一 中編
私は生来より人に惚れにくい人間でした。学校でも、己の美を磨く女たちに対して、それこそ美しいと考える事はあっても、好きだとか共に暮らしたいだとかいう恋慕の情が湧いてくることは一度たりともなかったのです。かといって男に慾情する訳でもなく、今思えば空白をそうとも知らずに携えていた青年でございました。恋をしていないのならば、勉学や兵役にいそしんでいたのかと言われると、それもまた違います。勉学の成績は上から数えても下から数えても同じになるような中途半端なものでした。兵役に関しても戦争などというものは何の利益も生み出さぬし、日本はどうせ負けるのだろうと口に出せば国民に非ずと罵られることを考えていたので、どうにか免れようとその時だけ真面目に学び、分不相応な大学校に進学して書生として過ごしておりました。無為な人生を送っていた私に転機が訪れようとは全く思っていませんでした。当時世話になっていた下宿先の夫婦にも「君は何にも向かんな」と面から向かって言われるような男でした。いずれ花となって散ろうという希死念慮のような潔いことすら考えずに存えておりました。そんな私が、花の如き可憐な少女と出会ったのでございます。
大学校で耶蘇教について研究をしていた私は、今一度賀川豊彦の主張でも学び直そうかと図書館に足を運ぼうと思い立ちました。しかし中途半端な私のことです。少し海風に当たろうと海岸沿いを歩いていました。サボタージュという言葉が日本に広まってきた頃であります。私はサボっておりました。既に夕暮れ時であり、波間が橙色と白色を織り交ぜたような色彩を持つ時間帯でありました。目的の海風は殆ど吹いておらず、期待外れだと独りごちていました。そうなると靴と足裏の間に忍び込む砂も不愉快に思えてきたのです。今すぐにここから立ち去らなければ、この苛苛は消えないと考え、私は路上へと戻りました。勝手な事だが、勉学の意も、遊戯の意も失せ、何もかもやる気を失った私は
酒屋はまだ夜も深くないにも拘らず幾人かの知り合いが既に酒を飲んでいました。彼らは顔馴染みです。何度かこの店にやって来るうち、仲も深まり、共に酒を酌み交わす仲になったのです。数年前の酔っ払いどもを嫌悪していた私が今の私を見ればどう思うでしょうか。文句の一つや二つはくれてやろうとするかもしれません。それを聞いた私は、次の瞬間には何を言われたか忘れて二杯目を音を立てて飲み込むでしょう。そんな格好の悪い大人になってしまったのです。
自慢話が美女を手籠めにしただの、初心な女を襲って身重にしただの卑劣なものしかない下衆男の隣に座りました。身なり、飲み方が汚らしく、吐く息が酒気を帯びていました。とのように心中で彼の事を酷く罵っていても、口ではまるで古来からの親友であるかのように笑顔を見せて下品な話題に花を咲かせていました。他の知り合いも近くの席に座り、酒を飲みかわし、物を盗んだ盗まれた、隣の家の奴が殺されたと世情を体現したような掃きだめたちの会話を始めました。それに自然に加わっている自分が恥ずかしいという思いはもう吹っ切れました。世は賢者より愚者の方が生きやすいということに気付いたためです。
卑劣漢たちの話題は祭典に移った。毎年この周辺では派手な祭典を行っていました。しかしそれも、戦火が拡がる中で縮小されていき、ついに今年は祭典の主宰者である組合が中止を発表したという。祭は好きでした。地域が一つの生物としてうねりを上げ、活性化するのを感じるためです。それは他の住民たちも同じことでした。その祭が、中止になるというのです。ただ、男たちの話はそれで終わりませんでした。幾人かの積極的な民たちが自主的に宴会を開いて、少しでも祭気分を味わおうという提案をしたのだというのです。小規模にはなるが騒ぐ場ができるのは人々にとって喜ばしいことでした。いまからでも楽しみだ、目いっぱい楽しもうではないかと、汚らしい男たちは酒を浴びた。酒屋には下品な笑い声が鳴り響きました。数時間ほど、それが続いたでしょう。
