第3話 君が残してくれたもの



「佐藤ってさ」


 どんなタイミングだったか、たまたま近くにいたとき、水沢に突然聞かれたことがある。


「俺のこと、何の悩みもない人間だとか思ってるでしょ」


「えっ? ああ、うん」


 水沢の悩みなんて、特に思いつかなかったから、普通に頷くと。


「……そうだろうね」


 時折見せることがある、少しふてくされたような表情で、水沢が息をついた。


「じゃあ、聞くけど、水沢に悩んでることなんかあるの?」


「なくはないよ」


「ふうん。今、なんとなく、わかった気がするけど」


「え?」


 わたしの反応に、意外そうに声を上げる水沢。


「わかったって、何が?」


「だから、水沢の悩み。どうせ、何やってもできちゃうから、張り合いがないとか。むしろ、悩みがないことが悩みなんじゃないの?」


「何だよ? それ。でも……」


「ほら。けっこう、当たってるんでしょ?」


「……いや」


 気まずそうに黙ってしまった水沢がおかしくて、つい笑ってしまったら、そんなわたしを見て、あきらめたように水沢も――――。






 そこで、ふっと目を覚まして、顔を上げた。また、水沢がいた頃の夢を見ていた。教室の時計を見上げると、まだ休み時間は半分残っている。することがないから、いつものように iPod のイヤホンを耳に押し込む。


 高校二年生になったわたしも、中学のときと変わらない毎日を送っていた。今日も、世界は灰色だ。


 水沢がいなくなってからの中学生活は、それはひどいもので、我ながら、よく卒業まで通いきったと思う。かろうじて、病院へ行くほどの怪我はさせられなかったものの、人間扱いされている気がしない毎日。


 でも、そんな状況さえもどうでもよく思えるほど、水沢とあんな別れ方をしてしまった後悔が大きすぎたのだ。そのつらさに比べたら、怖いことも悲しいことも、何もない。水沢のいない日常は、ただただ虚しくて、心が空っぽになったみたいだった。


 そうはいっても、いいかげんに心も体も疲れ果てて、わたしを知っている人のいない高校を選んで、入学した。ただ、そんな中学生活のせいで、わたしは友達というものとのつき合い方をすっかり忘れてしまった。だから、ほぼ毎日誰とも口をきくこともなく、休み時間は音楽を聴きながら、自分の世界に閉じこもっているのだけれど。


「…………」


 次の時間の科目を確認して、ため息をついた。わたしの大嫌いな男の先生の英語表現の授業。


 受け持っているのは、この学校で幅を利かせている軽音部の顧問をしていて、他人の感覚を全否定し、自分の価値観を押しつけてくる、西田という先生。毎回、授業の終わる前に自分の好きな洋楽を流して、いかにすごいアーティストなのかを力説する時間が苦痛でたまらない。


 もちろん、今日も例外ではない。独りよがりな講義を終えると、得意げにCDプレイヤーの再生ボタンを押した。耳をふさぎたい気持ちで、時が過ぎるのを待とうとした。でも、今日は、ちょっと予想外なことが起きたのだ。


WEEZERウィーザ―……」


 思わず、小さく声を漏らしてしまった。それと、ほとんど同時に。


「俺も、この曲好き! WEEZER でしょ? 意外ー。西田、WEEZER なんかも聴くんだ」


 先生に向かって、わたしの隣の男子が上げた大きな声に、びっくりした。むしろ、意外だったのは、そっちの方だ。天然ではない明るい茶色の髪にピアス、着崩した制服が違和感なく似合う瀬名せな瞬平しゅんぺい……瀬名くんは、違うクラスの女子にも人気がある軽音部の男子。


 この学校では、軽音部に所属するか、軽音部の友達がいるということがひとつのステータスのようになっていて、そんな空気には辟易へきえきしている。


 また、男女問わず、瀬名くんみたいに目立つ人たちがバンドを組んで、フェスと称するライブで月に数回お祭り騒ぎをしているようだけれど、K-POP以外の洋楽を聴く人なんて、いないと思っていた。でも、その瀬名くんの言葉への先生の反応も、噛み合わないもので。


