男と出会い

一 前編

「何を書いていらっしゃるのですか」


 ある日も男は日記を書いていた。男の病室には他にも男が一人いた。物腰柔らかなその男はクラマと看護婦たちから愛称を込めて呼ばれており、本人もそれを嫌がっていない。ここでも彼をクラマと呼ぶことにしよう。クラマは男が、四六時中文字を書いている様子なので、興味を惹かれたのだ。男はペンを置き、顔を上げてクラマに向き合った。


「昔話を、書いているのです」


「昔話ですか。というと、あれでございましょうか。因幡の白兎や三年寝太郎のようなあれでしょうか」


「違っております。子供相手に聞かせるような話ではございません。これは、私の昔話なのです。私が嘗て体験したことを駄文ながら書き綴っているのです」


 クラマは、ほう、と相槌を打った。自分の隣で懐古が行われていたなど、到底想像にも至らなかったからだ。男は自分の秘密を明かしたのが気恥ずかしいのか、笑みを見せながら頭髪を掻いた。ぽりぽりと雲脂フケを落とした。


「こんなもの、私の自己満足の様なものかもしれませんが」


「それは是非聞かせてほしい話です。僕は到底人に話せるような思い出なんて持っておらず、家族にも疎まれる始末です。それでも、太宰だとか芥川だとか、三島、黒岩、あなたは存じないかもしれないですが、澁澤もですね。僕を数々の文章が支えてくれていたのです。僕はどんな駄文であろうと、楽しむことができます。文章を聞く、読む。それだけで幸せなのです。是非、聞かせていただきたい」


 男は嬉しそうに日記をぺらぺら捲り、一頁目に目を落とした。

 

「そこまで熱望されては、話さないわけにはいきませんね。人に話す話でもないのですが、これは私の愛慾の話なのです。身に余る、愛慾の話です。どうか、静かに聞いていただけると幸いです」

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