第2話 君のいない世界は



「おかえりなさい、想」


 学校から少し離れた、閑静な住宅街。その中でも一際目立つ、洗練された外観の建物が水沢の家だった。


「お友達も。いらっしゃい」


「は、はい。おじゃまします」


 玄関で出迎えてくれた水沢のお母さんに、いつも騒がしい男子たちが、めずらしく緊張したようすであいさつしている。見た瞬間、水沢は、お母さん似だったのだとわかった。若くて、まだ可憐な雰囲気を残した、綺麗で優しそうなお母さん。目が合うと、わたしにもにっこりと微笑ほほえんでくれた。


「なあ、水沢。今の、お姉さん……じゃないよな?」


「本人に言ってやってよ。よろこぶから」


 男子の反応に、おかしそうに笑う水沢のあとについて、廊下を進む。そして、今日の作業場所だというリビングに通されて、また息をのんだ。


「うわ。なんか、すげえ」


「…………」


 驚嘆の声を上げる男子たちと逆に、わたしは言葉を失う。


「すごい? 何が?」


 不思議そうに聞き返す水沢は、この部屋で当たり前のように生活しているから、何がすごいのかなんて、本当にわからないのだろう。わたしでも雑誌や映画の中で目にしたことがあるような、デザイナーズ家具の数々。中央に置かれたアンティーク調のめずらしいグランドピアノに、壁一面の棚に並べられたCDやアートの本。


 そんな現実離れしたものが自然に部屋に馴染なじんでいて、何より広い部屋なのに手入れが行き届いていることから、水沢の家族の丁寧な暮らしぶりがよく伝わってくる。改めて、自分を取り巻く環境のひどさを思い知らされるようだった。


 まるでゴミ屋敷みたいな、お兄ちゃんの部屋。お母さんがそれを黙認しているせいか、家全体から漂う雰囲気まで、どこか不潔で、だらしなく。お父さんは、そんな状態を感じとりつつも、いつでも問題から目を背けたまま。


「すごいっしょ。普通、こんなピアノなんか部屋に置いてないし」


「親の仕事道具みたいなものだから、べつにすごくないよ。そんなことより、やらなきゃいけないこと、早く片付けようよ」


「そう、だな」


 ぎくしゃくしながらテーブルの前に座らせてもらったところで、今度は小学生くらいの小さな女の子が、おいしそうな焼菓子をのせたトレイを持って、恥ずかしそうに顔を出す。


「えっと、いらっしゃいませ。お兄ちゃん。お母さんがね、これもみなさんで食べてくださいって」


「持ってきてくれてたの? お手伝いして、えらいね。ありがとう、よる


 妹がいるのは知らなかったけれど、水沢によく懐いているようで、水沢にお礼を言われると、うれしそうに笑った。少し日本人離れした水沢と水沢のお母さんの顔立ちとは違った、奥二重の瞳が印象的な可愛らしい子。


 男子たちの話では、お父さんは大学病院の精神科の医者で、お母さんは海外でも活躍するようなピアニストだという。特別な両親に豊かな生活、愛情あふれる家族関係。これでもかというくらい、水沢がわたしと全然違う世界に生きている人間だったことを見せつけられてしまった。


「あー、やっと終わった」


 集中できないまま、黙々と指示されたことをこなしているうち、グループ全体の課題は仕上がっていた。


「もう、こんな時間か」


 水沢の言葉に時計を見上げると、6時半を過ぎたところ。


「やべ。塾もあるし、帰んなきゃ」


 男子たちが、慌てたようすで帰り支度を始める。わたしも筆記用具をペンケースに詰めたりしながら、来るときに水沢が言いかけたことを考えていた。でも、ここでは……。


「課題、終わったのね。お疲れ様」


 靴を履いていたら、玄関まで見送りにきてくれた、水沢のお母さん。なんとなく、視線を感じて、緊張する思いでいると。


「想」


 水沢のお母さんが、すぐ後ろにいた水沢を呼んだ。


「佐藤さん、送ってあげなさい」


「えっ? いえ、大丈夫です……!」


 続くお母さんの提案に驚いて、大きく首を振る。


「ううん。このへんは人通りが少ないし、道も暗いから。ね? 想に送ってもらって」


「でも……」


 純粋に助かるし、うれしいと思ったのだけれど、水沢のようすをうかがうと、どうも居心地の悪そうな表情をしている。


「想。佐藤さんに何かあったら、大変でしょ?」


「ん。頼りないみたいだけどね」


 昨日のわたしの言葉を根に持っていたらしく、そんなよけいなことを言ってから、水沢も靴を履いた。


「気をつけてね」


 笑顔で手を振ってくれるお母さんに頭を下げて、門の外に出る。たしかに、初夏とはいえ、薄暗いけれど。


「面倒だったんなら、断ればよかったのに」


 さっきの水沢の気乗りしないような態度が、気にかかっていた。先を歩く男子たちの騒がしい笑い声も、なんだか気に障る。


「そんなことないよ。あ、おかえり。今日は早いね」


 いつもの飄々ひょうひょうとしたようすに戻った水沢が、前から歩いてきた男の人と軽くあいさつを交わした。


「お父さん?」


「そう」


「そう……なんだ」


 お父さんの方は、わたしたちの親と同じくらいの歳だろうか。頭のよさそうな、目を引く感じの品のいい人で、想像したとおり、夜と呼ばれていた妹に似ていた気がする。


「そうだ。水沢」


 たった今思い出したようなふりをして、ずっと考えていたことを切り出す。


「来る途中、水沢が……」


 と、そのときだった。


「あれ、佐藤の兄ちゃんじゃね?」


 一人の男子の声に、体がびくりと震えた。人違いであることを祈りながら、男子たちが見ている方向を確認すると、周囲をうかがうような動きで通りの向こうを歩いているのがわたしのお兄ちゃんなのは、疑いようがない。


