第二幕 二度と呼べない名前
頬に当たる風と土の匂いを感じて、朧介は瞼を持ち上げた。
仰向けに横たわった朧介の目の前には夜空が広がり、静かに星が瞬いている。
ゆっくりと上体を起こせば、胸の上にあった何かがするりと地面に落っこちた。思わず目で追う。シャランと綺麗な音をさせたそれは――朧介がシヅルに買ってやったガラス細工の簪だった。
思わず目を見開いて、手を伸ばす。
震える指先でそれに触れれば、ざぁっと吹いてきた風に連れて来られた花びらが、夜空へと舞い散っていった。
それが、まるでシヅルの魂のように感じて、思わず手を伸ばす。
だが掴めず、そのまま手は力なく地へ落ちた。
「シ、ヅル……」
簪を握りしめて胸に抱く。自らが刺したはずの心臓の傷は、嘘のように消えていた。
「……ぅ、ぁあ……っ!」
心臓から溢れたのではないかと錯覚するほどに、体の中央をせり上がってきた涙が両目を溶かす。
徐々に鮮明になる頭で、理解した。
シヅルが、自らの命と引き換えに……雪田朧介という人間を生かしたのだと。
「なんで……なんでこんな……っ」
胸に抱いた簪に問いかけても答えは返ってこない。そんな事、わかっている。わかっているのに、問いかけずにはいられない。
胸を掻きむしりたくなるような焦燥感に駆られ、息が上手く出来ない。地に膝をつき、前屈みになってその悲しみを内に抑えようとしても、どんどん溢れたそれは嗚咽に変わり続ける。
「うぁあ……っああ、あっ!」
自分のものとは思えない慟哭が、夜の森に木霊する。額を地面に擦りつけるように身を悶えさせても、心のうちから湧き上がる悲しみは消えやしない。
こんな結末を、朧介は望んでいたわけではない。
しかしこれが、シヅルの望んだ結末だったのだ。
ただ、雪田朧介という人間に生きて欲しい――それが、彼女の願いだった。
「シヅル……ッ」
その名を、もう二度と呼べないという事実が、ただただ苦しい。
今すぐにでも、もう一度この心臓を貫いてしまいたかった。何もかも、己の存在も命もぐちゃぐちゃにして、なかったことにしてしまいたい。してしまいたいのにそう出来ないのは、朧介の体に微かに残る彼女の匂いが……まるで抱きしめるかのように朧介の心に寄り添っていたからだ。
握った簪は、もうシヅルの体温も輪郭すらも残してはいない。
けれど、そこにまだ彼女の魂がある気がした。
まるで、大丈夫だと、
「……、」
そう、彼女が微笑むようで――。
「…………ッ」
悲しみは、いつまでも耳で鳴り続ける。木々のざわめきも、星の瞬きも、朧介には届かない。届くのは、悲しくも規則正しく鳴る己の心音だけだった。
朧介はしばらくずっと、ただただその場で泣き続けた。
……やがて降って来た通り雨が体を濡らしても、ぽっかりと心に空いた穴の中が満たされることはなかった。
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