第4話 生える

◆生える


 最悪の出来事はそうして終わった。まるで人生の幕が閉じたかのようだった。

 妻と娘には乱暴な口を聞いて申し訳ない、と謝った。

「あれって、そんなに大事なものが入っていたの?」妻はそう訊いた。妻はあの中に何が入っていたのか見ていないのだ。もちろん髪が落ちても、あまりに目に留まらない物のため、分からない。当然、娘も何か分からなかったようだし、何故、父親に怒られたのかも分からなかった。まさしく酷い父親だ。

 大事なコレクションが無に帰すのと同時に、髪に対する熱が醒めていった。

 もう一度最初から髪を採取するエネルギーは残されていなかった。つまり、もう若くはなかったのだ。 

「あなた、最近、人が変わったようね」妻が感心するように言った。

 そう見えるのか。

 おそらくその原因は悪しき習慣が無くなったせいだ。

 夜にこっそり、髪の毛のアルバムを開き悦に入る時間が無くなったからだ。

 そのお陰か、仕事も上手くいき、妻と娘にも優しくなった。

 だが、人生はそう上手く事が運ばないように出来ているらしい。


「あなた、何か変な声が聞こえるわ」

 真夜中、妻が俺を揺り起こして言った。

 耳を澄ますと確かに音が聞こえる。いや、音ではない。声だ。

 しかも女の声だ。

「お隣さんじゃないのか?」俺はそう言った。

 隣には若夫婦が住んでいる。彼らの嬌声だろう。俺は妻の不安を取り除くように言った。

 だが、不安は次第に大きくなっていった。

 どす黒い池に小石を落とすと放射状に広がる波のように・・

 すると傍らで寝ていた娘が「パパ、お庭に女の人がいるよ」と言った。

 どうしてカーテンを閉めているのに外の様子が見えるのか。そんな疑問を他所に、俺はカーテンを開けた。

 庭の様子を眺めたが、何もない。月明かりに照らされた草木があるだけだ。

 だが妙な違和感がある。

 それは俺の口の中だ。

 口に中がむず痒い。異物が入っているような感じだ。


「あなた、すごい寝癖よ」

 半身を起こした妻が言った。頭に触れると確かに髪が立っている。だがそんな事はどうってことない。問題は口の中だ。舌で口腔を舐めると髪の毛みたいな感触がある。細いものだが、気になる。寝ている時に無意識に口に入ったのだろうか。

 懸命に舌を動かし、ようやく髪の毛らしきものを探り当てた俺は、そうっと指を口の中に差し入れた。

 すぐに髪の毛は指で摘まめたが、どうもおかしい。髪を除去できないのだ。引き出そうとすると、舌が痛む。まるで何かの力で引っ張られるようだ。

「手鏡を取ってくれないか」俺は明かりを点け、妻に言った。

 手渡された鏡を覗き込むと、有り得ない物を見た。俺が摘まんだものは確かに髪の毛だったが、問題は、その髪が舌にくっ付いていることだ。つんつんと髪を引っ張ると、舌の肉が引っ張られ、痛みが走る。

 更に妻の裁縫具のハサミを借り、髪を切ろうとすると、激痛が走った。まるで髪の毛が体の一部になったようだ。いや、舌から髪が生えていると言った方が正しいかもしれない。

 いずれにせよ、これ以上、髪を切ろうと試みるのは危険だ。

「あなた、さっきから何をやっているの?」妻が不思議そうに言った。

「いや、何でもない」

 体の異常は隠さずに妻に言っているが、これは言ってはいけない。そんな気がした。


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