虐げられた思い出に満ちた実家に帰る元伯爵令嬢は、王家御用達の愛され薬師です

イチモンジ・ルル(「書き出し大切」企画)

はて

「色々あったが、許してやる。すぐ帰ってこい、ですか……」

 

 カリヨンは手紙を読み終える。一瞬その手が震えた。深く息を吐き出し、手紙を机に放り投げる。

 

「『許してやる』ですって? どの口がそんなことを言うのかしら」

 

 彼女は目を細め、天井を見上げた。6年前、自分の決意で貴族令嬢としての全てを捨てた夜の苦しさが、今でも胸の奥で鈍い痛みとなって蘇る。

 

 部屋のドアがノックされた。「どうぞ」と答えると、次席薬師兼事務長のアレッシャンが笑顔で現れた。抱えている箱には、ぎっしりと薬瓶が詰まっている。

 

「社長、ご依頼の薬品素材、やっと揃いました」

 

 カリヨンは少し微笑み、手紙の内容を一瞬忘れたかのように表情を明るくした。

 

「まあ! ドレガレコレの実も入手できたのね!」

 

 アレッシャンは得意げにうなずいた。

 

「はい。人脈を駆使しました。これで王室に納める『カリヨンスペシャル美顔剤美白機能強化バージョン』の製剤ができますね」

 

 カリヨンは嬉しそうにうなずいた。

 そして、我に返ったように手元の手紙に目をやり、少し考え込んだ。そして、決意を込めた声で指示を出す。

 

「製剤は私ひとりでやるわ。その代わり、アレッシャン、あなたはこの手紙の送り主や目的を調査してちょうだい」

 

 アレッシャンは驚いた顔をしながらも、手渡された手紙を開いた。そして読み進めるうちに、苦笑を浮かべる。

 

「ああ……悪名高きグロリハレル伯爵家ですね」

「そう。その通り……なのかしらね」

「社長はあまりゲスいゴシップに通じておられませんからね」

「……伯爵家はゲスいのね」

「はい、とても」

 

 カリヨンは腕を組んで、軽く鼻を鳴らす。

 

「ところで、私、一体何を『許される』というのかしら?」

 

 事情通のアレッシャンは6年前の事情にも通じている。手紙を資料袋にしまい込みながら、にやりと笑った。

 

「『許す』とマウントをとりながら要求する何か……。調査するまでもないです。実は、お知らせしていませんでしたが、グロリハレル伯爵家は破産の危機に瀕しています」

「なるほどね。全然意外じゃないわね」

 

 そう呟きながら、カリヨンは目を閉じた。天井を見上げたその瞳には、過去への怒りと、静かな復讐の炎が燃えていた。

 彼女は静かに目を閉じた。そして、再び目を開いたときには冷笑を浮かべていた。

 

 アレッシャンもまた、上司のその様子を見て、微笑みながら力強くうなずいた。

 

 ***

 

 グロリハレル伯爵家の破産の予兆。それは、カリヨンにとって少しも驚くべきことではなかった。

 

 父親は「貴族の矜持」を言い訳にして、経済感覚を欠いた浪費を繰り返してきた。祖父の代から続く商会を維持する努力を怠り、その矜持とやらを誇示するために資産を次々と切り崩してきたのだ。

 破綻は時間の問題だった。

 

 一方、妹レナは美貌と小手先の才を武器に社交界で名を馳せていた。しかし、経営や家計の管理にはまるで興味を示さなかった。むしろ、彼女は豪華なドレスや無駄な投資で商会の財源をさらに圧迫していた。

 

 レナは学業成績が優秀で、直感を活かした判断力にも秀でていた。その要領の良さは周囲をうまく利用することに発揮された。

 とはいえ、責任の伴う本当の仕事では、美貌や甘えだけでは乗り切れなかった。

 

 そんな彼らがとうとうう財政的に抜き差しならない状況に瀕している。カリヨンは皮肉めいた笑みを浮かべた。

 

「結局、頼れるのは私というわけね。虐待し続けた娘に助けを求めるとは……ずいぶんと身勝手な話だわ」

 

 カリヨンはため息をついた。

 自ら立ち上げた薬品会社の業績は堅調。王室御用達の看板を背負うまでに成長した事業は、十分な利益を上げている。

 しかし、5年目から定期的に受けている王室からの度重なる依頼は諸刃の剣だった。会社の評判を高めつつ、増産を難しくしているのも事実だった。

 品質の妥協は許されず、その厳しい基準を満たすために彼女は全てを捧げてきた。6年間。血の滲むような努力を重ねてきた日々だ。

 

 ――私が伯爵家へ戻ることに、意味はあるのかしら?