夜も更けた頃、私たちは自然と解散しました。何を示し合わせるでもなく、各々の家に帰ってゆくのです。私も代金を店主に支払い、夜の街に躍り出ました。私は家に帰る気にはなれず、街を彷徨い歩き始めたのです。しかし自分の限界は自分で分かっているものです。私はその日、少々飲み過ぎていました。千鳥足の私は誰のものとも知れぬ荷物に足を引っかけ、転んでしまいました。転んだ先でも頭を電灯に打ち付け、散々なものでした。時々あることなので、慣れたものです。ただ、その日はどうしたことか。そのまま五体を街の片隅に放りだしたまま、眠ってしまおうと考えたのです。どうせ身はあの店で散々汚れ切っているのです。今更体面が悪くなったところでどうということはありませんでした。いつから私はこんな風になったのだろうと、一筋の涙が頬を伝っていくのを感じましたが、それよりも眠気の方が強く私はそこで眠りにつきました。
朝、曙光が私を照らしていました。それに気づくのと同時に私は起床しました。何の断りもなく夜遊びに出たため、下宿先の夫婦が心配してはいないかと不安になりました。そこで漸く、頭が回るようになったのです。昨日の
そこで気づいたのが、人の気配がないということです。会話や生活音が聞こえてきません。あの夫婦は私と比べるのが烏滸がましいほどしっかりしたお二人で、起床も早いお二人でした。そんな夫婦方が未だ起きていないなど考えにくい出来事でございました。寝室を覗いてみようか、いや失礼ではないかと逡巡を繰り返し、結局私は寝室を拝見することにしました。勝手の知れた家です。私は迷わず寝室前に立ちました。一度、起きていらっしゃいますか、と声をかけましたがやはり答えはありません。戸を引いて寝室の中を見ると、その理由は一目瞭然でした。首を吊った夫婦がおりました。いえ、夫の方は首を吊ってはおりません。吊ろうとした痕跡があるだけで、夫は床に座り込み蹲っておりました。近くには大量の酒瓶が転がっており、あれで自決したのだろうと推測されました。二人の下には排泄物が垂れ流されており、異臭が室内に充満していました。夫の表情は鬼気迫ったものでしたが、妻の側の表情は穏やかな解放を知らせているものでした。こんな風に静かに話している私ですが、実際この光景を目の当たりにしたときはその場に倒れ込み、昨日飲み食いしたものをすべて吐き出すかの如く嘔吐し、幾何かの涙をそこに落としました。気持ち悪さはぬぐえずとも、嘔吐が収まった頃、私は触れてはいけないものに触れるように恐る恐る部屋へと入りました。電灯を点けるのは避けました。明るいところで二人の最期を見るのを恐れたからです。暗中で目を凝らすと、机の上に手紙が置いてあるのが分かりました。それを手に取りました。そして部屋から出ようとするとき、夫の方の姿が目に入ってしまいました。彼の近くの壁には『死ねなかった』『縄が切れた』『死にたい』『置いていくな』と怨恨立ち昇る恐ろしい文言が幾つも刻み込まれていたのです。爪で引っ掻き刻んだものでしょう。私は耐えられなくなり、慟哭しながら逃げ出してしまいました。
部屋から出る時に吐瀉物を踏んでしまいましたが、それも気にならないほどでした。落ち着ける場所に行きたい。そう考えました。世話になった男女が死んだ。どうしようもない私の面倒を見てくれていた聖人が自殺した。なぜか、私のせいか。私のせいで、二人が死んだのではなかろうか。そんな思いが頭から消えず、私の全身に刺青が彫られたかのような気がして、人から見られない場所へと逃げ去ってしまいたかったのです。なので私は、昨日も赴いたひと気のない海岸沿いへと向かうことにしました。そこでゆっくり手紙を読み、自らの罪悪に向き合おうと考えたのです。
もはやこの家の全てが遊び道具のように思えました。汚物が付いた足を洗う場所が見当たりませんでした。水はどこにあるかと歩き回り、元の縁側へと戻ってきました。目には池が映りました。罪悪感も湧かぬまま、私は汚い足を池の清水で洗い流し、再び靴を履き直して、海へと出掛けてゆきました。海にはやはり誰もいませんでした。私は砂浜に座り込み、手紙を開きました。鴎や海猫が鳴き喚く静謐など保たれようもない海で、私は手紙を黙読しました。その全文を明かすようなことは致しませんが、近隣の住民との関係が芳しくないため自決したとの事でした。手紙には私の事は一文字たりとも書かれていませんでした。