一 後編

「このぐらいにしておきましょうか」


 男はクラマに対してそう言って、自らが持つ日記帳を閉じた。長話をしていたからか、一息を吐いた。クラマは感嘆した様子で、拍手喝采を男に対して贈った。彼の表情には真実の感動が浮かんでいた。噓など一片たりとも存在しない相好だった。


「素晴らしい出来であったと思います。是非、続きを聞きたい。その女性とのその後についても知りたい。と、言いたいところなのですが、私もそろそろ時間ですので、お暇させていただきます。それでは」


 クラマは男を褒め称えてから、あっさりと病室から姿を消してしまった。まさに妖怪、鞍馬天狗の如く。彼がいた痕跡は病室には全く残されていない。まるで最初からいなかったかのようである。男は話し相手が居なくなったことを寂しく思うことはなく、再び日記帳を開いて、執筆をつづける。それを続けている間に、男は涙を零していることに気が付いた。日記に涙の痕が出来てしまい、文字が滲む。男はそれを擦ったが、滲んだ痕を消すことはできそうにはなかった。今度は目元の方を擦る。涙は止まっていた。男は溜息をつく。そしてまた、執筆をつづける。男はそういう風にこの病院で過ごしている。窓から差し込んだ陽光が、室内にある観葉植物の葉に当たり、反射による光耀を男に見せた。男はそれを見て、まるで太陽が涙を零したみたいだと感じた。月はいつも泣いているが、太陽が泣くとは珍しい。男はそう思った。

 戦争が終わり、国内にはどんよりとした空気が泥む時勢だった。日本全土が焼かれた。亜米利加アメリカ蘇聯ソれんに、滅茶苦茶にされたのだ。物の値段は上がり、人々の気概は失われ、生活は貧窮し、いつしか大人の戦争への熱狂は雲散霧消した。玉音放送に吹き飛ばされたらしい。そんなので吹き飛ばされるような、軽々しい言論に踊らされた己たちを恥じるものもいた。男は違った。男は、戦争に行っていない。徴兵されなかったのだ。精神に障害があると認定された彼は、兵に相応しくないと認定された。ただ、彼は戦争なんてくだらないとは考えていなかった。今の彼は、戦争をもっと続けていればよかったと考えていた。あの戦時中の渾沌が、自分以外もキチガイにしてくれて、紛れ込むことができた。そんなことを考えている。口にすれば、今は国民に非ずとは罵られない。しかし男はこう罵られることだろう。不謹慎であると。1946年、師走である。言論は、それを発するのが一年異なるだけで、批判されてしまうものである。男はそれを、寂しいと思った。虚しいと思った。空白を携えていない、虚無も携えていない。その代わりに不必要な何かでそれらを埋め立てた彼は、眠る。あの亡骸の家のような静謐を病室に顕現させた。あの女性は、隣にはいない。男は一人であった。

 彼は少々、疲れたらしい。仕方のないことであった。みんな言わないだけで疲れていた。しかしそれでも働き続けている。男は疲れたら、休むことができた。当然のことであった。不自然なことでもあった。俗世間は、疲れは休む理由にはならない。言論とは違い、文化は一年で大きく変化しない。そんな時勢らしかった。旧い言論を否定するのは、変化した新しい文化であるのに、それは不可解なことであった。その不可解を気にする人などいなかった。そんな余裕も失われる、そんな文化が萌した年であった。

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2025年1月10日 08:00
2025年1月11日 08:00
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夢寐の独白 彼理 @hiri-perry

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