 

 窓辺に立ちながら、カリヨンは自問した。父や妹の顔を思い浮かべる。ふたりは、カリヨンが10歳まで愛情込めて育てて亡くなった母とは違い、いつも軽蔑と怒りに満ちた表情をしていた。

 家族に対するわだかまりが心のどこかに残っているのは事実だった。

 ――それでも、怒りや恨みに囚われるのは、無駄なことだ。

 自分の力で築いた世界と成長して世慣れた自分を、彼らの目の前に突きつけたいという思いが次第に膨らんでいった。

 

 数日後、王室納品用の美顔剤を注文通りの数量完成させたカリヨンは立ち上がった。


 表向きは手紙の命令に応じる形で伯爵家に帰る。しかしその真意は……自分を縛りつけていた禍々しい血縁者の鎖を断ち切り、過去に決着をつけることだった。それは復讐ではなく、新しい人生への第一歩だった。


「準備を整えておいて」

 

 カリヨンがそう命じると、アレッシャンは満面の笑みを浮かべ、深々と頭を下げた。

 

「社長、いつでもお供します」

 

 彼女の旅が単なる帰郷ではないことを、彼は言葉にしなくても理解していた。

 

 ***

 

 グロリハレル伯爵家の屋敷に足を踏み入れると、6年前と変わらぬ豪奢な調度品が目に飛び込んできた。しかし、その裏には明らかに衰えた家門の影が見え隠れする。

 

 一番よい調度品が姿を消している。売り払われたのだろう。

 廊下の隅には埃が積もり、かつての栄華を取り戻そうとする努力すら見えない。それは、この家がもはや「見せかけの矜持」を保つことしかできないことを物語っていた。

 

「戻ったか、カリヨン」と、父親が豪奢な椅子に座ったまま、威圧的な口調で言った。その隣には、レナが美しい微笑を浮かべて座っている。しかし、カリヨンは気づいていた。その微笑の端にあるわずかな震えに。

 彼女なりに、「この事態はヤバい……姉を上手く説得して、破産を回避させ、尻拭いさせよう」と思っているのだろう。

 

 「お父様、お久しぶりです」と、カリヨンは柔らかな微笑を浮かべた。「許していただけるとは、まさか思いも寄りませんでした。何を許していただけるのか、後で詳しく教えていただけますか?」と皮肉をうっすら込めて続ける。

 

 父親は微動だにせず、冷たい目を向けてきた。だが、その奥に隠された焦りを、カリヨンは確かに読み取っていた。

 

 ***

 

 6年前。

 

 カリヨンは父が決めた政略結婚を拒否しようとしていた。

 

「お前はこれまで育ててやった恩を仇で返すというのか!」


 父の怒声が屋敷に響き渡った。


「お父様がどれほどお姉様のためを思ってこの縁談をまとめたと思っていらっしゃるの?」


 レナは艶然と微笑みながら、冷たく突き放すように言った。

 

 父は馬の鞭を手に取り、カリヨンに向かって振りかざした。

 だが、その目には怒りだけでなく、追い詰められた男の焦燥が垣間見えた。


「クーピー男爵は確かにお前より年上だ」

 ――今年で40歳と聞いている。

「しかし、お前に何の不自由もかけない財力を持つ」

 ――その財力への期待はもちろん私の幸せのためではない。支度金としてグロリハレル伯爵家を潤すことだけをお父様は望んでいる。

「つべこべ言わず、明日迎えの馬車に乗れ!  これ以上、この家に恥をかかせるな!」

 ――恥?  本当に守りたいのは体裁だけ。私の幸せなど眼中にないことは明白だ。

 

 カリヨンは父の顔をじっと見つめた。彼の顔には焦燥が滲み出ている。振り上げられた鞭の先端がかすかに震えていることを見逃すほど、カリヨンは鈍くはない。

 

「お前は男爵家に行って、しっかり当家のために仕送りをしてくれるよう、上手く立ち回るんだ!」

 ――20歳以上年上で、加虐趣味があることで有名な男爵の第3夫人? この家のために、そんな地獄に飛び込めと?

