第2話

 シロが住むこの小さな島国は、太陽より産まれし神が統治している。神とは太陽からこの島国に降りて来て移り住み、国の生活を創造した者。人間の十倍もの寿命を持ち、天を駆け、人間には無い能力を持ち、慈悲を持ち、博愛を持ち、人道を説く。人間たちは皆、神の恩恵を受けてこの国に生きている。神のもとに人々は平等で、そこに貴賤はない。

 現在、神は一柱のみとなっているが、最初から一柱だったわけではなく、さほど多くはない仲間たちがいた。

 天孫降臨の後、しばらくこの世界は神の楽園だった。太陽から降りてきた神々が、自由に生活していた。ところが数百年をかけて、神々の人数は段々と減っていった。どういうわけか、願っても祈っても太陽から仲間が降りてこないようになったのだ。代わりのように、月から最初の人間が彗星のように降りてきた。神々は驚いた。自分たちが太陽からしか産まれないのに対し、人間たちは月から降りてくるだけではなく独自の繁殖を始めたからだ。

 ただ、神々は驚くことはしたものの、人間を排そうとはしなかった。むしろ歓迎した。太陽にとって月は子どものようなもので、愛するにはそれだけで十分だからだ。人間たちも、誰に言われたわけでもなく神々を敬った。まるでそうであることが当然のように、神々に仕えるようになった。それは、神の数が減り、たった一柱になった現在でも変わらない。

 この国では、神と神に仕える神官が住まう、海に囲まれた島を神界といい、神界と人間が住まう地を繋ぐ港の関所をほかの関所と区別する為に神関と呼ぶ。

 現在、神は人々の前に姿を見せない。先天的、後天的に目の見えない者、耳の聞こえない者が不平等だと感じないようにする為だ。この世界は平等であるからこそ争い無く成り立っている。

 当代神以外の神族は絶滅した為、神官たちは人間だ。年に一度の難しい試験を受けて合格した者のみが神官になれる。彼らは人間の憧れの職業だ。そんな神官たちであってもよほどのことが無い限り会うことが許されない神に、唯一定期的に会える者がいる。それが巫女だ。

 巫女は、神に選ばれた人間である。「巫女」とは書くものの、選ばれるのは女性とは限らない。歴代巫女には男性もいた。この世界には、男女にも不平等はない。巫女選抜に血筋は関係なく、神からの宣を受けた先代巫女が迎えに来る。巫女に選ばれるということは、神と人間との懸け橋になることを指し、人間の中ではこの上ない誉とされている。神官のような試験を受けることなく神界に入ることが出来るのは、巫女しかいない。

 ただし、巫女に選ばれた人間はその時点で神界に入り、それ以降は神の言葉を降ろす以外で人間と口を利くことは許されない。神官はこの限りではないが、例え家族であっても、神の許可無しには会うことさえ許されなくなる。これも、巫女の家族ということによる不平等を生まない為だ。人間では誰よりも神に近く、尊い存在。それが巫女である。

 だがそれは同時に、神でも人間でもなくなるということだ。自分と同じ目線の者が無になってしまう。誰かと気軽に雑談も出来ない。人生の途中から召し上げられる分、巫女は神以上に孤独な存在だと言える。

 見たこともない、そしてその先頻繁に会うわけでもない神一柱と、親しい人間すべてと。

 天秤に掛けた時に後者を取る人間がいてもおかしくはない。幼い少女ならなおのこと。

 そんなことをぼんやり考えながら、シロは歩いた。

「シロの家は近くか?」

「ああ、少し先に赤い屋根が見えるだろ。あそこだ」

「ふむ。その、左手に持っているものはなんじゃ? なにやら温かいにおいがするが」

「肉まん」

「ニクマン……おお、知っておるぞ。肉まんじゃな? 食べ物であろう?」

「ああ」

「ふふ、そうか。実物を見てみたいと思っていたのじゃ。家に着いたら見せてくれ」

「まあ、見せるくらいなら…」

 しかし、なにかおかしい。シロは思った。

 この少女が巫女であることは疑いようがないが、この世間知らずさはなんだ。巫女とは確かに浮世離れした存在ではあるが、巫女に召し上げられるまでは普通の人間なのだ。少女は確かに幼いが、傘も持ったことが無い、肉まんの実物も知らないような年齢にも見えない。巫女に召し上げられる前は、ものすごいお嬢さまだったりしたのだろうか。この世界に、そんなに大きな貧富の差はないはずなのだが。

 少しだけ考えて、止めた。聞いたら面倒なことになりそうだったからだ。

 面倒事は御免だ。

 もう、御免だ。


「着いたぞ」

「おお、ここがシロの家か。ずいぶん小さいな」

「悪かったな」

 玄関の引き戸を開けようとして、シロが止まる。

「おい、傘畳め」

「たたむ…?」

「………」

 舌打ちしそうになって、そりゃそうかとシロは息をついた。持ったことが無いのなら、畳んだことなどあろうはずもない。仕方なくミーコを抱えたままなんとか自分で傘を畳んだ。

 足場が不安定になったミーコは、シロの首にしがみついてその様子を興味深げに眺めていた。

「おい、帰ったぞ」

 戸を開けて、シロが中に声をかける。玄関の正面に伸びる廊下の奥には襖があって、その奥から返事があった。

「遅ーい! 肉まん買うのに何時間かかってんの!」

「事情があるんだよ。いいから手ぬぐい持ってきてくれ」

「濡れたの? 傘持ってってたでしょう」

 訝しそうな声とともに、襖が空いた。シロの同居人が顔を出す。

 肩の線を越える髪を耳の横でふわりとまとめ、落ち着いた藍色の小袖を身にまとう彼女は、シロとシロが抱えている少女を認め、動きを止めた。

 間があった。

「……。誰それ」

「ミーコだ」

「ミーコじゃ」

「猫か。っていや、それ巫女でしょ」

「違う。ミーコだ」

「うむ。ミーコじゃ」

「いやだから、巫女でしょうよ」

「いやだから、巫女みたいな恰好をしたミーコだ」

「そうつまり、巫女のように見えるであろうがただのミーコじゃ」

 シロの同居人は、額に手をやった。また間があったが、やがてふうと息をついた。

「うん、まあ、いいか。まずは手ぬぐいね。風邪でも引いたら大変だもの。待ってて」

 言って、ぱたぱたと家の奥の方へ消えていく。それを見届けて、ミーコはふふふと笑った。

「ごまかせたようじゃな」

「なんておめでたい頭してんだ」

「なに、違うのか?」

「……いや、もういい」

 言い返す気も起きず、シロは下駄を脱いだ。懐に入れていた鼻緒の切れた草履も出す。廊下に上がるとすぐに手ぬぐいを持った同居人が戻って来た。

「はい、手ぬぐい」

 言いながら、ふわりとミーコに手ぬぐいをかけた。白い頭巾をかぶったような姿になる。

「かたじけない」

「今お風呂も入れ始めたから、沸いたら入りなさい」

「む…。至れり尽くせりじゃ。ありがとう」

「良い子ね。ちゃんとお礼が言えて」

 笑って見せた同居人に対し、ミーコは手ぬぐいで顔を隠した。そして、ぽつりと言う。

「違う」

「うん?」

「わらわは…良い子などではない」

「どういう意味?」

 ミーコは答えない。その小さな身体が強張っていることに、少女を抱えるシロは気付いていた。

「まあ、いいだろ。とりあえず、あったまるほうが先だ」

「それもそうね。濡れた着物を着替えなきゃ。着物出してくる」

「ああ」

 同居人がまた家の奥に走って行って、シロも歩き出した。

「風呂はすぐに沸くから、脱衣所で待ってろ」

「もう家の中であるし、わらわは自分で歩けるぞ」

「足袋も濡れてるだろうが。廊下濡らされちゃ迷惑なんだよ」

「まさかそなたも脱衣所に入る気か?」

「お前を放り込むだけだ。子どもが妙な心配してんじゃねぇよ」

 すたすたと歩いて廊下を曲がり、さらに家の奥へと進んでいく。脱衣所は、廊下の突き当たりより少し手前に引き戸がある。

「ほらよ。降りろ」

 ミーコを降ろして、シロは軽くなった右手を小さく振った。

「しびれたか?」

「そんなにやわじゃねぇ」

「力持ちなのじゃな」

「普通だ」

 素っ気なく答えると、ミーコは笑った。

「やっぱりシロは良い奴じゃ」

「言ってろ」

 罪人に向かって笑う逃亡者。

 滑稽だと思いながら、戸を閉めた。

 と、そこにシロの同居人が戻ってくる。

「ミーコ、着替え持ってきたよ。入るね」

 声を掛けてから引き戸を開ける。一緒に入ろうか、いや遠慮するという会話を背に、シロは自室へと足を向けた。濡れているミーコを抱えていたせいで、シロの右腕もしっとりと濡れているのだ。のみならず、濡れた草履を懐に入れていたので腹のあたりも冷たい。

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