「はあ? ウィーザ―? 何だ? それ」


「え? それ、WEEZER の曲じゃないの? ちょっと変わった曲名の」


 心の中で、わたしも頷いた。だって、今流れているのは、WEEZER の『Viva la Vida』だ。つい最近も聴いたばかりだから、間違いない。


「この曲は、COLDPLAYコールドプレイの四枚目のアルバムに入ってる、超有名な曲だよ。瀬名、幹部のくせに、COLDPLAY も知らないのか?」


「えー。だって、絶対……」


 立ち上がって、身を乗り出す瀬名くん。


「わからないなら、黙ってろ」


 先生と瀬名くんのやり取りに、教室が笑いで包まれる。結局、納得のいかないようすで苦笑いしながら、瀬名くんは席に着いた。わたしも、もやもやした不思議な気持ちで授業が終わるのを待って、さっきの曲のことをスマホで調べようとしたら。


「やっぱり、COLDPLAY の曲だったよ」


 座っているわたしの前に、瀬名くんがしゃがみ込んでいた。


「えっ?」


「WEEZER が、カバーしてたみたい。さっき、佐藤さんがつぶやいてたの、聞こえちゃった。ていうか、びっくりなんだけど。佐藤さん、アメリカのインディーズとか聴いてたの? 超意外」


「いや、あの……」


 たしかに、古そうなCDラジカセの音質が悪くて、微妙な聴こえ方ではあったけれど、別バージョンなのかなとは思った。そんなことより、家族でもない誰かと必要事項以外の会話をするのがひさしぶりすぎて、動揺している自分が恥ずかしい。


「いつも、iPod 聴いてるよね。Spotifyとかは使ってないの?」


「あ……Spotify に入ってない曲もあるから」


「そういうこと? 見せて見せて。なんか、マニアックな洋楽とか、たくさん入ってそう」


「う、うん」


 まともに口をきいたことがなかった瀬名くんに対しても、正直、あまりいい印象は抱いていなかった。でも、こんなふうに人懐っこく話しかけられれば、嫌な気持ちはしない。戸惑いながらも、iPod を差し出すと。


「待って、何? これ。佐藤さん、すごすぎるんだけど」


 アーティスト名の一覧をスクロールして、興奮する瀬名くん。


「うわ。なんか、気になってたバンド、たくさん入ってる。なんで? なんで、こんなに音楽知ってんの?」


「ああ、えっと……普通に、本とかネットで調べて。あと、アルバイトの給料で、中古のCDを買うこともあるけど」


 周りの視線を感じて、なるべく目立たないように、小声で答える。入学したときから陰キャ認定されているわたしが、こんなふうに瀬名くんと話しているなんて、違和感しかないに違いない。


「それはそうなんだろうけど。このセンスというか、選び方がさ」


「それは……」


 行動が矛盾しているようだけれど、水沢の家に行った日、リビングの棚に並んでいた膨大な量のCDのアーティスト名を、わたしはこっそりランダムにメモしていたのだ。


「たまたま、好きな感じの昔のアーティストを見つけて、そこから広がっていったというか」


 あの部屋にあったCDが、水沢の家族の中の誰が聴いていたものだったのかは、わからない。それでも、密かなつながりを持っていたいという思いで、聴ける音源をひとつひとつ順に聴いていった。


 どれも名前を見たこともない海外のバンドやアーティストだったけれど、その音を聴いていくうち、自分の中の世界が変わっていくように感じたのを覚えている。


 あとは、関連のあるバンドをネットで検索して、それぞれのジャンルごとに好きな音楽を見つけるのが楽しくなった。音楽に没頭している間は、お兄ちゃんの存在や今の自分の環境を忘れられるのも好都合だったから、なおさらかもしれない……と、考えていたら。


「佐藤さん……!」


 突然、瀬名くんに両手を握られて、面食らう。


「お願い。俺に、音楽教えてくれない? しっかり、お礼するから」


「えっと、は、はい」


 手を握られたまま、何やら事情がありそうな感じの瀬名くんに見つめられて、思わず頷いていた。






「仲よくなりたいやつがいるんだよね」


「そう、なの?」


 それが、わたしの音楽の趣味と、どう関係があるというのだろう? 放課後、学校の真ん前にあるホームセンターのフードコート内で、わたしは瀬名くんに話を聞いていた。うちの学校の生徒が、この場所をよく利用しているというのは知っていたけれど、入ったのは初めてだ。