 

 そんな人生を、カリヨンは絶対に送りたくなかった。

 

 レナが隣で艶然と微笑む。


「男爵がすべてご用意してくださるということだから、何も持たずに嫁いでね。それと……お母様からお姉様に遺贈されたあの素敵なネックレスとイヤリングのセットも、きっと必要なくなるわよね?  必ず置いていってちょうだいね」

 

 その言葉を耳にした瞬間、カリヨンの中で冷たい漠然とした思いが確信に変わった。レナは、自分の分はしっかり確保しているのだろう。父も、妹も、自分を道具としか思っていない。もう迷う必要はなかった。

 

 その夜、カリヨンは密かに用意していた縄ばしごを取り出し、屋根裏の窓から外に垂らした。薬品研究の最重要メモをまとめたノート、そして母の形見の宝飾品だけをバッグに詰めると、冷たい夜風を顔に受けながら窓枠をまたぐ。

 

 ふと、背後の屋敷を振り返る。だが、そこに帰るべき理由は何ひとつない。

 その冷たさと孤独だけが、彼女の記憶に染みついていた

 足元に気を配りながら、彼女は塀に向かって庭を進む。

 

 カリヨンは塀の隙間をすり抜ける。その先に待っているのは、絶望の未来ではない。彼女自身の手で切り開く、自由の未来だった。 

 そう、すでに伯爵家は塀のメンテナンスすら怠っていたのだ。男爵家からの支度金でまかなうつもりだったのだろう。

 

 カリヨンはそのまま平民ミラルジーナ……馴染みの薬品材料店を経営する女性のもとに身を寄せた。そして翌朝、伯爵家離籍の手続きを済ませた。

 父はゴネて離籍を無効にしようと画策したが、ミラルジーナが紹介してくれた法律家が根気強く説得した。成年した長女の離籍要求を拒否する法的権利は、父にはなかったのだ。

 法律家は、父のいい加減な仕事がもたらしていたちょっとヤバい結果の調査結果をチラ見せして、少しばかり脅したりもしたらしい。

 「もちろん、合法的に怯えさせただけですよ」と彼女は朗らかに笑った。

 

 法律家の費用は、ミラルジーナに母の宝飾品を売って賄った。


「こんなに高く買ってくださるんですか?」

「これは私にとって堅実な投資さ。あんたが本当にやりたいことをやるなら、この投資を何倍にもして返してくれると私は信じているよ」


 ミラルジーナの言葉はいつもあっさりしているが、その奥には頼もしい愛情が込められている。カリヨンはその時、彼女に頭を下げながら涙が頬を伝うのを止められなかった。


 その宝飾品は最近、ミラルジーナから「王室御用達になったお祝い」としてカリヨンに贈られた。

 カリヨンがミラルジーナの息子アレッシャンと一緒に王宮へ納品に向かった際、贈られたイヤリングを身につけた。


 青い宝石のイヤリングを耳に飾ったとき、カリヨンは胸の奥にじんと熱いものを感じた。それは、亡き母が彼女を見守り、支えてくれているという確信だった。

 ――このイヤリングと、いま周りにいる人たちと一緒なら、私は負けない。

 清楚なデザインのイヤリングは、紺色の襟の詰まったドレスに見事に映えていた。

 

 ***

 

 父親はカリヨンの皮肉に気づかないふりをして、鷹揚な表情でふんぞり返っている。その態度が彼の余裕のなさを物語っているようで、カリヨンは内心で冷たく笑った。

 

 代わりに、レナが挑発的な声で口を開いた。


「お姉様、ずいぶん成功されたとか。でも、平民の商売なんて所詮、地を這うような仕事よね。私たちのように、高貴な血の名誉を守り続ける者には真似できないわ」

 

 カリヨンは微笑みを崩さなかった。それどころか、その笑みは少しだけ深まった。


「そうね。貴族の血がそうさせるのかしら。けれど、私が下品に成り下がったとしても、貴女に許していただけるなんて光栄だわ」

 

