第十一章:二人の始まりの日
第一幕 愛しております
気がつくと、朧介は懐かしい場所に立っていた。
緑が青々と茂る森の中、目の前にはまだ子供だった頃、毎日のように出かけていた神社が聳え立っている。
「なんで、ここに……」
辺りを見渡すが、人の気配はない。吹く風はどこか懐かしい匂いをしているのに、自分の姿は大人のままだった。
「…………」
導かれるようにして、その足をゆっくりと本殿の中に向ける。閉ざされた戸を開け中に入ると、外とはまた違った凛とした空気が流れてきた。
床の板には、あの頃自分がこっそりおいていた座布団が残されていて、書物を読むときに使っていた栞や、寒い日に包まっていた毛布までもが当時の姿のままそこに在る。
そして本殿中央には……あの日、火災から逃がすように持ち出したはずのご神体が静かに鎮座していた。
(……そうか、これは、走馬灯のようなものか)
今はもう失われたはずの光景に、朧介は内心独り言ちた。ご神体はあの日、自分が持ち出したゆえにここにあるはずもなく、それ以前にこの神社はあの日――燃えてしまったのだ。
(思えば、何もかも……始まりはここだったな)
よいしょと、本殿の中央の床に胡坐をかいて座ってみる。不思議と心は穏やかで満ち足りていた。怒りも何も、今となってはもう、遠い昔の事のように感じてしまう。
思えば、ここに通っていた頃……朧介は悲しみの味も、不幸の味も何も知らなかった。父はいなくとも母がいた。母がいてくれたことで、朧介は陽の下で生きられていた。ここに通って本を読んだり、昼寝をしたり……そうやって時間を過ごしていく。
たった独りだというのに寂しく感じなかったのは、きっとこの神社の中で何かの気配を感じていたおかげでもあったのだろう。
幼かった朧介の視界の隅に映る白い光、何処かから覗き込む視線――。
「……あ、」
思い出した途端、目の前に突如ふんわりとした白い光が浮かび上がった。それは間違いなく、朧介が子供の時にこの神社で感じ取っていた気配を身にまとっている。
「あの時の……」
手を伸ばしてみれば、その白い光はゆっくりと朧介の手の先に来る。まるでくちづけをするかのようにそっと触れた後、今度は背中の方へ飛ぶ。二度ほど背中を擦るように動いた後、もう一度朧介の目の前に戻って来た。
「きよめごみたいなこと、するのな」
頬を緩めてまっすぐ光を見れば、その光がゆっくりと朧介の頬に近づき、まるで頬ずりをするかのように体を寄せた。
瞬間、
――花の様に温かい、彼女の匂いがした。
ざぁっと本殿の中を風が走る。
「シヅル……」
朧介の口は、自然と彼女の名を呼んでいた。光が再び目の前に戻ってくる。
「……そうか、君だったんだな」
言った途端、聴きなれた耳飾りの綺麗な音が聴こえた。
光が姿を変え、目の前にシヅルが降り立つ。華やかないつもの格好に、朧介があげた簪が添えられていた。
「……黙っていたこと、お許しください」
ふわりと目の前に降り立った彼女は少しばかりかしこまった口調でそう言って、ゆっくりと頭を下げた。
「ようやく合点がいったよ。君が俺のそばに来てくれたことが」
ここで、出会っていたんだな。
そう言って笑えば、シヅルは少しだけ頬を緩めて頷いた。
「あの日、この神社を火災が襲った時……貴方は自らの命をかけてご神体を持ち出してくれた。ご神体が焼けてしまえば、神もその力を発揮できなくなる……この地域に住み、加護を受けていた私達のような弱い妖怪も、存続が危うくなってしまうはずだった。その危機を救ってくれたのは……朧介殿、貴方だった」
シヅルの声に黙って耳を傾ける。その一音一音が、もう今は懐かしい気がして仕方がなかった。