私のために遺された手紙ではなかったようです。また、私のせいで自決したわけでもなかったようです。どこか安堵した私は、それでは本来この手紙を受け取るはずだった者がこれの存在を知らぬままになってしまうではないかと考えました。私が勝手に持ち出したせいで、その人物は虚しい思いをすることになるのです。それは避けなくてはいけない事態でした。あの夫婦が最後に託したことを遂行できなくなるのは、無駄死にといっても差し支えのない結末です。そんなのはあまりに可哀想じゃあありませんか。急いで私は夫婦宅へと駆けだしました。醜い形相の私が、汚い身なりで走っている姿を見た街の人々は顔を顰めました。それも気にせず私は駆けてゆきました。恩人が死のうとしていた時に酒を飲んだくれていた私を、本気で憎みました。そして夫婦宅の杏子の樹が見えてきた頃、知らない女が門を潜るのが見えました。私はあれが例の手紙の受取人ではなかろうかと思い、足を早めました。私が門前に着いた時、女はまだ玄関を叩いておりました。不審そうな相好を浮かべながら彼女は決まった調子で尋ねていました。
「マダ寝テイラッシャルノデスカ。私デス」
しかし返事が返ってくる様子がないので、彼女は肩を落としました。
「ドウサレタノデショウカ」
真実を知らぬまま煩悶としている彼女を憐れんだ私は、彼女の前に姿を見せました。門を潜った私を視認した彼女は私の顔を見て、眉を顰めました。私はといえば、見惚れていました。綺麗だとか、美しいだとか、そういうことではございません。彼女は、キチンとしていました。一つ一つの仕草が私にそう思わせたのです。こんなに統制の取れた動きが世にあるとはまことだろうか。そう思ったのを鮮明に覚えております。
「貴方ハ誰デスカ」
「私ハコノ家ニ下宿サセテモラッテイタ書生デス。ココノ夫婦ニハ大層御世話ニナリマシタ。貴方コソドウイッタ立場ノ方ナノデショウカ」
「貴方ガデスカ。オ噂ハカネガネ伺ッテオリマス。私ハコノ家ニ住ンデイル夫婦ノ娘デス」
なんと、あのお二人に娘がいらっしゃったのか。それも驚きだが、何故いまさらになってこの家に現れたのかという疑問もあった。だが、娘というのならなおさら真実を伝えなくてはいけないのではないか。私がどうして閻魔大王や
「此レハ?」
「ココノ夫婦ノ遺書デス。二人ハ自殺シマシタ」
「嘘デス。ソンナコトハアリエマセン」
「私モ信ジ難イノデスガマコトナノデス。此方ニ行ケバ分カリマス」
そして私につられるがまま着いてきたキチンとした娘は見るに堪えない己の両親の姿を見て、泣き崩れた。私以上に叫び、目を見開き、涙を流していました。落ち着いた頃に遺書を開いて読むと、再び彼女は目一杯に涙を溜めて、うんともすんとも言わなくなってしまった。私たちは寝室の前の閉ざした戸の前で並んで座っていました。声を出す気力も失ったその娘は私の肩に頭を乗せた。胸が高鳴るのは、感じませんでした。体が熱くなりもしませんでした。空白と共に携えた虚無の行き場と、宿を失った自分の行く末についてのみ、思いを張り巡らせておりました。私と彼女の対面は、酒と吐瀉物の匂いに塗れた壊乱としたものでした。酒が飲みたい。あの下劣な仲間と阿呆なことをやって、この悲しみを吹き飛ばしてしまいたい。永劫、酒に溺れれば、浮かび上がることなく生きられるのだ。そうだ、そうしよう。全て、忘れよう。
そんな勝手なことなど、許されるわけもなかった。知っていたけれど、空想するのは勝手だからと、頭の中に幻想を浮かべた。海にはなかった静謐が、この亡骸の様な家にはありました。その静謐を守ろうとするかのように、私たち二人はじっと息を潜めて、姿かたちのよく知れた外敵から隠れていました。世間の目とかいう、名前をした敵だったと思います。責任という、名前だったかもしれません。ただ、大枠としては、人間という大層な名前を見せびらかす獣だったことは、しっかりと覚えております。彼らから、私たちは隠れていました。そうでもしないと、殺されてしまうから、私たちはこんなところに蹲っていたのでした。
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