 レナの顔が一瞬だけ強張るのを、カリヨンは見逃さなかった。わざとゆっくりと手袋を外しながら、視線をレナに固定する。

 「うふふ、そんなことを言うために許してまで呼んだわけではないのでしょう?」とゆっくりと言うと、レナは少したじろいだ。


 ――この家にいた頃、こんな風に余裕を持って対処できたら、私はもっと幸せだったかしら。……いいえ、このどうしようもない家にいたら、そんなことを学べたわけがないわ。レナだって、自信たっぷりに見えて、虚勢の塊だし。

 

「そうね、こちらを見てちょうだい?」

 

 不自然なくらい胸を張って、自信満々に差し出したのは、仰々しいガラス細工で彩られた容器だった。王国で流行の宝石瓶ポ・ア・ビジュを模したデザインらしいが、どこか安っぽく、悪趣味だった。

 

 成分表をちらりと確認する。見覚えがある。そして、香りの強い香料がいくつも追加されている。

 

「これ、お姉様がくださった研究ノートにあったレシピを私が改良したの」


 ――臭くしただけみたいだけれど。


「お姉様では、美容の何たるかを理解できないと思いますわ」


 父が勢いよくうなずいている。


「私たちの商会で完成させた自信作よ。王室に納めれば、もっと高貴な皆様にお喜びいただけるはずよ。ねえ、いいでしょう? 王室に取り次いでくださらない?」


 レナは微笑みながら、当然のように言った。その瞳には、姉を利用することへの躊躇ちゅうちょなど微塵も見られなかった。

 

 不快な気持ちがカリヨンの顔に出たのだろう。父親が卓を拳で叩いた。


「許してやると言っているんだ! それくらいの口利きはしろ!」

 

 部屋中に拳の音が響いたが、カリヨンは畏怖することはなかった。ただ空虚に感じただけだ。父親の焦りが音の裏に滲み出ている。

 カリヨンは静かに父を観察した。拳は赤くなっている。どうやら怪我をしたようだ。激しい痛みをこらえているらしい。

 自業自得ね、とカリヨンは内心で呟いたが、口に出すことはなかった。

 自分の無力さを隠そうとして、父は乱暴な行動をとるのだと気づいていた。

 そんなことをするより、大切なことがあると、カリヨンは知っていたから、父がわがままな子どものように思えた。

 

 カリヨンはレナの「自信作」の方に視線を向けた。

 興味が湧き、宝石瓶を手に取り、開けてみた。香りが強く、予想通り悪臭レベルだ。しかし、均一に上手く混ぜてあり、良い艶が出ている。

 

「あら、うまくできているわね」


 初心者にしては見事だったので、そう言うと、レナが得意そうに目を細め、意気揚々と叫んだ。


「私だって、薬生成の授業は優だったのよ!」


 カリヨンは微笑みを浮かべたまま、再び成分表に目を落とした。そして、にっこりと笑った。

 

「王室御用達の審査会に紹介するところまではできるわ。そのあと、一切関わらないという誓約書を入れてくださるなら、ご紹介します。後ほど、法律家の先生をこちらに来ていただく手配をしますね」

 

 父親は顔をしかめ、「またあいつか……」と呟いた。

 カリヨンは微笑みを崩さず、卓の上に宝石瓶をそっと置いた。


「では、よろしくお願いいたします」


 彼女は軽やかに身を翻し、伯爵家を後にした。


 ***

 

 審査会は外宮の華麗な一室で行われる。

 薬品学界の重鎮として名高い長老たちに混ざって、新進気鋭の学者たちもいる。末席にカリヨンも連なっていた。

 その部屋に、得意そうな顔をしたレナがいた。新調の薬師服はツケがきく店で買ったので、やや品質が良くない。

 今日、このそうそうたる審査員たちに認めてもらって収益を得るまでの辛抱だ。報酬をもらったら、フルオーダーで仕立て直そうとレナは決意していた。

 

 しかし、レナのその思惑はあっけなく崩れ去る。

 審査員の長が成分表を掲げながら冷たい声で言った。


「この美顔剤の成分には、一時的に効果があるものの、有害である物質が多数含まれています。特に危険なのはこのドラゴンサステルの葉……最初は優れた保湿効果がありますが、長期的には肌荒れや湿疹を引き起こし、最終的には紫色の痣が残ることが判明している禁忌の素材です」