「だけどそれと引き換えに貴方の辛い日々が……全てここから始まってしまった。もしここであの日、私達を守って火傷を負わなければ……貴方の人生は幸せなものになっていたかもしれない。呪詛を体に刻まれることもなく、誰かを憎んで辛い思いをすることも、魔羅螻蛄の宿主にされることもなかったはずだ」
「シヅル……」
「私は、貴方に恩を返したかった。か弱い低級の妖怪でも、免妖になれば貴方を守ることが出来るかもしれない……貴方の呪詛をどうにか出来るかもしれないと……ただそれだけを胸に何年も修行に励んだ。だけど、間に合わず……貴方は戦地に送り込まれ、その結果、魔羅螻蛄の宿主にまでされてしまった」
「……最初から、俺の中の魔羅螻蛄には気がついていたんだな」
朧介の問いに、シヅルは素直に頷く。
「戦時中、何度も何度も、遠い場所に連れていかれた貴方の命の気配を追った。死ぬように仕向けられたという貴方が、いつ死んでしまうかと……そればかりが心配だった。そしてあの夜、貴方の命に魔羅螻蛄の核が融合したことも、私は察知した」
嘘だと思いたかったと、シヅルは唇を震わせた。涙が出そうになるのを懸命に堪えるかのように、一時の沈黙が落ちる。
「……貴方に会うまでは信じたくなくて……嘘であればと願っていた。だけど、あの日再会した貴方の中には、間違いなく核が宿されていた」
ふと、朧介の頭の中で……焼ヶ野の茶屋でシヅルに出会った時の光景が浮かんだ。あの時彼女は朧介の顔を見て、「やはり、貴方が……」というような言葉を呟いたのだ。あれが……彼女が魔羅螻蛄の存在を、雪田朧介という人間の中に確認した瞬間だったということか。
「貴方に再び会えたことは嬉しかった。だが免妖である以上、魔羅螻蛄は必ず倒さなければならない。そうなった時……核を宿した貴方は無事ではすまないかもしれない。だからそうなった時は……何もかも、全てを私が請け負ってでも、貴方を救おうと心に決めていた。シロクはそんな私のわがままにずっと付き合ってくれた……彼にも、感謝している」
シヅルの白くて細い指が伸びてきて、朧介の両手を包み込むように触れた。低い彼女の体温が妙に懐かしく、じんわりと肌に染み込んでくる。消えてしまいそうに儚いその温度に、思わず朧介も手を握り返した。
シヅルは一瞬驚いたような顔をしたが、すぐに目元を緩めて朧介を見た。宝石のような瞳がまた揺らいだ。
「朧介殿には、きよめごの施しの印がちゃんと残っている。聖霊山の加護によって、今ここに呪詛は解呪される。何もかも、心配ごとは私が消し去る。だから――」
声が、涙で詰まった。
ポロリと、輝く雫が彼女の頬を伝う。
「――だから、生きて……どうか幸せな人生を歩いて欲しい。私の願いは、貴方が幸せになってくれること。ただ、それだけ」
握りあった手が、震えていた。だがそれはシヅルの震えではなく、朧介自身の震えだった。彼女の言葉に覚悟を感じたのと同時に、彼女が現実世界で、死んだはずの朧介に何をしたのか……それが脳裏によぎったからだ。
「……まさか、」
喉の奥が強張って、声が出ない。
察知したシヅルが、にこりと柔らかく微笑んだ。ゆるゆると首を振って、右手の人差し指をそっと、朧介の唇に触れさせる。まるで、それ以上何も言わないでと言わんばかりに。
「シヅル、駄目だ。そんなことは――」
言葉は最後まで音にならない。シヅルが正面からぎゅっと朧介を強く抱きしめたからだ。
「…………朧介殿、」
「シ、ヅル……」
「愛しております」
噛みしめるような……胸が苦しくなる一声。
これが最後だと言うように、彼女の匂いが優しく香った。
「だから、どうか……」
幸せになってくださいね。
その言葉を最後に、温もりは遠くへと引き離され、何もわからなくなった。
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