10

「何?」

 さきほどの母親とのやり取りを毛ほども感じさせない穏やかな声で美咲は兄の呼びかけに答えた。

「話があるんだ。中に入らせてもらえないか」

 しばらく間が有って部屋のドアが開いた。沢渡は素早く美咲の影を自分の影でつかみ、『消し染め』を使って自分の存在を美咲が認識できないようにした。兄と一緒に部屋に入ってくる沢渡にまったく違和感を覚えずに、美咲は自分の椅子に腰掛ける。

 沢渡と翔矢は美咲の前に立った。妹に対してなかなか言葉を発しようとしない翔矢を横目に、沢渡は美咲の影に触れてその中を覗いた。彼女の影の表層にはまだ母親との緊張したやり取りの余韻が残っていて、細かい振動が漲っていた。

「話があるなら早くして頂戴。あたし疲れてるから」

 美咲は口を尖らせた。部屋は柔らかいバイカラーを基調にした内装が施され、小さなドレッサーの横にカーテン式のクローゼットが置いてあった。この部屋も兄同様、比較的きれいに片付いている。スマホを使って写真や動画を共有するSNSアプリが彼女の趣味の大半を占めているのだろう。

 兄妹仲は悪くなさそうだった。やや苛ついてはいたものの、少なくとも美咲の影の表層を見る限りは兄に対する嫌悪感を物語るようなものは発見できない。白黒映像として現れる兄の顔はほとんどがおだやかな表情だった。だが深奥の部分ではどうだろう。

 沢渡は美咲の影の闇黒部分を覗くために、自らの影の一部分をよりいっそう黒く染めた。そうやって黒さを増すことで相対的に美咲の影の闇黒部分は色褪せてきて、中にあるものがよく見えるようになる。沢渡はそうやって黒くした影の一部を美咲の影の闇黒部分に深く突っ込んだ。

 男の姿が現れた。

 美咲の影の闇黒部分で先頭の位置にあるのはその男だった。翔矢の記憶の中にあった男だ。美咲と一緒に都心の駅を歩いていた半グレのように剣呑な男だった。

 男は全裸だった。 胸板が厚く、全体的に肉付きがよかったがどの肉もたるんではいなかった。筋トレをやっているのかもしれない。ファッションホテルのベッドの上に仁王立ちになっている。

 男の姿もホテルの室内も、白と黒のモノクロ映像だった。影の中に存在する視覚的なものはすべて白黒のモノトーンとして現れる。

 沢渡は翔矢のことが気の毒になった。沢渡の横に立ち、たどたどしく、またおっかなびっくりな口調でそれとなく美咲からこの男のことを訊き出そうとしている翔矢は、妹思いの優しい兄であることに間違いはない。しかし彼が事実を信じようとしていないのは明らかで、どうか自分の見間違いであってほしいという思いだけが先行していた。そのため、彼の妹に対する質問は遠回りになり、堂々巡りを繰り返し、相手からすれば何が言いたいのかさっぱりわからない禅問答のような会話になっていた。

 結局のところ翔矢は美咲が今日の放課後どんな部活をしたかを尋ねることさえ出来ず、美咲が好きなファッション関係の女性インフルエンサーがよくコラボをしている男性ユーチューバーの年齢を訊いただけだった。

 翔矢が本当は何を話したかったのかを知らない美咲は、話を終えて部屋から出ていく兄を怪訝な顔で見送ってドアを閉めた。部屋には沢渡と美咲の二人だけになった。

 沢渡は翔矢が出て行ったのを見届けると、美咲の影の深奥を覗くことに専念した。

 仁王立ちになったオールバックの男はこちらに近寄ってくるとキスをしてきた。舌を入れるようなディープキッスではなく、軽く相手の唇に触れる程度のものだった。

 それから男は少し後ずさると、ベッドの上にあぐらをかいた。股間にあるものが凶暴にそそり立っている。あぐらの上に美咲を乗せて後ろから抱き竦めようというのだろうと沢渡は想像した。

 だが男は沢渡の予想を裏切る行為に出た。





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