 いつも着ているパーカーのフードで顔を隠しているけれど、醜く太った大きな体からは、ここまで不潔な臭いが漂ってくるようだった。


「やばい。前見たときより、レベル上げてるし」


「気持ちわりい。てか、汚ねえ。あれと一緒に住んでる佐藤、尊敬するしかねえわ」


 男子たちが、げらげらと笑い合う。手に汗がにじむ。恥ずかしさに体が震えて、言い返すこともできない。


「同じ親から生まれてるんだから、あれと佐藤の遺伝子は、全く同じってことだろ? やばくね? キモすぎ、佐藤」


 よりによって、お兄ちゃんを水沢に見られて、水沢の前でこんなことまで言われるなんて、いっそ消えてしまいたいと思った、そのとき。


「おまえら、佐藤のこと、そういう理由でからかい続けてたの?」


「えっ? あ」


 耳に入ってきたのは、いつもの水沢の口調ではなかった。


「佐藤の気持ち、少しは考えろよ。そもそも、そういうの、どうなの? 人として」


 男子たちも、水沢が本気で怒っていることを察して、「やばい」という雰囲気になる。


「や、ごめん、水沢。調子に乗って、ふざけすぎたというか……なあ?」


「そうそう。佐藤も。悪かったよ」


 本気で謝っているわけではないのは、一目瞭然だったけれど。


「べつに」


 とにかく、ここでお兄ちゃんの話題を引きずりたくないから、納得したふりをする。


「いいよ。お兄ちゃんが気持ち悪いのは、本当のことだし」


 でも、やっぱり、水沢がかばってくれたのは、泣きそうになるくらい、うれしかった。そう思ったのに。


「佐藤」


 今度は、わたしに向かって、水沢が静かに口を開いたのだ。


「何……?」


 聞かない方がいいような嫌な予感がするけれど、ここで逃げるわけにもいかない。


「佐藤が苦しんできたのは、よくわかったけど」


「けど、何?」


 視線をそらしながら、先を促す。


「それ以上に、お兄さん自身も苦しんでると思うよ」


「は……」


 そんな言葉、聞きたくなかった。所詮しょせん、あんなにも恵まれた環境で生まれ育った水沢に、わたしの気持ちが理解できるわけがないのだから。


「だから、佐藤も……」


「いいって、言ってるのに……!」


「佐藤」


 泣き顔を見られるのが嫌で、全速力で走った。お兄ちゃんさえ、いなければ。そうしたら、こんなやりきれない思いをすることもなかったはずなのに————。






「ねえ、どうだった? どうだった?」


 翌日、待ち構えていたように質問してくる、うらやましがっていた例の女子。


「どうだったって、何が?」


 わかっているくせに、とぼけた。


「何がって、水沢くんの家。どんなだった? お母さんにも会ったりした?」


「……なんか、変だった」


「変? 何が?」


 わたしの答えに、首を傾げている。


「おかしいよ。あんな家」


 そんなふうに思うわけないのに。優しくしてもらったのに。思ってもいないことが、次々と勝手に口から出てくる。


「あんな贅沢なの、おかしい。お父さんとお母さんもずいぶん歳が離れてるみたいだし、元々は愛人とかだったんじゃない?」


“愛人”なんて、正しい言葉の意味すらわかっていなかった。


「妹とも顔が似てなかったし、お父さんが違ったりするのかも」


 でも、そんな馬鹿げたことを言わずにはいられなかったのは、わたしと水沢が違う世界に住んでいるという現実から、目を背けたかったかったから。ただ、それだけの理由で、わたしは……。


「ちょっと、光ちゃん」


 わたしの後ろの方を見て、目の前の女子が顔を強張らせている。


「え……?」


 ここから逃げ出してしまいたい気持ちを抑えながら、ゆっくりと振り向いた。


「あ……」


 水沢が、無言でこっちを見ていた。怒ったり、にらんだりしているわけではなく、呆気に取られたように。そして、ほんの一瞬、失望の表情を浮かべてから、何もなかったように遠ざかった水沢の後ろ姿だけが視界に残る。


「水沢……」


 傷つけた。でも、追いかけようとしても、体が動かない。


「今の、絶対まずいよ。どうするの? 光ちゃん」


 醜いのは、わたしの心だ。何も悪くない水沢に、嫌な思いをさせた。悔やんでも悔やみきれない。わたしがもう少し大人だったら、水沢の優しさに感謝することもできたのに。どうして、あんなことを言ってしまったのだろう……?






 当然ながら、同じ班にいても水沢とは口をきくことがなくなった。謝りたかった。ずっとずっと、謝る機会を探していた。でも、そんな機会は訪れることがないまま、一学期の終業式の日、水沢が夏休み中に引っ越して、転校することを知った。


「えっ? 転校って、水沢くん、ニューヨークに行っちゃうの?」


「ニューヨークって、遠すぎるだろ? いつ頃戻ってくるんだよ?」


 水沢と仲のよかった男子たちはショックを受けていたし、数人の女子は泣いていた。お父さんかお母さんの仕事の都合なのか、わたしたちにとって、水沢の引っ越し先は現実離れした場所だった。


 ねえ、水沢。あのとき、水沢は、わたしに最初に転校することを打ち明けてくれるつもりだったの? わたしがじっと見つめていたせいか、水沢が最後に教室を出る瞬間、目が合った気がした。


 きっと、二度と顔を合わせることさえかなわない。それでも、もしも奇跡が起きて、もう一度水沢に会えたなら。許してもらえなくてもいい。そんな都合のいいことは望まないから、そのときは、どうか水沢に謝る勇気を与えてほしい。



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