋な希望だけで煌めいていた頃。
こうして、2歳夏の新馬戦に向けて準備を整えたグランアブソリュートは、いよいよ最初の大舞台へ――。
「さあ、いよいよデビューだ」
吉田がつぶやく。
期待と不安、そして高揚感。
それらすべてを背負って、グランアブソリュートという“原石”は本当の競走馬としての一歩を踏み出すのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます