第3話

 着流しを脱ぎ、洗濯したばかりの着物に袖を通しつつ、シロは口元を引き締めて考えた。

 あれが、当代巫女か。ずいぶん幼い。歴代巫女の中でも、おそらく一番幼いだろう。あの世間知らずさを考えれば、巫女に召し上げられたのはもっと幼い頃なのかもしれない。

 だが、シロには関係の無いことだ。目の前で雨に濡れて震えていた。それを見捨てておくのは気分が悪かった。だから拾ってきた。それだけだ。ミーコの為と言うより自分の為に。

 なにがあって家出をしてきたのか知った事ではないが、風呂から上がったら神界に連れて行くべきなのだろう。分かっている。しかし。

 シロは罪人だ。神界に近寄るのはまずい。当時のことを知っている神官はもういないだろうが、神には近寄りたくない。

 舌打ちをした。やはり拾ってくるべきではなかったか。それともこれは、神のおぼしめしという奴なのだろうか。考えていると、昔のことを思い出すように仕向けられたとさえ思えてくる。

 結局、逃げられないのか。

 逃げることなど、最初から出来はしないのに。


 居間に戻ると、同居人が薬缶に湯を沸かしていた。鼻歌まで歌って、相当ご機嫌らしい。

「ミーコがお風呂から上がったら葛湯でもいれてあげようと思って」

「楽しそうだな」

「うん、楽しいしうれしいよ」

「…いいと思うか」

 そう問いかけると、同居人は振り向いた。それから、くすりと笑う。

「自分で拾って来たくせになに言ってんだか」

「まあ、そうなんだが」

「別にあたしは平気よー。当代巫女があんなにかわいらしいとは思わなかったけど」

「……まあ、確かに」

「シロこそいいの? …巫女だよ?」

「俺のことはどうでもいい」

 労わるような同居人の口調に素っ気なく答えた。

なんとなく会話が途切れたところで、ぺたぺたと廊下を歩いてくる足音がした。間もなく引き戸が開けられ、だぶだぶの着物を着て髪を濡らしたミーコが入ってくる。部屋を見渡し、シロの姿を認めてぱっと笑った。

「いい湯であった。あたたまったぞ」

「それはなによりだが、お前なんだ、その格好は」

「うん? おかしいか? まあ、少々着物は大きいが…」

「着物もそうだが、髪だ、髪。雫が垂れてる。ちゃんと拭け。湯冷めしたら元も子もないだろうが」

「これでも拭いたのだぞ? じゃが、なかなか乾かんのじゃ」

 ちっと舌打ちして、シロはずかずかと音を立てて風呂場に向かった。大きめの手ぬぐいを籠から掴み、またずかずかと音を立てて戻ってくる。

「来い」

 ミーコをむんずと捕まえて小脇に抱え、縁側に向かう。雨は止んでいないが降り込んでくることもない。今日はほぼ無風だ。どかっと胡坐をかいた上にミーコを座らせると、少女は自身の肩越しにシロを振り仰いだ。

「シロ?」

「動くな。向こう向いてろ」

 ぶっきらぼうに言って、わしわしとミーコの髪を拭き始める。少女の黒い髪は、艶があって柔らかく、健康的だった。

「ったく、手のかかる…」

「自分でかかりに行ってるくせに」

 同居人の言葉には、うるせぇと返した。

 ふふふ、とされるがままになっている少女が笑う。

「あたたかいのぅ」

「風呂に入ったんだから当たり前だろ」

「シロの手じゃ。先ほどもそうであった。シロはあたたかいのだな」

「……どうだかな」

 所詮は罪人の手だ。ミーコがどう思おうと、シロの手は血に濡れている。

「この家は小さいだけあって、風呂もやはり小さいのだな」

「悪かったな」

「悪くないぞ。逆じゃ。広いだけの風呂など寒いからな。こんなにあたたまる風呂は初めてじゃ」

「広い風呂だったのか、お前の家は」

「まあな。とても広くて、風呂なのに寒かった」

「そうか」

 シロがうなずいたところで、同居人がやってきた。

「はい、葛湯出来たよ」

「おお、ありがとう。葛湯は好物じゃ」

「熱いから、気を付けてね」

「うむ。えーと、すまぬ、そなたの名は」

「クロだよ」

 同居人が答えると、ミーコはきょとんとしてクロを見上げた。

「クロ? そなたら、シロとクロか?」

「そう。シロとクロ。よろしく」

「そうか。わらわはミーコ。お心遣い痛み入る」

 そう言って、湯呑を受け取ったミーコはふふふと笑って見せた。やはり、どうにも浮世離れしている。言葉遣いもさることながら、寒さを感じるほどの広い風呂にしか入ったことが無いというのが気にかかるのだ。巫女になる前、少女はどこにいたのか。巫女の情報は、基本的に一般の人間には開示されない。出身地には箝口令が敷かれ、破れば厳しい罰則がある。どこから選ばれたのか知られれば、不平等を生むからだ。それでもやはり、普通の町娘として暮らしていた人間が神界に馴染むまでは、かなり時間がかかるだろうということは誰もが解っている。

 シロの足の上に座って、ミーコはこくりと葛湯を飲んでいる。この幼い少女は、人間のはずなのに神界よりも下界に馴染みがないように見える。

「シロ? どうかしたか?」

「いや、別に」

 考えても答えは出ない。そもそもシロの知った事ではない。今シロに出来るのは、少女の濡れた髪を乾かすことくらいだ。

 しばらく無言で髪を拭いていたら、眼前の頭がかくんと傾いた。

「ミーコ?」

 後ろから覗き込むと、ミーコは目を瞑っている。すぅすぅと、穏やかな寝息を立てて。持ったままの湯呑は空になっている。

「あらま。寝ちゃった」

 ミーコはやがてゆっくりと身体ごと傾き、シロの足の上にぽてっと身体を預けた。

「…なんで俺がこんなガキに膝枕してやらなきゃなんねぇんだ」

「懐かれたねぇ」

「うれしくねぇよ」

「またまたー」

「やかましい」

 ミーコの手から湯呑を取り、脇に置く。

「で、どうするの」

「なにが」

「わかってるくせに。その子よ。返すの?」

「こいつの自由だ。帰りたくなったら帰ればいい。帰りたくないならここにいればいい」

「ここに、ねぇ」

「嫌か?」

「んー? 全然。でもまあ、なんていうか。逃げられないのかもね」

 それは、先ほどシロも思ったことだ。

 逃げるなと、誰かに言われているような気がした。

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