沢渡は自らの影を伸ばして優子の影の中を覗いた。

 まだこの女の内面について詳しく調べていなかったことに気づき、影の表層にある彼女の今の精神状態や、もっと深奥の闇黒部分にあるものを探ってみた。

 金持ちではないが良家の子女として生まれた彼女は人生における波風というものを知らずに育っていた。あまりにも不幸な出来事や深刻な境遇に直面することもなく、短大を出てから食品会社の営業部門で3、4年働いたあと、自動車メーカーに勤務する倉田賢治と見合い結婚をした。

 大手自動車メーカーの生産管理部門で働いていた賢治との仲は良く子どもにも恵まれたが、数年前から夫の会社の業績が悪くなり、人員整理がほぼ一年おきにおこなわれていた。夫の賢治もその大波からは逃れられず、営業サイドと製造現場とのパイプ役のような仕事をしていた彼は工場もしくは営業関連の部署への配置転換や出向を何度も命じられる羽目となった。そしてつい最近、彼の勤務先の工場で希望退職者の募集がおこなわれたのである。

 そういった尋常ならざる状況にありながら、優子には危機感というものがほとんど無かった。夫からその話を聞かされたときも何とかなるだろうという脳天気な気持ちで受け止めていた。

 彼女にとっての最大の関心事は家庭が平穏でいることだった。夫が職を失い、家族にとっての重要な収入源が機能しなくなるということよりも家庭が平穏であるということが最優先事項なのだ。そんな彼女にとって息子が就職活動に四苦八苦していることや、娘が親に無断でアルバイトの面接を受けたことが、最も憂うべき事態なのである。

 夫に相談したかった。しかし普段から夫は二人の子どもに対して積極的に関わろうとしない。おまけに今日から終末にかけての3日間、泊りがけで出張だというのだ。なんでも中部地方にある工場へ工程の調整について設計部門の人間を相手に打ち合わせをしに行くらしい。今夜すぐにでも相談したいというのになんとタイミングの悪いことだろう。――

 せっかく居候を決めこもうと思っていた家庭に次々と何かトラブルの元になりそうな波風のようなものが立ち始めているのを見て、沢渡は落ち着かない気分になった。

 この優子という母親がエキセントリックな行動に出ることはおそらく無いだろう。娘の美咲もヤバい男とつき合ってはいるが、それを気取られまいとする彼女なりの意志と知恵を持っているようなので、心配はない。二人とも内にしっかりとした強固な自我を持っていると沢渡は推察した。

 だがその自我が目指すものは真逆の方向にあるような気がする。水素と酸素を混ぜて点火すると大爆発を起こすかのように、なにかのきっかけで二人の間で大きなトラブルが生じるだろう。

 娘の影も覗いておいたほうが良さそうだ。つきあっている男との関係が具体的にどのようなものなのか、単なる男女交際の域を出ないものなのか、それとももっと深いものを求めているのか。

 沢渡は二階へ上がると、翔矢の部屋の隣にある美咲の部屋へ向かった。部屋の前に立った沢渡はどうやって美咲の影を覗こうかと思案した。部屋のドアにはシリンダー錠が付いた握り玉タイプのドアノブがあり、そのドアノブが廊下の照明を浴びて僅かな影をドアの表面にこびり付かせていた。

 影使いの沢渡は物体の影に触れることによってその物体を動かしたり壊したりすることができる。『傀儡』という技術だった。美咲の影に接触するためドアノブを壊して中に入ることは容易だが、できるだけ騒ぎを起こしたくない。

 そのとき隣の部屋のドアが開いて翔矢が出て来た。そっと開けたドアを閉じると、緊張した面持ちで美咲の部屋の方を睨みつける。部屋のドアの前には沢渡が立っていたが、『消し染め』によって彼の存在を認識できなくなっている翔矢には沢渡の姿が見えていなかった。

 天井の方を向いて息を整えると、翔矢は美咲の部屋のドアの前に進んだ。沢渡はすぐさま身を引いて翔矢に場所を譲った。ドアをノックした翔矢は少しかすれた声で言った。

「美咲、ちょっといいかな」





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