第十二章:紫煙たゆたえ
第一幕 息の仕方さえ
草木が眠りから覚める春が訪れ、若葉が空へ向けて手を広げる夏が来た。太陽は人々を空から射抜くも、やがて人生の最後の色と言わんばかりに地上の紅葉を促した。
赤はやがて土色になり、それを覆うかのように静かに白が降ってくる。
シヅルがいなくなったあの秋冬から、気がつけばもう一年が経っていた。終戦の気配は息を潜め、科学が発展していく日本は、文字通りの平和な国になりつつある。無意味に死が人命を脅かすことも、死ぬことが正義であると諭されることもない。
そんな日本の本所で、朧介はただ生きていた。
豆腐小僧が営むそば処の二階、その片隅にある空き部屋が朧介の城だった。
太陽が昇るのと同時に目を覚まし、窓際に座って静かに煙草を吹かす。食欲もなければ、何にも興味はわかない。通りを歩く人を眺めても、時間によって綺麗に移り変わる空模様を目に映しても、心はピクリとも動かない。
戦時中、上官に言われた言葉がたまに脳裏に浮かび上がる。「お前たちが死んでも、季節は変わらず流れる」と、そう言った上官は、あの孤島の激戦で知らず内に死んでいた。
だが確かに、彼が死んでもこうして季節は流れ続けた。そしてそれは、あの日……朧介の代わりに命を失ったシヅルも例外ではない。
彼女がいなくても、こうして季節は巡っている。彼女をだけを過去に残して。
朧介の心も、ずっとその過去に囚われていた。日に日にすり減っていく心は体を動かすことをさせず、ただ心臓だけを辛うじて動かす。食い扶持がないと死んでしまうからと、豆腐小僧がそば処で雇用したものの、具合が悪い時の朧介はそれこそほとんど働く事が出来ない。賄を出してもほとんど喉を通らず、豆腐小僧や猫又が気を回さなければ水だって飲まない時が多々あった。常に瞳はどこか遠くを見ていて、その姿は今にも消えてしまいそうに周りの妖怪達に映った。
そんな朧介を心配した鏡雅が、ある時から頻繁に顔を見せるようになった。大方、豆腐小僧辺りが何気なしに相談したのだろう。来るたびに鏡雅は差し入れとして煙草や酒を置いていく。朧介が食事をろくにしないという情報を得ているからなのか、不思議なことに食べ物らしい食べ物を置いていくことはしない。無理強いをすることをせずその塩梅を理解しているのは、彼に半分人間の血が流れているからなのか。
「そんなに煙草ばかりだと、栄養が足りないよ」
ある時彼は、夜も更ける頃合いにふらっと現れ、窓際で煙草を吹かす朧介のそばに座って酒をあおりながら言った。
「肺も痛んでしまうから、少しは本数を減らしたらいい」
ふいに、鏡雅がポケットから白い包みを一つ取り出して床に置いた。はらりと開けた中にはビー玉のように丸く透き通った飴玉が入っていた。
朧介の視線がそれを捉える。少しだけ眉間に皺が寄って目が細められたが、すぐにまた窓の外に目を向け、紫煙をたゆたわせる。部屋に充満したその匂いが、二人の間を隙間なく埋めていく。
「……なぁ、雪田さん」鏡雅が名を呼ぶ。
「オレと、前に神社で話したこと、覚えてるかい?」
少しだけ顔を動かして鏡雅を見れば、窓の外の月光を浴びた彼の瞳が、真っ直ぐに朧介を見ていた。覚えていないと答えようとすれば、それを察したように鏡雅が口を開く。
「オレは、あんたに幸せになって欲しかったんだ。でも、いざ解呪しても……結局雪田さんは幸せにはなってない」
「……何が言いたい」
思わずムッとした声が出た。
左手で挟んだ煙草から灰が零れて畳に落ちる。立てた膝に右肘を乗せて頭を抱える。
あの日、シヅルは文字通り全てを消していった。朧介に巣くっていた願抱の呪詛も、十年にも及んだ折檻の後も、戦争での傷跡も、そして……すべての始まりの日、神社の火災で負った火傷の痕も。
最初からそんなものはなかったかのように、朧介の体には何も残されなかった。だというのに――シヅルの面影だけが、消えずに朧介の心に残されている。
思わず、ため息が出た。
自分を見遣っている鏡雅に視線を飛ばし、煙草を一度深く吸う。その紫煙を大きく吐き出すまで、鏡雅は何も言わずにただジッと待っていた。
「……何も、残ってないんだよ」
今では滅多に聞かない自分の声は、どこか他人の物のように感じる。
「俺を縛っていた呪詛も傷も、何もない。最初からなかったかのように綺麗にな。だってのに……シヅルの事だけは、消えないし……忘れられない」
チクリと痛む心臓を、着ているシャツの上から空いた手で握り締める。どくどくと動くこれだけが日々を刻んでいく。持ち主の思いも、生きろと願ってくれた彼女の存在も過去に置き去りにして。
「心に穴が開いたみたいだ、ずっと。苦しくて、息の仕方を忘れそうになる。煙草でも吸ってないと、俺はもう息の仕方さえよくわからねぇんだ」
命よりも大切だった、そうぽつりと零せば、鏡雅は何も言わなかった。言えなかったのかもしれない。
短くなった煙草を灰皿に押し付けて、新しい煙草を箱から取り出す。咥えて火をつけようとすれば、その腕を鏡雅が掴んだ。
何をするんだと力なく見れば、彼は何も言わずに朧介の手からマッチを取り上げた。それを一度刷って火を起こし、ゆっくりと朧介の煙草に近づけて着火させる。
「……ごめん、雪田さん」
橙色の火を映した瞳が、泣き出しそうに揺れていた。
酒を飲んでも赤くなっていなかった瞳が、赤く充血している。
「オレ、何もしてあげられないくせに、さっき一瞬あんたを責めそうになった。幸せになるのが使命だろって、そう言おうとした」
役目の終わったマッチを灰皿に落とした手が、朧介の顔に伸びる。咥えている煙草の先端が鏡雅の腕が当たらないようにと、少しばかり顔の向きを変えてやれば、するりと彼の手が左の頬を包んだ。
シヅルと同じで、人より低い。しかし半妖ゆえに……彼女より、少しだけ温かい。
その体温が心地よくて思わず目を閉じれば、瞼の裏に彼女を見た気がした。
「……雪田さんにはもう呪詛はない。今はもうただの人だ。だからいつか、オレみたいな半端者や妖怪達が見えなくなる日が、きっと来る……いや、来なくちゃいけない」
声が震えていた。頬を包んだ手が、存在を確かめるように頬を撫でた。
「だけど雪田さんがずっと今に囚われていたら……それは来ない。ちゃんと人間に戻るには、この苦しみを連れて歩いてはいけない」
「……全部、忘れろってか」たまらず、声が震えた。
「そうは言ってない」鏡雅が俯きながら首を振る。
「……シヅルさんは、雪田さんの幸せを願っていた。それがどういう事か、考えて欲しいだけだよ」
頬から手が離れていく。もう一度顔をあげた鏡雅が、どこか寂しそうに微笑んだ。
「じゃあ、また」
彼は音もなく立ち上がれば、そのまま振り向かずに部屋を出て行った。遠ざかっていく足音に耳を済ませながら、朧介はさっきまで触れられていた頬にそっと触れる。
そこには既に、何の体温も残ってはいなかった。
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