蹄の血を抱いて─グランアブソリュート最期の疾走
三坂鳴
プロローグ
秋晴れの空が広がる十月末の東京競馬場。日本最高峰のレースのひとつ、天皇賞(秋)が行われる日だ。
GⅠレース――それは国内の競馬における最も格式と栄誉の高い舞台のこと。多くのファンが“現役最強馬決定戦”として注目し、とりわけ秋の天皇賞は中距離のスペシャリストたちが激突する伝統の一戦として知られている。
そのパドックに、堂々とした馬体で周回するのがグランアブソリュート。
黒鹿毛の艶やかな毛並みからは、これまでの激戦を乗り越えてきた力強さが漂う。
4歳となった今、GⅠを何度も制してきた実力は、数多の名馬をも凌駕する勢いだ。この日の単勝オッズは1番人気。
会場のビジョンにも大きく「Grand Absolute」の文字が映し出され、観客からは「やっぱり今日も勝つだろう」「あの末脚は本物だよ」と興奮混じりの声があがる。
「……落ち着いてるな。さすが、堂々たるもんだ」
グランアブソリュートの主戦騎手・伊藤誠が、パドックでその背を撫でながら呟く。
大一番を前にしても、この馬はいつもと変わらぬ目つきをしている。
むしろ燃え立つような闘志が内に秘められているのを感じさせるほどだ。
しかし伊藤の眼差しには、ほんのわずかだが迷いの陰があった。
調教での動きは完璧だった――けれど、なぜだろう。胸の奥底に不安が小さく疼いている。
ライバル馬たちを見渡すと、その中にレイジングサンダーの姿があった。
負けず劣らずの素晴らしい馬体で、今年は重賞を連勝し一気に力をつけてきたライバルだ。
「最強馬対決」と評される今回の天皇賞(秋)は、この2頭の競り合いに焦点が当たっている。
スタンドの大歓声を背に、各馬がゲートへと収まる。
芝二千メートルのスタート地点、最後にグランアブソリュートがすっとゲートインすると、東京競馬場のボルテージは一気に最高潮に達する。
「スタートしました!」
場内アナウンサーの鋭い声が響く。
まずはレイジングサンダーが好スタート。グランアブソリュートはその少し後ろにつけて流れを伺う形だ。
前半のコーナーをスムーズに回りながら、ライバルとの差をじわじわと詰める。
伊藤は絶妙なハミ使いで折り合いをつけ、道中は実に冷静なペース配分だ。
「このまま直線を迎えれば、末脚勝負はグランアブソリュートが優勢でしょう!」
実況アナウンサーも興奮を隠せない。
そして迎えた最後の直線。
グランアブソリュートが外に持ち出し、一気に加速する。まるで弾かれた矢のように伸びるその脚に、スタンドからは割れんばかりの歓声が上がった。
ライバル・レイジングサンダーとの一騎打ちになるか……と誰もが息を呑んだ瞬間だった。
「――あれ? 脚色がおかしい! グランアブソリュート、外に膨れて失速だ!」
実況アナウンサーの声が裏返る。
今までの伸びが嘘のように、グランアブソリュートが急にスピードを落とした。
伊藤が必死に手綱を抑えながらバランスを取ろうとするが、馬体は明らかに左へ傾ぎ、危険な挙動を見せる。
直線の半ばで伊藤は咄嗟に下馬を決断。
「グランアブソリュート、競争を中止しました!」
東京競馬場に無情なアナウンスが響き渡り、どよめきが走る。
歓声が悲鳴に変わるまで、ほとんど時間はかからなかった。
伊藤の表情は蒼白で、その手には冷や汗が滲んでいる。
馬場に倒れ込みそうになるグランアブソリュートの右後脚は、不自然な角度で曲がり、地面に力なく触れていた。
救護スタッフや獣医師が急いで駆け寄り、馬運車が手配される。
スタンドからは「頑張れ!」「大丈夫か……?」という声が飛び交い、SNSでも瞬く間に“グランアブソリュート競走中止”の情報が拡散される。
GⅠの舞台、しかも1番人気がまさかのリタイア。
衝撃が広がっていく。
しかし、それ以上の悲劇がすぐに明らかとなった。
スタッフが一目で深刻な状況を把握するほどの重度の故障――。
大舞台で戦うサラブレッドにとって、骨折といった重傷は命に関わる。
特に脚を大きく損傷した場合、多くは「予後不良」(安楽死) という現実から逃れられない。
まばらに行われる拍手や応援の声も、次第に沈黙へと変わっていく。
厩舎の獣医師が無言のまま首を横に振り、馬運車への誘導がすらすらと進まない。グランアブソリュートは耐えきれない痛みにうなり声を上げ、伊藤がその首元を撫でながら「すまない……すまない……」と必死に声をかけている。
周りのスタッフたちも、その目には涙が滲んでいた。
そして数分後――重篤な故障を踏まえ、獣医師は「予後不良」と判断し、安楽死処置を下す。
東京競馬場全体が重苦しい空気に包まれた。
巨大スクリーンには「グランアブソリュート 競争中止」の文字が映り、一部のファンは呆然と立ち尽くし、ある者は涙を流して肩を震わせる。
勝利を信じてやまなかった圧倒的1番人気の馬が、まさかこんな形で散ってしまうとは――誰もが想像していなかった結末だった。
レース後、主催者や関係者から正式に「グランアブソリュート、予後不良」の発表があると、ニュースは瞬く間に日本中へ伝わっていく。
最強と謳われたサラブレッドの最期。
人々は「どうして、こんなことに……」と動揺と悲しみに包まれながら、その理由を探し始めた。
しかし、これは本当に“ただの事故”なのか?
あれほどの力を持つ馬が、よりによって最大の舞台で突如崩れ落ちたのはなぜか?
馬の可能性を信じていた騎手や調教師、夢を託していた馬主、熱狂的に応援していたファン……その誰もが“殺意”を抱えていたわけではないだろう。
けれど、もし何か見過ごされた事実や、隠されていた背景が存在したとしたら――。
「なぜグランアブソリュートは死んだのか? 事故? それとも――」
その問いの答えを知るためには、彼が生まれた日からの物語を遡る必要がある。
華々しいレース実績とは裏腹に、そこには小さな歪みが積み重なっていたのかもしれない。
いまはまだ誰もその全貌を知るすべはない。
だが、グランアブソリュートを“殺した”者がいるのだとしたら。
いったいそれは誰なのか?
どんな理由で、この世紀の名馬を無残な最期へ追い込んだのか――。
秋の空はいつの間にか曇天に変わり、東京競馬場のスタンドには暗く重い空気が漂っていた。
かつて鳴り止まなかった熱狂と喝采は、いまや静寂と落胆へと変わっている。
その静寂の中から、「どうして死んでしまったんだ……」という誰かの呟きが、痛々しく響いていた。
真の“犯人”を暴くためには、グランアブソリュートが駆け抜けてきた全てを知るしかない。
これから振り返る物語こそが、その鍵を握っているのだ。
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