「瞬平じゃん」


「おう」


 さっきから、瀬名くんは同じ学校の子たちに声をかけられっぱなしの状態で、落ち着かない。


「佐藤さん、あんまり時間ないんだっけ? このあと」


「うん。バイトがあるから、5時には出ないと」


 いいというのに瀬名くんがおごってくれた、タピオカミルクティーに口をつけた。こんなものを飲むのも、初めての体験だ。


「ちなみに、明日は?」


「明日は……バイトの予定は、入ってないけど」


「あ、本当? そしたら、明日、N高の軽音部のライブにつき合ってもらえない? 多分、それがいちばん話が早い」


「えっ?」


 さすがに、意味がわからない。


「いや、俺さ」


 近くにいる知り合いを気にしているのか、声のトーンを落として、瀬名くんが続ける。


「一年のときから、軽音に入って、バンドやってて」


「それは知ってる」


 聞くつもりがなくても、それくらいの話は勝手に耳に入ってくるから。


「で、うちの学校の軽音部って、顧問の西田の力の入れ方がすごくて、高校生限定のバンドコンテストみたいなのに年中出させられてるんだよね。俺らのバンドも、それなりに賞とかもらったりしてるんだけど」


「うん」


 それも、全校朝礼のときに表彰されているのを見たことがあるから、知っていた。


「なんだけど、この前、企画でN高の軽音うちに呼んだとき、すごいバンドに出会っちゃったんだよね」


「すごいバンド? 演奏が上手なの?」


 さほど興味はなかったのだけれど、一応聞いてみる。


「いや、うまいっていうか、同じ歳で、こんなやつらがいるんだっていう。ほら、今日の西田がかけた曲。あの曲も、そのバンドがコピーしてたんだ」


「ああ……じゃあ、WEEZER の曲だって、その人たちに聞いたんだ?」


 わたし自身は、それほど WEEZER にのめり込んでいるわけではない。でも、高校生で WEEZER を好きな人たちの『Viva la Vida』のコピーだったら、聴いてみたいとは思った。


「そういうこと。みんなで同じカン違いしてたみたいだね。そうそう、それに、ギタボの男が作ってるオリジナルも他のバンドと全然違って、本っ当に格好いいし」


 瀬名くんの話に熱が入ってきた。自分にもある程度の自信はあるはずの瀬名くんだから、よっぽど、その人に心酔しているのだろう。


「それで、まあ、姑息なのは承知の上でね。とりあえず、俺も音楽の話だけでもできるようになってさ。ゆくゆくは、一緒にバンドとかできたらなあとか」


「音楽、くわしい人なの?」


「めちゃめちゃ、くわしいと思う。特に洋楽が好きっぽいんだよね。WEEZER 周辺だけじゃなくて、そのルーツっぽいバンドとかまで? 俺が自分で調べてたバンドも、いくつか佐藤さんの iPodに入ってた。だから、そのバンドのオリジナル、実際にライブで聴いてもらってさ。そいつが好きそうな音楽、教えてもらいたいなあと」


 瀬名くんが頭を下げながら、上目遣いでわたしを見てくる。


「べつに……CD貸したりするのは、かまわないけど。そこまで言うなら、明日もつき合うよ」


 まさか、あの大嫌いな先生の授業がきっかけで、こんなことになるとは思ってもみなかった。


「嘘! まじで? ありがと、佐藤さん」


 今度は、うれしそうに笑うと、瀬名くんはわたしの手をつかんで、ぶんぶんと振った。水沢の手とは違う、健康的で大きな手だと思った。あの見かけの幼かった水沢が彼女といるところなんて、想像もできない。でも、こんなふうに何気なく女の子の手を握ることくらいはあるかもしれないと考えたら、急に胸が苦しくなった。


 わたしは、この先、他の人と同じように生きていくことはできるのだろうか。最近のお兄ちゃんからは性的な嗜好の強さが感じられるようになってきて、そのおぞましさにも吐き気がする。純粋に人を好きになるという行為すら、汚らしいものに思えてしまいそうだ。


 そんなお兄ちゃんのことも、お母さんは相変わらず子供あつかいしながら、無条件に可愛がっていて————もう何年間も、わたしを含む、わたしの家は時間が止まっている。


 それでも、この瀬名くんとの会話をきっかけに、ひさしぶりに外の空気を吸い込むことができた気がした。遠く離れたところにいる水沢は、今もわたしに救いの手を差し伸べてくれているようだ。



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