 こってりと厚化粧をしたレナが青ざめる。

 ――あら、少し紫がかった色に見えるわね。たくさん自分でも使ったのかしら。


「さらに、王室の皆様は控えめな香りを好まれます。この容器を持ち込むだけで、お怒りになるでしょう」

 

 王室に納める申請を求めた美顔剤がこのような粗悪品であったとは。

 信じがたい不祥事である。

 会場中の視線がレナに集まった。彼女の顔は恥辱に赤く染まり、額には汗がにじんでいた。

 

「違います!」


 レナは立ち上がり、声を張り上げた。


「これは姉のカリヨンが作ったものです! 私を嵌めたんです!」

 

 しかし、同席していた法律家が静かに誓約書を差し出し、淡々とした口調で言った。


「こちらをご覧ください。この誓約書には、当該美顔剤に関する全ての利益と責任をレナ嬢とその父であるグロリハレル伯爵が引き受ける、と明記されています。カリヨン嬢は一切関与しておりません。また、彼女は既に伯爵家の籍を抜けておりますので、あなたの姉ですらありません」

 

 レナはその言葉に反論しようとしたが、声が震えて言葉にならなかった。審査員たちの冷たい視線が彼女をさらに追い詰めていく。


「禁忌の素材を使った薬品製造、王室への不敬、その他の罪で現行犯逮捕する」


 審査会に立ち会っていた近衛が、逮捕権限を行使し、レナを王宮牢に連行した。


 カリヨンが「審査会におびき出して摘発するという理由とは言え、あのような者を外宮に通してしまい、申し訳ありません」と一同に詫びる。「なあに、大丈夫。あなたは王家の美しさを守る大切な存在だ。あなたの悩みが解決できたなら、良かった」と審査員の長が優しく答えた。

 

 ***

 

 最終的に、伯爵家は爵位を返上した。罰金支払いと爵位返上が懲役刑を免れる条件だった。

 父は震える手で書類にサインしたあと、失神した。「我が家がこんな末路を辿るとは……嘘だ嘘だ嘘だ」と寝言のようにつぶやく姿は、既に正気ではなかった。

 

 カリヨンは田舎に小さな家を買い、父とレナを住まわせた。最低限の年金と護衛を兼ねた使用人たちも手配した。

 父は古びた椅子に座り、かつての栄光を語る日々を送った。その語りを聞く者は誰もいなかったが、彼はそれをやめることなく、恍惚と朗らかに暮らした。

 一方、湿疹と紫の痣に覆われたレナは自室に閉じこもるようになった。その部屋のカーテンが開かれることは二度となかった。

 カーテンの向こうの窓に自分の顔が写ることにレナが耐えられなかったからだ。


 ***

 

 小さな家の使用人たちから定期的に届く報告書を閉じたカリヨンは、窓の外へと目を向けた。


「あのひとたちの人生を完全に壊すのは簡単。でも、それじゃ私が同じレベルへと堕ちてしまうわ」


 小さく呟いたその言葉は、空気の中に静かに溶けていった。

 

 彼女の中で、過去はようやく手の届かない場所へと移りつつあった。


「社長!  僕たちの結婚式の計画書をお持ちしました!」


 扉の向こうから、元気な声が響いた。カリヨンは自然と笑みを浮かべ、席を立った。


「まあ……ずいぶん豪華な装飾ね」と、手に取った計画書に目を通しながらカリヨンがつぶやく。


「確かに……シンプルで上質な装飾も要所要所にあしらう方があなたらしいですね」


 アレッシャンは計画書を見返しながら、控えめな笑顔を浮かべて言った。

 カリヨンは彼に柔らかなまなざしを向けた。


「ふふ、あなたはいつも私の好みをわかっているのね」

「はい、僕は知っているんです、カリヨン。あなたはどんな場所にいても、自分の力でその場所を輝かせる人だって」


彼の柔らかな視線に包まれて、カリヨンの頬はほんのりと赤く染まった。


過去のしがらみはもうどこにもない。彼女はアレッシャンとふたりで輝かせる新たな未来へと歩み出していた。

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虐げられた思い出に満ちた実家に帰る元伯爵令嬢は、王家御用達の愛され薬師です イチモンジ・ルル(「書き出し大切」企画) @rukakyo

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