3
倉田優子と一緒に家の中に入った沢渡は居間の方へ向かった彼女を見送り、ダイニングキッチンのテーブルの前にある椅子に腰を下ろした。
居間の方からは韓国語で喋る俳優の声が聞こえてくる。50歳前後の専業主婦と思われるあの女は韓ドラのファンのようだった。
テーブルの上には電気ポットが載っていてお湯が入っていたので、水屋からコーヒーカップやスプーンなどを取り出し、インスタントコーヒーの粉を入れて勝手に飲み始めた。勝って知ったる他人の家とばかりに沢渡はくつろいでいた。冷蔵庫にクレームブリュレが4つあったので一つ失敬して食べ始める。
玄関で女がドアを開けたとき、沢渡は女の影の中へ自分の普段の影を形取って作った人型のようなものを投げ込んだ。影の形を自由に変えることができる影使いである彼にとっては造作もないことだった。人型は灰色をしており、その人型が投げ込まれた影の持ち主は、沢渡の存在そのものを忘れ去ってしまう。
もっとも、正確には忘れ去るのではない。認識や記憶が沢渡の存在を迂回してしまう「バイパス」が構築されるのだ。部屋の中や自分の目の前に沢渡が立っていても、部屋の様子や沢渡の向こうにあるものしか認識し、記憶することができなくなるのである。『消し染め』という技術だった。
しばらくこの家に居候を決め込むことにしよう――
クレームブリュレを食べ終え、コーヒーを飲み干した沢渡は二階へと上がる階段を上っていった。
二階には部屋が2つあった。おそらく階下の女の子どもたちの部屋だろう。一つは大学生の男子のものと思しき部屋で、もう一つはハイティーンの女の子の部屋のようだった。その2つの部屋以外に物置のような部屋があるが、沢渡は部屋が広く、寝心地の良さそうなベッドがある男子大学生の部屋に入った。
今は30代半ばの男性の姿になりすましている沢渡だったが、実年齢は50代後半だった。自分の影を他人の影と同じ形に変えてその他人になりすますことのできる彼は、逃亡生活を続けるために様々な人間の姿に身を窶していた。自分より年下の人間になりすますこともあれば、今より年上の年齢の人間に姿を変えることもある。女子供になりすますこともできるが、肉体的年齢と実年齢の精神面でのギャップが露見して正体がバレるおそれがあるし、女子供に変身するというのは感覚的に抵抗があった。
30代から40代ぐらいの男性という今の姿が彼にとってはちょうどいい姿だった。この姿はスマホで動画投稿サイトを見ているとき、ミュージックビデオに出ていたエキストラの男性のもので、その男の足元に映っていた影の形に自分の影の形を合わせて変身した姿だった。もっとも服装や持ち物まで含めて変身することはできないため、変身したあとはその男の容姿に似合ったようなものを身に着けなければならなかった。
そのエキストラの男の顔は特に目立った部分が無い顔で、逃亡生活には最適だった。また沢渡自身、この男の顔貌が気に入っていて普段はこの男の姿で行動するようにしていた。
沢渡が入った部屋にはベッド以外にノートパソコンと液晶ディスプレイが乗った机、機械工学の学術書が充満している本棚、小さなクローゼットがある。窓が道路側に向いていて、曇天の鈍い太陽光が室内に澱んでいた。
壁にはポスターが貼ってあり、バトルスーツで身を固めたアニメの女性キャラが凛々しい姿で決めポーズを取っていた。その横の戸棚には漫画の単行本やロボットのフィギュアが並んでいたが、オタクと呼べるほどコアな感じはしなかった。
多少、散らかっている部分はあったが、全体として割と片付いている部屋だった。今から30年か40年ほど前、沢渡が十代から二十代のころの男性の部屋と言えば汚らしく散らかっているのが大方の相場と決まっていたが、この部屋の主は比較的几帳面な若者のようだった。
沢渡は昔見た特撮テレビドラマの主人公のことを思い出した。
人類に襲いかかってくる敵と日夜戦うそのヒーローは、正体を隠して地球防衛組織の一員として働いていたが、あるとき彼の自宅に女性が訪れる。その女性は彼を兄と慕っている少年の姉だったが、その女性が彼の部屋の様子を見て、男の人の部屋って散らかっているという先入観があったがあなたの部屋は世間一般の男性の部屋とは異なり、きれいに片付いている、というようなセリフを口にしていた。
ヒーローのような清廉潔白で几帳面な男なのだろうか、この部屋の主は。沢渡はそんなことをふと思った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます