階下で話し声がするのを耳にした沢渡は素早く立ち上がった。

 さっきまで翔矢の部屋のベッドで横になり、天井を見つめていた。戸棚にある漫画を読んでみたものの、最近の若い世代が熱中する漫画は沢渡の趣味には合わなかった。すぐに飽きた彼はベッドの上に寝転んで天井を見ているうちにウトウトしていたが、階下の話し声で即座に目を覚ましたのだ。

 階段を上がってくる足音がする。影使いとしての能力を発揮するべく、彼の影はヤモリのような形に変わった。その影の一部が細く伸びて先端が灰色の人型のようなものに変わった。

 沢渡は部屋のドアの脇に身を潜めると、ドアを開けて入ってきた翔矢の影に灰色の人型を注入した。人型はモブキャラのような男に姿を変えた沢渡の影の縮小版だった。それは翔矢の影に溶け込み、翔矢は沢渡の存在を認識できなくなった。

 翔矢は部屋に入るとドアに鍵をかけ、沢渡が退けたベッドの上にリクルートスーツを着たまま寝転がった。目から流れた涙を拭こうともせず、さっきまで沢渡がしていたのと同じように天井を見つめていた。

 翔矢の影に自らの影を伸ばして触れると、沢渡は彼の内面を探った。他人の影に触れることによってその内面にあるものを感じ取ることのできる沢渡はベッドに寝転んだ男がどういう人間で今何を思い、考えているのかを調べようとした。

 影の表層には動揺が満ち溢れていたが、そこに垣間見える感情や音声や体感には統一性がなく、わかりにくい。そこで面倒ではあったが、沢渡はもっと深奥にある闇黒部分に自分の影を挿入して男の内面全体を把握しようとした。

 その結果わかったのは、男が就職活動に希望を見い出せず、しかも実の妹がヤバい男と付き合っていて、自分はそれを指をくわえて見送らざるを得なかったことから激しいストレスを感じているということだった。翔矢というその男は両親の勧めで隣県にあるFランクラスの大学の機械工学科に入学したものの、勉強するでもなく遊び呆けるでもなく友人関係を広げるわけでもなく、ただただ毎日をアニメや漫画を見て過ごし、オンラインゲームに明け暮れていた。部屋が比較的片付いていたのは、男がそれら以外に興味を持つ対象が無かったからだった。

 翔矢は半時間近くじっとしていたがおもむろに起き上がり、ノートパソコンを立ち上げてネットにつなぐと動画投稿サイトを閲覧し始めた。

 翔矢の傍らに立って沢渡はモニター画面に映るものを見ていた。翔矢は格闘技や護身術関係の動画を片っ端から閲覧しており、どうやら妹と付き合っているヤバい男を叩きのめすために戦闘技術を身に着けようとしているらしい。翔矢の影を覗いてそのことを確認した沢渡は失笑した。場当たりで短絡的な翔矢の考えが可笑しかったのである。

 沢渡の笑い声は翔矢の耳には入らなかった。沢渡の人型を形どった灰色の影が翔矢の影の中に溶け込み、沢渡の存在を認識できないようにしていた。そのため翔矢は沢渡という存在を示すあらゆるものを感じ取ることができないのだった。

 通信教育で空手を習得しようとするような安易な翔矢の姿に思わず吹き出した沢渡だったが、彼の行動は要注意だった。付け焼き刃で中途半端な格闘技を覚えた若い男がそれを実際に使うとろくなことはない。そのエキセントリックな行動によって大きな騒ぎが起き、警察がこの家にやって来たりしたら居候を決め込むことができなくなるだろう。

 沢渡は翔矢の行動から目を離さないようにしようと思った。





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